本棚には「長くつ下のピッピ」「赤毛のアン」「若草物語」
私は「何者」になるのだろう
年齢が片手では数えられなくなった頃の話
私の暮らす街は坂道が多かった。そのてっぺんに住んでいると買い物はいつも行きは下り、帰りは登り。帰り道、半分坂道半分階段の斜面を見上げて母は毎度ため息をついた。だめだめ、私がなんとかしてみせる。ある時画期的な理論を思いつく。それは坂道ゼロ理論。前かがみにならず、むしろ反らすようにして地面に垂直の姿勢を保って坂を登る。ため息をつかず鼻歌なんかを歌いながら。そうすれば体はきっと坂道だとは気づかない。平坦な道だと思い込んでくれるに違いない。不自然に体を反らす小さな私。母は気にも留めていない。でも、足にたまる乳酸は正直だった。私は重力を知らず、ニュートンにはなれなかった。理論は一日で崩れ去った。
庭に穴を掘った。父のお気に入りの園芸用のシャベルでそれは数日続いた。ある夜こたつでミカンを食べながら観ていたテレビに映るコメディアンの「日本の真裏はアルゼンチンやで」が私を釘付けにしたのだ。え、じゃ、行きたい人のためにトンネルを掘らなきゃ。たった一人で完成させた少女、と表彰されたらあの芸人さんにもお礼を言おう。向こうに出るとき、這い出すのか、階段のように上がっていくのか、そんなところまで想像しながらメロンが入るくらいまでは掘った。私は地層もマントルも知らなかった。足をとられたと母にひどく叱られ、穴と私の夢は一瞬で埋められた。
お話を書きます、毎日持ってくるので読んで批評してください。初めての担任を得た春、人見知りがとれた数日後に私は秘密めいたお願いをした。担任は快諾してくれた。やった、これできっと最年少で本が出せる。ビーバーの絵のついたこの小さなメモ帳は、大切な記録の品としていつの日か博物館に展示されるだろう。だんだん筆が進まなくなるのを感じながらも担任への提出はしばらく続いた。そんな折の家庭訪問。担任はわが家にやってきてあろうことか雑談として私の小説の構想を母に話して聞かせた。ほめてあげてくださいね、とほほえむ担任が目くばせする。最悪だ。母はきっと面白がって親戚中に話すだろう。編集者の守秘義務はどうしたのだ。私は大人の世界を知らなかった。その日以来お話を書くのはやめた。担任と特別な話もしなくなった。
挙げたらきりがない。私史上最高に大風呂敷で真面目で前向きで残念で、あまた打たれたことを思うと切なささえ感じるあの頃の愛しい私。こんなにも「何者」かになりたがっていた。ありあまるエネルギーで。でも、残念ながら結局何者にもなれなかった私には、人よりずっと早く思春期が訪れる。打ちのめされた万能感を抱えた私はひとりの世界へと静かに閉じていくこととなるのだった。