湖底路
【あー4】
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【小説】しゃべくり系小説短編集他、旅行記、評論
鉄道という共通点が結ぶジャンルごった煮サークル。
X 米ノ原 @maibaraadd https://x.com/maibaraadd
note 米ノ原 koteiji https://note.com/koteiji
Train of nights
姫路方面、新快速。方向幕とLED表示の中のそれだけを確認して乗り込んだ終電間際の列車は、金曜日という事も手伝って、案の定、倦怠感に包まれていた。近江塩津だか長浜だか、はたまた野洲(やす)だか、始発駅なんてどないでもええから、とにかく、はよ着いてくれよと、乗客の疲れきった顔は言っている。先頭車両の一番前のドアから乗り込んで、いつものようにどんどん後ろの車両へ移動していく。あ、見つけた。今日は3両目か。その車両の後方にある優先座席のボックス席の進行方向逆側の席の左側に座る。なんだかまどろっこしいな。後で図(図1)をつけておく。目の前には30になろうかという年頃の見知らぬ男が座席と窓に深くもたれかかり、決して揺れない訳ではないのだが、とても心地よさそうに眠っているのが見える。まつげが少し短くて、ほくろが若干多い気がするけど、とても滑らかそうな肌でなんとも言い難いくらいかわいい。
あああ、本当かわいい、かわいすぎる、うあぁぁぁ。もはや触りたくてたまらない! しかし、触ってはいけないし、後でゆっくり見るために盗撮することも私は許していない。あくまでこれは、その時かぎりの楽しみなのだ。そうじゃなくても触ったら駄目だとかそういうツッコミは気にしない。
これだから私は夜遅くまで働こうという気になれるのだ。これを見るためにわざわざ夜に働くのだ。今、車窓から見える明石海峡大橋のライトが紡ぐ点線を見たいからとか、そんなロマンチックな目的はない。ただ、他人の寝顔を見て勝手に満足したい、それだけだ。あくまで自分だけが満足したいだけ。『この電車は新快速網干(あぼし)行きです。次は西明石、西明石……』って前の人起きた! しかし大丈夫だ、問題ない。こういう時の自然な目線の逸らし方も完璧に身につけた。前の人は降りるためだろう、何かを探している。切符でなく、定期だった(京橋‐西明石)。私はその様子を横目で見る。やっぱり、寝てるときの方が好みだな。西明石停車。前の人は雑踏に消える。発車を知らせる車掌の放送。閉まるドアの音。223系とやらの、個性に乏しいモーターの唸り。そして電車は滑らかに動き出す。西明石は新幹線の停車駅でもあるけれど、果たして利用客はいるのだろうかといつも思う。『ご乗車ありがとうございます。この電車は新快速電車の網干行き……』次の停車駅は私の降りる加古川(かこがわ)なのだが……。
さて、加古川駅に着くまでは約10分ある。その間、さらに別の寝顔を求めて車両を移動するべきなのかどうか、さてどうしたものか。なんてことを思っていると、眠りに落ちるか落ちないかの境目をさまよい、かくかくしているおっさんが左前方にいた。おっさんであろうと、寝顔はやはり、それなりの愛嬌があるものだ。さぁ、早く落ちろ。眠りに落ちろ! がくっとうなだれろ。眠りに落ちろ! 寝てしまえば楽になれるぞ! なんて念を送っていると、しっかり眠りに入った。あまりにもがっつりうなだれすぎて、いつか前に倒れ込んで、前の座席にガーンといかないかが心配だ。ちなみに自分からおっさんには約30度の角度があるのでうなだれると正面から見えない! なんて心配はない。個人的な趣向を言えば75度(図2、って一見開きでいきなり図が2つもあるのか。)から見るのが一番好みではあるが、ここでそんなこといっている場合ではない。世の中には好む好まないにかかわらず受け入れなければならない時がある。あ、この場合はどちらも好むに属するに入るのか。あれ? 今、目の前を流れていった駅名標はどこの駅名標だったんだろう。西明石から加古川の、大久保、魚住(うおずみ)、土山、東加古川、の順の4駅のどれかだが。あ、巨人の星だっけ、動体視力を鍛えるのにずっと駅名標見ていて『今通過したのは鳴尾駅だ』とかって言っていたのは。そりゃあ動体視力鍛えようとかっていう人でやっと見ることができるならば、意識してない人、ましておっさんの寝顔を眺めて、物思いにふけてる奴(古語:眺む→物思いにふける)は尚更見れない。『まもなく加古川、加古川です。加古川線最終列車厄神行きは23:19発、着きまして……』
え、嘘や、つまりさっきのは東加古川やったんか。というか、加古川線の最終に接続ってってことは、今乗っている電車は言う程、終電間際の電車とちゃうやん。やったら降りずにこのまま寝顔を見とこうか。電子音とガシャンというドアの音が鳴る。どうせ姫路まで乗っていくやろ? もう発車しちゃっていいよね? と言わんばかりに車掌の放送は急かしてくる。前から3両目は階段が近かった。それならまぁ今日のところは降りとくか。
銀地に薄い水色のICカードの定期券を改札にかざす。姫路から大阪間の3ヶ月定期。今日のバイトは三宮だったが、大阪にも姫路にもバイトがある。交通費支給バンザイ。ただ、いつバイトがなくなるかわからないから6ヶ月定期は買うことが憚られる。まぁ、姫路まで合法的に乗れるので、ものすごく素晴らしい寝顔を見つけたときは姫路までわざと乗り過ごして引き返すこともある。(逆もしかり)だから、いうほど終電に近くもないことがわかって、一瞬迷いが生じたのだ。
そこまでして寝顔が見たいのか。
うん、見たいよ。だから何?
まだ昼の蒸し暑さが冷めない暗闇に向かって、家に向かって、自転車のペダルを漕ぎ出した。
寝顔にはまったきっかけは高校1年のときの、生物の授業だった。