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弟子屈は温泉によって発展したまちである。屈斜路湖と摩周湖の2つのカルデラ湖を有する阿寒摩周国立公園への玄関口として賑わっていた。美幌峠から望む屈斜路湖は評判通りの美しさであったが、それにまして感銘を受けたのは眼下に広がる阿寒の原野であった。湖の周囲に果てしなく広がる深緑がある高度を境にして毛足の短い黄緑の絨毯に切り替わる。冬にこの場所は真っ白な雪で覆われるのだ。深い緑と白、そして凍った湖面にうつる空の色のコントラストはさぞ美しだろうと想像をめぐらせた。
湖から弟子屈のまちへは車で30分である。まちの中心に近づくと徐々にガソリンスタンドやディスカウントショップが現れ、しばらくすると大きな交差点へと出る。
このあたりが弟子屈のまちの周縁であり、戦後に新しくつくられた住宅街である。長い坂を下り、メインストリートに入ると商店街が現れる。古びてはいるが営業している店舗も多く、かつての賑わいを想わせる。降車すると強烈な硫黄臭が鼻を突き、弟子屈が温泉のまちであることを改めて認識させられた。
弟子屈のまちは四周を山に囲まれた谷底に位置している。まちを歩いていて気がつくのは、植物の存在をとても近くに感じているということだ。理由の1つは、山の際がまちのすぐそばにあり、壁のようにまちを取り囲んでいること。そしてもう1つはまちなかの再野生化である。たとえば、高層化した温泉宿の足元には庭園がつくられていたが、その多くが廃業した結果、庭の植物が街路空間の規模と境界を越えて育っているのだ。
弟子屈という地名はアイヌ語で「岩盤」を意味する「テシカ」と「上」という意味の「ガ」より成る。岩盤が固く魚を捕る網が仕掛けられないことからこの名前がつけられたそうだ。もともとアイヌの集落があった釧路川の畔に、明治以降において和人が入植し、まちを形成していった。数は少ないもののアイヌもともに暮らしていたことが明治期の記録に残されている。
1883年に温泉の営業を開始した弟子屈は、同時期における硫黄山の採掘や釧路鉄道の建設拠点として成長を始め、交通の要衝として賑わっていった。資源の枯渇により1896年に硫黄採掘が中止されて以降は、北部の湖畔地域における別荘地開発および観光開発と平行して多くの観光客が訪れる温泉街へと発展していった。釧路の奥地へ旅行する際の拠点のまちであった。
現在の基幹産業は酪農を中心とした農業と林業、そして観光業である。自治体行政の中心であるこのまちは鉄道駅と高校までの教育機関を有している。高度成長期頃の賑わいは見る影もないが、商店街や飲食街、コンビニエンスストアや大型のドラッグストアに加えて、診療所や高齢者向けの施設、そして公園も充実しており、高い生活機能を有するまちであるといえる。
弟子屈のまちの大部分はグリッド状の町割りで形成されている。勾配が急になる南西の台地上に弟子屈神社が鎮座しており、境内前の参道と直交する通りを北西方向に伸ばした、釧路川の両岸にあたる部分がまちの核となる商店街である。商店街は同じく台地上にある顕正寺の門前において駅のほうへとその向きを変え、数度の方向転換を経ながら標茶方面へ向かう道路となる。
このメイン通りを軸に短冊状のグリッドが敷かれており、神社が鎮座する台地側から順に公共施設と住宅に区分されている。川の内湾部にあたる2つの土地だけはグリッド状の町割りがされておらず、温泉街としてほかとは異質な空間が形成されてきた。度重なる氾濫のために居住には適さないと判断されたのだろうが、反対に水辺のもつ境界性や異界性が温泉街の空気感の醸成によい影響を与えたと想像できる。一方、釧路川北岸や台地上の住宅地は戦後に開発されたものである。それ以前は大部分が農地であり、通り沿いに住宅が立ち並ぶ程度であった。
短冊状に区分された住宅地は戦後の経済成長期において徐々に埋まっていった。1970年代には低層の戸建て住居が立ち並び、充分な広さの駐車場と庭をもつ住宅の連続がゆったりとした街路風景をつくりあげていった。現在は空地化し、駐車場やただの草地となった土地も多くみられるが、街路の幅と面する庭が広く、建物自体も低い住宅地からは、少し離れた場所の電波塔や小学校舎のキューポラ、あるいは高層のホテルを望むことができる。こうした小さなランドマークたちがこのまちの集合的な印象をつくり出しているともいえるだろう。
歩行者により強い印象を与えるのが、どの街路、どの方向においても、視線の先に存在し、そして眼前に迫ってくるような山の際である。原野に囲まれた谷間にグリッド状の町割りが敷かれたこのまちでは、ほとんどの街路において視線の先に森林を望むことになる。そして、直線状の街路とその奥に周囲の建物よりも高く立ち上がる樹木の組み合わせが、空間が圧縮されるような認知作用を引き起こし、この街路空間を実際よりも短く感じさせている。また、勾配に関わらずグリッド状に敷かれた街路の起伏の変化は激しく、視線の先に立ち上がる樹々との距離感をさらに近くしていると考えられる。
このような空間体験がこのまちを歩いている時に感じる野生との距離の近さを生みだしている。そして常に自らの身体の近くに野生を感じることによって、まちの中にいながらにして原野に取り囲まれているような感覚をも抱かせるのだ。それは弟子屈のまちが原野の中に異物として埋め込まれていることを再認識することでもある。長い時間をかけて森を切り開き、人間の住みやすいように改変してきた平野部の都市では感じることのできないような、建造環境と自然環境のせめぎ合いがこのまちにはある。そしてそれは親密さとも異なる性質のものである。
低密度なまちの多くに共通しているように、まちの住民は植物を愛しており、多くの住宅が丁寧に剪定された樹木や草花で構成された庭をもち、まちのあちこちには季節の花で満たされた可憐なプランターが設置されている。それらは塀などによって囲われることなく、敷地の境界を曖昧にしながら道路へとあふれ出し、外部空間を彩っている。こうした植物への愛情がまち全体の優しげで穏やかな印象をつくっている。しかし、弟子屈にはそれだけにはとどまらない野蛮な風景が存在している。
まちのグリッドの端部に近づくにつれて、つまりは森林の際に近づくにつれて様相は一転し、いっそう力強く生命力を感じさせる風景が現れる。たとえば、まちの最も端に鎮座する弟子屈神社の境内はほかの地域の神社と比較してとても鬱蒼とした原生林そのものである。そのような環境は周囲にも影響を及ぼしている。山際の傾斜上につくられた住居群と草木の距離は十分に近く、ぎりぎりの均衡を保ちながらも、今にも取り囲まれそうになっている。空地の足元にはハスが生い茂り、白い塗料で塗られた住宅とのとても美しいコントラストを生みだしている。足を踏み入れるのが困難なほどに繁茂した下草と青々とした樹々の間にいくつかの住居がたたずんでいる様子からは、植物と人間の緊張感のある並存をみることができる。このような緊張感を孕んだ外部空間を「蛮行の庭園」と呼んでみたい。
このように弟子屈では様々なグラデーションをもちながら植物が人間の領域に入り込んできている。常に目前に現れる森林の際が住民と植物との心理的距離を近づけているのかもしれない。
最初にも述べたように、温泉街として開発されてきた釧路川の2つの湾曲部の内側にも適所に大小の樹木が残されているが、これらは温泉街に彩りを与え、湯治客に安らぎを与えるために飼い慣らされた自然であった。観光業に往時のような勢いがなくなり温泉街そのものの老朽化が進んだ現在においては、植物の勢いが人間の計画した空間を侵食しつつある。しかし、それらは巨大な建造物や広い道路を覆い尽くすほどではなく、生命力に溢れながらも均衡のとれたピクチャレスクな風景を生み出している。「蛮行の庭園」とは場所を取り返さんとする植物のふるまいを人が甘んじて受けとめている状態なのではないだろうか。そのようなことを考えていると、どこからか車の通らない道の真ん中をキツネがこちらに向かって、悠然とわがもの顔で歩いてきたのであった。こうした風景のすべてが、原野を切り開いてつくられ、周囲にいまだ残る原野の自然によって囲繞されたな小さなまち弟子屈の雰囲気を構成している。
温泉街から釧路川の対岸に目を向けると、そこには荒々しい原生林が横たわっている。また、まちの南部を流れる鐺別川の畔には草木が生い茂り、近代以前の自然豊かな弟子屈とその清流の畔で営まれていたアイヌの暮らしを想起させる風景が残されている。訪れたのは蝦夷梅雨の時期であり、流量は多く、身の危険を感じるほどであった。現在のように治水工事が行われ、水流が制御される前は、2本の川が幾度となく洪水を起こし、多くの被害を出してきたことは想像に難くない。しかし同時に、これらの川は食料や生活に必要な資源、そして身の安全を提供する場所でもあり続けてきた。特に釧路川の畔は、その川辺のもつ境界性や異界性、風光明媚な景色を活かし、温泉街へと読み替えられた。温泉や周囲の盛り場はこのまちの代名詞として旅人の心身を癒し、一方で住民の暮らしそのものでもあった。
国内における観光産業自体の衰退にともない、現在は多くの旅館が閉業し、温泉街としての盛期のような活気はなくなってしまっている。しかし一方で、意気揚々と植物が生い茂り、人間と植物が絶妙に均衡を保つ魅力的な街路空間の先では、閉ざされた温泉宿の水辺空間をまちの人びとに開放するような再整備が進んでいる。建物は取り払われ、広い敷地は治水システムの更新とともに、子どもが安全に遊ぶことのできる親水公園へと姿を変えたのである。弟子屈のまちは今、豊かな自然との均衡の中で、若い世代から老人までもが住みやすいまち、そして訪問者を受け入れることのできるまちへと変わりつつある。
2022年6月28日