中学生から高校生にかけて、ふたりの女性と文通していた。
ひとりは同い年。もうひとりは少し年上のひとだった。
観た映画や聴いた音楽、そのほかいろいろなことを手紙に書いた。
十代のころの経験が、いまの仕事につながっている。
出来事を伝え、感動を表現することは、感性や価値観を共有することだった。
やりとりを繰り返し、相手を知る。相手を知ることは、自分を知ることだった。
相手のために書くということは、自分のために書くということだ。
相手がなにものかを知ろうとすることは、自分がなにものかを知ることだった。
メールやメッセンジャーやLINEと違って、自分が書いたものは手許に残らない。
それがよかった。
だから、そのときどきの、その瞬間瞬間の、正直な想いを綴ることができた。
手紙が飛び立ったあとは、タイムラグがあって、やがて返事がくる。
すぐにくることもあれば、なかなかこないこともある。
はらはらしたり、どきどきしたりした。
そのことによってもたらされる、こころの揺れもたのしんでいたことが、今ならわかる。
わたしのこころ模様が、多種多様なカラーとテクスチャで、時間を伸縮させていた。
手紙を書き終えて、封をするときの、あの気持ち。
手紙が届き、封をあけるときの、あの気持ち。
わたしの手紙は、もう、わたしのものではない。あなたのものだ。
あなたの手紙は、もう、あなたのものではない。わたしのものだ。
ふたりには逢ったことがない。
逢ったことがないから、書きつづけることができていた。
書くということ。
読むということ。
わたしは、彼女と彼女から、それを学んだ。