小説や漫画に出てくる「ともだち」は、なんでも言いたいことが言い合えて、お互いのことをすべて理解しあえていて、ピンチの時にもチャンスの時にも全力で助け合う。いつの日かそんな「ともだち」が向こうからやってくるものと思っていた。わたしが待っていたのは白馬の王子様ではなく、魂の片割れ。


「女の子の友達と遊んでいるのを見かけません。もう少し仲良くしてくれると良いのですが」。

間違いさがしの答えを見つけたかのような書きぶりの一文を、連絡帳で突きつけてきたのは小学校5年の時の担任だった。ブー、不正解。口から出そうになる。


その頃女の子たちがよくしていた恋バナや好きなアイドルの話には興味がなかったし、親しい子同士一緒でないとトイレにすら行かないのも理解不能だった。女の子の友達と遊ぶ、というのがそういう意味ならノーサンキュー。だが男の子とならノープロブレムというわけでも無い。休み時間に気の合う男の子とちょっと話していると「おまえアイツのこと好きなの?」とからかわれる。意味不明。小学生のわたしに、友達と呼べる人間はいない。「私たち、“ともだち”なの!」と誰にでもあっけらかんと言えるクラスメイトが、眩しかった。


「ともだち」は向こうからやってくるわけじゃない。お互いに分かりあおうとしなければ、「ともだち」になんてなれないと気づいたのは、もういい年になってからだ。からかわれたあの時、「恋愛じゃない好き」をちゃんと言葉にできていたら、「ともだち」になれたのだろうか。いや、小学生のわたしにできたとは思えない。そもそも今のわたしだって、できるかどうか。伝えられるかどうか。完全に分かりあうなんて…。

20年以上一緒にいる夫だって、生まれた時から一緒の子供たちだって、完璧には理解しきれない。いつかやってくるはずだった「ともだち」は所詮、空想の中にしか居ないのだ。


だけど、

好きなことの話で何時間でも盛り上がれる仲間も

練習中の英語にアドバイスをくれる仲間も

美味しいものを笑いながら一緒に食べる仲間も

わたしには、居る。

心地よい温度と距離感でつながれる仲間がいる今を、わたしはけっこう気に入っている。