台湾関連の仕事をしているから好きな台湾アーティストの曲をSpotifyのプレイリストに入れている。台湾映画もそれなりにチェックしていて、引っかかった作品があれば映画館に足をはこぶ。
2017年の東京フィルメックスで上映されていた『ジョニーは行方不明』という作品が気になっていた。そのタイミングでは観れなかったが、翌2018年の秋に『台北暮色』と改題して上映された。渋谷ユーロスペースのウェブサイトで作品情報を漁り、配給元へのリンクをたたいた。
「A PEOPLE(エーピープル)」という配給会社の名前はその時はじめて知った。ウェブサイトのファーストビュー。作品のメインビジュアルは黄昏時、グレーがかった水色にピンクが混ざっている。健康的に日焼けした女性が肩にインコを乗せている。「どこまでも孤独、どこまでももろく、どこまでも強く」というヘッドラインに強く惹かれた。
イントロダクションとストーリー、監督とキャスト情報をひと通り舐めるとイベント情報が目に止まった。公開日から1週間後の週末にトークイベントを開催すると書いてある。この作品について複数のメディアに5つの全く違う『台北暮色』論を書いたという映画評論家が語るという。興味はもった。しかしトークイベントに参加するなら、まずは作品を観ておかないことには始まらない。映画館に行く時間を確保できるのか。会場は代々木の貸し会議室。サイトで会場の画像を確認したところ、まったくもってごくごく普通の会議室の体。この作品の雰囲気を演出できるのか。主催側はイベント慣れしていないのか。個人的にはいろいろツッコミどころだらけだったが、とにかく作品に惹かれ申し込んだ。映画は平日の夜、仕事おわりで観に行った。良かった。上映後すぐに座席から立ち上がれなかった。
作品公開から1週間後、12月のはじめの週末。斯くしてトークイベント会場を訪れた。会場は代々木駅から徒歩5分ほどの場所にある雑居ビルの2階。如何にも、な会議室にはすでに数名の参加者が席についていたが、もうトーク開始時刻だ。自分を含めて参加者は5人もいなかったか。さすがに公開1週間後に上映館ではない別の場所で作品について語るイベントに来る人は少なかったのかもしれない。このトークイベントに申し込んだ自分の選択は間違いだったのかもしれないという疑念が一瞬よぎったが、まあいいさ。ホウ・シャオシェン好きな監督だし。監督デビューとなるホワン・シーはホウ・シャオシェンの『憂鬱な楽園』から参加していたというし。クー・ユールンは好きな役者だし。
A PEOPLEの代表の方のファシリテーションでトークイベントは始まった。冒頭でその映画評論家はこう言った。「きょう来たひとはレアですよ、ほんとに。きょうはね、いままでで最高のトークをするんで、あとで自慢してください。語り草になると思うんで」。言い切った。どんな自信家なんだ? しかし不思議と嫌悪感はなく、逆に興味をもった。
フランス出張帰りということで、ルーブル美術館を彷徨した話を絡めて展開していった。「美とはなにか」に向かって言葉が重なっていく。なかなか本題に踏み込まない。たとえば林檎を描くとする。ルノアールとゴッホ、セザンヌでその描き方はちがう。それが林檎であるということを語っても意味がない。翻って映画ライターに置きかえてみたとき、物語の話だけ、台詞の話だけを語る映画評論に意味はない。芸術をみていない。
美とは、出会ったときに我々の内部に描きこまれることである。心象に意味なんてない。だけどそれは尊いもの。意味がわからないことも含めて何かが描きこまれていれば、それはかけがえのない体験となる。描きこまれているのなら、それが小さくてもそれは美なんだ。ホアン・シーは夕暮れの情景を描写しているのではなくて、無数の観客のこころを描写している。その結果、この(エンディングの)映像ができている。観客のこころのなかに何かが描きこまれるということを確信できなければ、この映像は撮れない。それを信じているからこの映像でなにかが描きこまれる。それは何でもいい。この情景を美しいと思うひともいれば、ただ高速道路でエンストしているだけと思うひともいる。美は自分勝手なもの。でもそこに美はあると思うし、可能性はあると思う。
その映画評論家の言葉はエモかった。恥ずかしくなる暇もないくらいにたたみ掛けてきた。そしてぼくはその言葉を信じられた。
代々木の会議室を出て新宿南口に向かって歩いた。高島屋の裏手あたりで視線をすこし上げてみる。規則性なく交差する複数の架線の上に黄昏時の空が広がっていた。映画評論家、相田冬二との出会いは心地よい衝撃だった。