足音が消えて振り返った。162センチの登山家が標高8848mを見上げている。UFO型の黒いマウンテンハットにグレーのダウンジャケット、2年前の凍傷で失った両手。世界の頂も栗城史多をやさしく見下ろしている。


ここはチベットの標高5500m。1ヶ月半のキャンプ生活を終え、我々はもうすぐ文明に帰る。雲はなく太陽が近い。山頂のジェット・ストリームもおさまった。なんてのどかなヒマラヤだ。即座に日本人カメラマンがシャッターに収める。

 

1週間前、栗城史多は視線の先にあるエヴェレスト北壁と戦った。 6度目の挑戦にして過去最低・7400mでの撤退。帰国したら世間や冒険家からバッシングの嵐が待っている。クライマーは山を見上げる生きものなのに、足を踏み入れた瞬間から見下ろすことを義務づけられる。別に誰のために登っているわけでもないのに…。

 

腰まである深雪に四つん這いでしか進めず、絶望に絶望を上塗りした白い大海原。誰がチャレンジしても単独では無理だ。フラフラで帰還してテントに倒れ込み、それでも「いける」と言い放った栗城。眼が嘘をついていない。

 

無口なネパール人シェルパ(ガイド)のケサブさんが「これから雪は深まる。命を落とす前にGO DOWNだ」と声を震わせても首を縦に振らない。ヒマラヤという迷路の住人。ジェット・ストリームがなければ難破船のように再び白い闇に突っ込んでいた。不可能に蓋をすることを譲らず、34歳なのに本気でピーターパンになれると信じていた栗城。 


あの駄々っ子ぶりと反対に、おだやかに半眼をあずけている。登れなかった残り1400mに栗城史多しか分からないエヴェレストの尊厳がある。クライマーが山を見上げているのは、また帰ってくるサインだ。

 

栗城がこちらを振り返ったとき、チベット登山協会のマイクロバスが到着した。2016年10月15日、今夜は満月が待っている。