映画を観るのも書くのも仕事なので、なるべく私情をはさまないようにしている。おのれを律しているというよりは、はさむと面倒くさいし疲れるからだ。観ることも書くことも、対象と自分の関係性に他ならないが、そこに私情、つまりこちら側の事情を持ち込むと、関係性が不純なものになってしまう。だから、相手側の事情、つまり映画の舞台裏のことだが、そういったものにも一切関心を持たない。苦労して作り上げたとかなんとか、そういうことはどうでもいいし、映画とわたしの関係性においては余計なものでしかない。わたしは映画とフェアな関係性を保つために私情をはさまない。
しかし、多くの観客が自身の実人生を重ねあわせるように映画を観ていることは知っている。生きてきたことから得られる経験値が虚構の物語を肉厚にする。それを人は「共感」と呼び、愛でるし耽溺する。そこも含めての娯楽であることは充分に理解している。だが、わたしにとって映画を観ること書くことはそのようなことではない。
だから「わたしにとって特別な映画」という主題は難問である。「特別」という言葉はこの場合、なんらかのかたちで私情を呼び寄せてしまうからである。
舞台裏には興味がないが、舞台裏に立ち会うことはよくある。オフィシャルライターという、撮影現場に付き添い取材する仕事をしているからだ。
スランプ中のクラシックギタリストと、 PTSD に陥った女性ジャーナリスト。ふたりの出逢いとすれ違いと再会とを、あくまでプラトニックに紡いだ『マチネの終わりに』は完成した映画を高く評価しているが、実は幻のラストシーンがあった。
パリで1ヶ月、ニューヨークで1週間ロケを敢行、しかもフィルム撮影というこの大作の締めくくりは、セントラルパーク。撮影許可を得たのは2日間だけ。ところが1日目はなんと初雪で中断。夕刻から夜にかけて大雪となった。寒さの厳しいこの地でも、初雪が大雪になったことはないらしい。
翌朝は快晴、しかし大量の残雪。スタッフは早朝から雪かきに追われた。当初予定されていた場所で撮影するが、監督が画を気に入らずボツ。別なシチュエーションで、ふたりの別れが捉えられた。この公園にしかないであろう風情のある階段をのぼりながら、ふたりは語り、別な道へとゆく。天国のように美しい場面だった。
しかし最終的に監督は蛇足と判断。完成した作品は、そのシーンに移行する直前で終わっている。後日、わたしは監督に問いただした。なぜ、切ったのかと。長く世話になっている監督だからこそ出来た失礼な振る舞いであり、その答えにも納得しているが、あのラストシーンを見たかったという想いは今もある。
撮影は11月だった。あれから7年が過ぎようとしている。
これがわたしの私情である。