できれば、耳で書きたいと思う。
耳の穴に鉛筆を突っ込みたいとは思わないし、耳たぶにキーボードが打てるはずもない。
あくまで比喩だ。
聴覚をよりどころにして、文章をつづっていきたい。
ある一語を選ぶとき、ことばの響きを大切にしている。聴く、をイメージしながらチョイスされたことばたちの連なりが、メロディを奏でてくれたらうれしいし、できることなら、音像を誘発してくれたら、と願っている。
地層のように、あるいは歴史のように、縦に集積していくのではなく、横に流れていく、
いや、ときには風にさからうことなく、あっけなく飛散してく音楽のように、響きをしたためたい。海をこえ、山をこえ、谷に降り、川にのまれ、丘にのぼり、おにぎりなんぞを頬張りながら、林をよこぎり、森にたたずみ、滝をながめ、雲をみつめる。こころに地図を描くように、サウンドをデザインしてみたいのだ。
気分屋だから、バイオリズムに左右される。きょうのところは、いまこのときは、ということでしかないが、「告白」ということばがかかえもつテクスチャが好きだ。
か行からはじまることばはシャープだし、硬さがある。たとえば「屹立」ほど強引に迫ってはこないものの、なかなかに思いつめた風情が、音色に宿っている。意味じゃない。音が、深いところで、覚悟の腹を据えている。
だから。
わたしたちは、「告白」と口にするとき、たいせつに、いくばくかのやわらかさをまとわせながら、声のラッピングをする。
割れものをプチプチで包装するような趣が、「告白」という声にはある。
それを、解き、放つ、から「告白」。
考えてみれば、あらゆる文章は「告白」でしかない。