泳げない自分にとって海は眺めるものである。
泳ぐひとは、ただビーチサイドにいるひとのことは理解できないかもしれないが、誰かが波とたわむれている姿をぼんやり見ていることは、結構すこやかだし、案外退屈はしない。もっとも、こんなシチュエーションはプールサイドのほうが画になるだろうが。
いずれにせよ、自分が好きなひとが泳いでいる姿を見ていることが、わたしは好きなのだ。
海そのものは別に好きでもなんでもない。
ただ、空を映り込ませる海は健気だし、海に映り込んだほうが空は綺麗だとおもう。海の色は空の色、海の色は宇宙(そら)の色。そう書いたのは日本の著名なSF作家だ。
夕陽は海があって初めて完成するものではないか。太陽が沈むという概念は人間が生み出したただの妄想に過ぎないが、それを夢想と呼んでいいくらいの説得力が海にはある。つまり、海があるから太陽も沈むことができるし、地平線なんていうやたらにロマンティックなボーダーラインも海という魔が招き寄せた幻想なのだろう。絵画にしろ写真にしろ、海というものが存在していなかったら、ずいぶんと痩せ細っていただろうし、芸術全般はもっと味気ないものになっていた可能性はある。
海はたくさんの名作映画を、名シーンを生んできたが、わたしにとっての映画の海はキラキラしていたり、せつなかったりするものではなく、真っ暗な海岸であり、アンビエントで規則正しい波の音である。雨の音も好きだが、雨の音よりおおらかで、宇宙の法則を感じさせてくれるマクロなたたずまいは、ミクロな雨の音のことも抱擁しているように感じられる。
波の音、雨の音、映画、といえば、新婚旅行で訪れたバリ島をおもいだす。
ちょうど淀川長治が亡くなった少しあとのことで、妙に感傷的になっており、バリ島の海を眺めながら雨と海の循環活動を体感し、生命も蒸発したり、また降ってきたりということを繰り返しているのだ、と知った。頭の発見ではなく、身体の実感として、そのことを理解したのは初めての体験だった。
海そのものは別に好きではないが、海が好きなひとのことは好きだ。
特に、サーファーには憧れがある。台風が来たら血が騒ぎ、死ぬかもしれないのに高波に挑んでしまうその姿に、わたしはヒロイズムではなく、原初の生きものの循環活動を眺めているのかもしれない。