夜店。夜の店と書いて「よみせ」と読む。わくわくする語感だ。
こどもたちにとって祭りとは夜店に行くことではなかっただろうか。
金魚すくいにせよ、おもちゃを当てるくじ引きにせよ、どこかペテンにかかる歓びがあった。
そもそも、決して上等ではない食材や調理による焼きそばやらお好み焼きやらが、
あんなに美味しく感じられるのは、華やいだ場が醸し出す高揚感というよりは、こちらが積極的に騙されに行ってるからなのだとおもう。
日本映画には祭りのシーンが多い。
もう死語かもしれないが、キラキラ系と呼ばれる青春恋愛映画群でも、文化祭が重要な
見せ場になっていた。欲張りな作品は、ヒロインが浴衣に身を包む、花火とセットになった祭りと、王道の文化祭の二点盛りなんてこともしていた。
夜店にしても、文化祭の出し物としてのお店にしても、映画のためにわざわざこしらえる。
手間暇かけて祭りを再現する。ささやかにして、大がかりな舞台装置を、屋外に再現するとき、現場は活気づく。
映画はよく祭りにたとえられるが、どこからか来て、またどこかへ去っていく、テキ屋の
お兄さんたちに似た雰囲気を持っているベテランスタッフが、どの現場にも必ずいる。
一昨年、ある映画のオフィシャルライターを務めた。
ちょうど今頃だった。諏訪湖で祭りを再現した。作品のクライマックス。
湖畔に夜店を連ね、実際に花火をあげた。夜の湖面に映る花火は、現実のものであって
現実のものではない。だから美しかった。
虚構とは幻のことだ。祭りのように儚い。
始まったら、終わる。それが映画だ。映画の現場も同じ。スタッフたちは流れ流れて、
また別の組を形成し、別な祭りを続ける。終わらない祭りなどないのに、祭りを始めつづけるのだ。
フィクションとは、騙すことであり、騙されること。
現場の真実を知っているからこそ、騙されるプロでありたい。それが観客だとおもう。
撮影所に出張で来てくれるラーメン屋さんがいる。
現場でいただくラーメンは格別。
ほんとうは実際の店舗で食べるほうが美味しいに決まっている。だが、どの顔もキラキラしている。
騙すプロたちは、騙される歓びもよく知っているのだ。