大晦日は一度くらいだし、さすがに元日は未経験。だが、お盆も黄金週間も聖夜も関係ない。取材はいつでもやって来る。今日の午後、どうですか。なんてことも、ちょくちょく。ピンチヒッターだってある。代役のときは燃える。その日インタビューして、翌日に原稿をあげる。急なスケジュールをいきなり伝えられるのも好きだ。


わたしの仕事に曜日はない。均等にまんべんなく依頼が振り分けられるわけじゃないし、特定の時期に集中するのも当たり前。超がつくほどの季節労働者なのだ。その季節は自分で決められないし選べないし、一瞬で終わるシーズンも珍しくはない。すべては慣れだ。生きることのほとんどが慣れだろう。時間感覚など、そのさいたるもの。


時制としての日曜日がない者にとって、それは概念にしかならない。つまりイメージとしての日曜日。逆に言えば無限。なんでもあり。日曜日はあたまのなかにある。胸のうちにある。まずはそう言い切っておこう。負け惜しみかもしれないけれど。


こどものころから計画を立てることを愛好している。夏休み、どう過ごすか。結構、綿密に書く。だが、実行できたためしはない。立てた計画が完璧すぎるからだ。この悪癖には大人になってからも支配されており、劇場用パンフレットのスタッフ・キャストインタビュー群とかノベライズなど、たくさん文字を打つ必要がある場合は、執筆スケジュールをしっかり作成する。もちろん、実現できない。よしやるぞ! 自分を鼓舞しているヒマがあったら、原稿を書けばいいのだ。


計画とは自分にとって、逃避だということがほぼ判明している。なにかをスタートさせるための序曲/プロローグではなく、思考の亡命なのだ。かっこつけて言えば。


わたしだけの亡命。これが日曜日。明日が月曜日だからこそ日曜日は存在できる。実行するはずがないとわかりながら分刻みのスケジュールを記す、壮大に無駄な時間にこそ、日曜日という心温まる称号を与えたい。