ある、バイト
ある、バイト
皆さんは過去に1度や2度アルバイトの経験があるでしょう。バイトというのは就職と違い、ま、なんというか、適当といいますか、それほど気が入ってない仕事という緩い位置にあるように思います(きついのもあるけど)。バイトていえばあんなことあったな~、てなエピソードを知り合いの方々に自由に投稿してもらいました。様々な体験談に身をゆだねなさい。それではどんぞ=
※は市場の感想
名前:いちば
・私が中学生のとき、同級生の父が経営しておった惣菜工場の引っ越しのバイトをしました。でかい棚だったかをのけてみると母子とおぼしきネズミが2匹、寄り添うように骨になっておった。なぜかその夜40度を超える熱が出た。
・これも中学時代「俺たちの旅」というTVドラマの影響で、どうしてもアルバイトというのがしたくて新聞配達をやった。新聞というのは投げて配達するものだと思い込んでいて(漫画などの描写でそういうのがあった)、ある印刷所の土間に打ち水(?)みたいのがしてある地べたに平気で新聞を投げつけたりした。新聞屋のオヤジは通報を受けたようで、怒るの通り越して真顔だった。何か買いたくて、などの目標もなかったのですぐ辞めたが、辞めるなら次の奴を連れてこいというので気が弱い後輩に無理に押し付けました。
・就職したミシン工場を辞めたあと(23歳頃)、なんか食わないと死ぬのでバイト探しへ。駅ビルにある花屋の前を通ると壁に「アルバイト募集」の紙が。見回すと店長らしき男性と若い女4,5人が立ち働いておった。吸い寄せられるように「バイトしたいんですけど」と店長に伝えた。入ってみると仕事場は駅ビルから離れた場所にある本店で、そこにはジジイとババアしかいなく、お花の先生というデブおばさんがいて、俺が当時生やしてたブルース髭(唇の下だけ少し伸ばす)を見て「なにそれ、気持ちの悪い。剃りなさい!」言われた。若い女はおらんは、理不尽に侮辱されるわ、ころしてやる、と思うた。
・花の配達で軽トラ運転して病院へ。え、なんでこんなとこにあんの?てほど分りづらく小さい病院。病室のドアを開けると四角い顔をしたおやじがベッド斜めにして寝ており、その隣で着物を着た嫁のような人。嫁に花を渡すとおやじが「誰からだ?」いう。伝票には佐藤(仮)しか書いてないのでそういうと「どこの佐藤だ!」と眉毛がつりあがった。俺は配達だけなのでさっぱり分りません、てなことを返答すると声張り上げて「なんで分らん!」いやいやいや、だって、つう俺の顔見た嫁が「まあまあ、もう行っていいわよ」と助け舟出した。若く短気だった私は少し睨んでしもた。で、花屋に戻り中村さんに顛末を話す「ったく、あのおやじ腹立ちましたよ」「ああ、あれヤクザの親分」う、ぐっ。
※花屋で昼飯のとき先輩が「そばにゴマ油かけると美味しいのよ、ラーメンみたいで」言うのでやってみたら確かに美味かった。が、だったらラーメン食えよ。
名前:黒岩克人
大学のとき、単発で防災用具の点検を手伝うバイトをしました。点検するオッサンの荷物持ちみたいな楽な仕事でした。その日に点検に行ったのは、ある宗教団体の建物でした。点検が終わったあと、事務所でおばさんがお茶を出してくれました。お茶を飲んでるときにおばさんが、「最近、松本人志っていう人よくテレビに出てるけど、私あの人嫌いでねえ、あなたたちは好き?」と聞いてきた。「ええ、まあ…」と答えた気がします。
※「あなたたちは好き?」ていうフレーズがなんとなく好き。
名前:瘡原亘
20代半ば頃、石屋人足のバイトをしていた。
ようは墓を建てるのだが、古い墓の建て替えも結構あり、特にカラト(骨壺の収納スペース)もなく、直に土中に埋められた、時代の古い傷んだ骨壺は、中に泥が入っていたりして骨まで汚れていることもあり、新しい骨壺に骨を移す前に綺麗に洗わねばならなかった。職人人足皆これをやりたがらず、そういうのが平気な自分がスポンジやタワシでごしごし骨を洗う係だった。また、カラト内に収納された骨壺には、結構な頻度ででかいミミズが2、3匹吸い付いていたりした。メインの墓の施工仕事は当然ながら結構な重労働で、他の事情もあり半年ほどで辞めた。ちなみに、このバイトで様々な寺の住職に会ったが、多少の善し悪しの差はあれど、基本皆ナマグサ坊主ばかりで、尊敬できるような人は一人もいなかった。まぁ、宗教家では多少ナマグサイ方が面白い人もいるけれど、殊この時期に会った坊主に関しては不快なタイプばかりだった。
※わかります。中には良い人もあると思うけど、ほぼ地獄直通切符。
名前:R子
22くらいの頃、パン屋でバイトしてました。パートの米田さんから聞いた話です。中国人のバイトの子が洗い物してて、包丁の刃の部分を下にしてスポンジ握って挟むようにして洗うんだけど、何故か逆にしちゃって(刃を上にして引っ張った)えらいことになったらしくて…。思い出すだけでぞわぞわしてくるのでほんとは思い出したくない。
※思い出したくない事を思い出させてごめんな、さい。
名前:もっぞ!カンコケーン
・高校夏休みに北海道羅臼町で、早朝から小舟で昆布取り、砂利浜に干すバイトやったなぁ!自分は帯広、ダチは釧路、女の子たちは根室から来てて2~3週間泊。つらいことがほとんど。でも楽しかったなぁ!その頃銀蠅が流行ってて聴いたら思い出すよ
・高校冬休みは釧路の大型スーパーでダチら7人とバイト。自分らは魚さばいたり、店頭で売ったりと…有名スーパーのくせに、活が下がった臭い魚ギリギリまで売ってたな…稼ぎは全部スナックの飲み代と消えました。
※小舟で昆布取り、というフレーズだけで泣けてきます。
名前:水子
30歳くらいのとき葬儀屋の佛具店でアルバイトをしました。二階が葬儀屋で一階が佛具店でした。葬儀に使ふ白手袋をお洗濯したり喪主と書かれたおリボンにアイロンをかけたり佛壇を賣つたりする魅惑的なお仕事でした。店内はお線香の匂がただよひくる日もくる日も佛壇のお掃除。社長がいつもおいしいものを食べさせてくださるので毎日おなかいつぱいでした。突然接客業が無理になり辞めました。
※文の最後に「主人は島根の人です」と入れてもらえると嬉しいです。
名前:しーぴん
いろんなアルバイトをしてきたので覚えている範囲で書く。
17歳くらいの頃、初めてのバイト。家の隣のスーパーで働いていた。とうに潰れて大きめのドラッグストアになっていた。私たちのせい?と思うことが何個かある。双子の姉と週四から週三で入っていた。高校の授業が終わって家に帰って仮眠をとってから4時間働く。夕方の値下げのタイミングなので、常連、知り合い、家族のために欲しそうなものは全部バックヤードに溜め込んで半額にして渡していた。基本3割引、半額と値下げシールを貼るバイトだった。食べたいものがあれば勝手に廃棄にして自分でトイレで食べていた。パン屋が併設されているところで私はパン屋のレジをやっていたが、そこでもコソコソ裏で廃棄にしてはパンを食べていた。そういう人たちが結構多い職場だった。
19歳くらいの頃、西新井大師前の小さいスーパーの照明の色が嫌いすぎるという理由で辞めた。数ヶ月後潰れていた。
20歳になると物欲がすごく、借金もおおかったのでリゾートバイトを何度かした。一つ目はフィリピン人ばかりの軽井沢のコテージの清掃、2度目は友達と長野のスキー場のレストランの手伝い。ここが一番最悪だった。山の上だったので娯楽が少なくて、仕事が終わればよく車を持ってる人と下の街に繰り出していた。大雪で帰れなくなったことがあって、男一人、私と友達でラブホテルに泊まった(ホテルはラブホテルしかなかった)。男性とは趣味が合い、友達になった。だが、私が狸寝入りをしている間に、友達と男性(42歳)が隣でセックスしていた。友達の喘ぎ声なんて聞きたくなくて、泣きながら眠りについた。次の日はそのことに触れずに心の傷を負ったまま働いた。その男性から後で、あなたもセックスしようと言われ気持ち悪くなって帰りたくなった。3度目のリゾートバイトは兵庫の海の近くの旅館だった。部屋の片付けから料理の提供までやった。カニが有名な旅館で、賄いはカニだったが、アレルギーが発覚した。1人だけの募集のところだったので、ボロい一軒家で生活していた。窓からは海が見えて、それを見ながら部屋でタバコを吸う時間が楽しかった。「心の傷を癒すということ」というドラマがたまたま関西方面でテレビでやっており見て泣いた。阪神淡路大震災の話だった。カウンセラーに興味があったので、原作の本を死に物狂いで読んだ。
21.22歳くらいの頃はラブホテルの清掃が主だった。初めてのところは歌舞伎町のホテル。さよなら歌舞伎町という映画の聖地だ。実際は従業員は中国人しかおらず、言葉が通じなかった。翻訳アプリでの会話だった。客が置いていったお酒や物品をよく盗んだ。お酒を飲みながらタバコを吸いながらの仕事で結構たのしかった。そこのバイトの支配人がヤクザみたいな顔だった。バイトを飛んだ時、給料が支払われなくて制服を洗濯して給料をもらいに行ったら、クリーニングしろと怖い顔で言われて、再度ホテルに行き、謝った。中国人のマナーが悪かった。女性の従業員が欲しかったと言い、バイトを辞めた。次のラブホテルは八王子の某ホテル。心中があった日、隣の部屋を清掃していた。面白かったのが、あまりにも汚い部屋があった時、インカムで「応援お願いします」と言ってひとり別の部屋で作業していた人を呼んだとき、部屋に来て、「頑張れ〜」と応援しに来ただけで全く手伝ってくれなかったことがあった。好感度が上がった。実はここの職場はにどアルバイトしている。1度目は自殺未遂でやめて、2回目は鬱の限界でバックれ。お姉ちゃんに尻拭いしてもらった。もう一度働かせてくださいと泣きながら酔ながら電話したことをよく覚えている。
あとは最近だとフジロックの受付の仕事で、途中で抜け出して好きなアーティストのライブを見た。
今は発達障害やダウン症の子たちの面倒を見る仕事をしている。放課後等デイサービスだ。
子供に殴られたり酷いことを言われたりするが、子育てって大変だなと思った。双極性障害なので続くかわからないが頑張りたい。
※これぞ私小説。ひつこいくらいに細かく書けば芥川賞を狙えます。
名前:竹久 圏
高校2年の夏休みに父の仕事を手伝うアルバイトをしました。父は墓地で働く石工職人で、その手元として働くことになったのです。炎天下の墓地は想像以上にハードな現場でした。シャベルで地面を掘り、重たい石を運び、セメントを錬り、墓を建てていく…そんな作業の繰り返しでした。そんなある日の事、父は作業現場の隣の墓に供えてあった饅頭や果物を手にとり食べていました。自分には泥棒のように思えてしまい、「何故そんなことするの?」と聞きました。父は「食べてやるのが供養になんだよ。腐る前に食べたほうが墓も綺麗だろ。無くなってたら仏様が食べてくれたと思えるから供えた方も嬉しいだろ。」
私は納得&感動し、墓地に生息する喪服色のカラス達のワケを知り、彼等を真似て墓地中の供え物を食べ漁り、激しく腹を壊す結果に…。学校の授業では決して学べない事を学べた気がした16才の夏休みでした。
※食える状態なのかどうか判断する線引きが難しい仕事ですね。
名前:島田十万
『看板屋職人』
正確にいうと、家具に日本の伝統的な絵を描く仕事。
現在も、ロサンゼルスで発行されている、日系人向けの情報新聞
「羅府新報」の求人欄で募集していたもの。
40年ほど前、指定された工房に面接に行ったら、いきなり墨汁と筆を出されて、自分の名前を書けと言われた。
中学、高校の習字の授業でやったことしかなかったけれど、渡された紙に大きく自分の名前を書いたら採用された。
そこは、工房といっても個人の家だったが、高級住宅街、ビバリーヒルズにあった。裏庭が家具工房になっていて、日本から輸入した古いタンスとか屏風を修理、修復して、新しく図柄を描いた。
白人が二人、日系二世が一人、の若者三人に混じって下塗りをした。その上に松とか桜とか日本的な絵を描いて、隅の方にボクが漢字を書いた。全部、画集を見て書いたが、どれも、とても売り物になるとは思えないような出来栄えだった。
オーナーは白人のお爺さんだったが、なんだかとんでもない値段で、日本趣味の大金持ちに売っているらしいよ、とスタッフは噂していた。
その頃でも、多分、時給で2000円くらいもらったのではないか。一日4〜5時間くらいのアルバイト。5ヶ月くらいやってニューヨークに移った。
屋根はあったが屋外で、カリフォルニアの天気が毎日気持ちよかった。プールもあって、そこでハチドリを初めてみた。なんだここは天国かよ、と思った。
向かいの家がサミーデイビスジュニアの邸宅で、日本人の若い女がお手伝いさんをやっていた。時々、ゴミ出しに出てくるので、よく立ち話をした。どこか東北の出身だったと思うが、真面目そうな可愛らしいお嬢さんだった。
その他、バイトは色々やったが、カメラマンやライターの仕事もバイトの一環だったのかもと思えてきた。
※セレブとインチキがマーブル状に練り込まれて。
名前:肉甲冑
高校時代に地元の郵便局で年賀ハガキの仕分け作業のバイトをした。指導してくれる20代の郵便局員がかっこよく見えて、淡い恋心を抱いてしまった。水戸の駅ビルに入っていた、少し背伸びするお店に勇気を出して入ってスカートを買ったりした。退勤が一緒だった時は彼が車で家の近くまで送ってくれたが、実家周辺は車の音で誰が運転しているかわかるぐらいの過疎地。見知らぬエンジン音をふかしていた彼の車は明らかに侵入者で、親にはバレバレだったと思う。彼との間に何の接触ごとも起こらなかったし、無理して選んだワンサイズ下のスカートは、すぐウエストが入らなくなって箪笥の肥やしとなった。
※スカートとウエストの問題は人生への立ち向かい方と同じです。
名前:ゆりゆり
10年くらい前スーパーのレジの派遣会社バイトをしていた。その時私を含めて3人がバイトリーダーに任命され、シフト管理や新人さんに仕事を教えたりしていた。ある日今まで担当したことのないフロアのレジ(化粧品コーナー)を任され、そのうち研修があるとのことだったが、リーダーの1人Sさんが休日出勤してまで仕事を覚え、すごいたくさんメモをとってきて私ともう1人のリーダーに事細かに教えてくれた。しばらくするとリーダー以外の出勤率の高いアルバイトさんにもそのコーナーのレジを任せる話が出てきた。なぜかその子たちは研修なしでいきなりレジに入れられることになり、とても不安がっていたので、私はSさんのメモを渡してあげた。するとその日の夜、Sさんから怒りの連絡が来た。私が苦労して覚えたことをなぜ易々と人に教えるのか。私の許可は取ったのか。なぜそんな勝手なことをするのか。勝手に教えたのは悪かったのかもしれないが怒りの発火点がよく分からず、またSさんは年上だったので怖くてとにかく謝り倒したが、Sさんの怒りは収まらずそのあと口も聞いてもらえなかった。あまりにもめんどくさくてそのあと仕事を辞めたが、なぜかSさんに引き止められ、なんだこいつと思った。
※Sさんの情緒不安定が素敵に漂ってくる作品です。
名前:おっとぼけの相澤
精米バイトの想い出/
おっとぼけ美術館2016年開館前の9月中旬、はじめて精米バイトに挑戦した。精米所というところは一年が一ヶ月に濃縮されたような賑やかさで、それはそれは毎日アクシデントの連続。お祭りのようだった。社長はすごく腰が低い人と思いきや、仕事が始まると超絶短気になる。ある朝、故障した乾燥機のてっぺんから、乾電池!乾電池!と叫びだしたものは、実は懐中電灯のことだったようで、社長の奥さんの妹さんが、笑いながらそれを注意した。その顛末を聞き、すぐさま奥さんが事務所から跳んで来て社長を攻撃するという、朝からコメディを見てるかのような日々。でも休憩時間になると、社長は東京の証券マン時代の何億とお金を動かしていた話やおっぱいパブの話など面白い話を熱心に話してくれた。社長の人生は振り子論では、毎日米散々すってるから、パチンコの当たりは大きい、負けたことないもん…と聞いたのだが、この話にはつづきがあり、実はパチンコですった空っぽの財布が奥さんに見つかってしっかり怒られたのだそうだ。精米先輩の松崎さんからそんなこともこっそり教えてもらった。そんな精米体験でした。
火葬場の仕事/
仕事は会葬者の受け入れ、霊柩車、収骨、窯の着火、温度調整…。僕は10ヶ月しかいなくて、坊さんの読経始まると笑い出したりしはじめたんで、もう限界だなってやめました。入った当初、悪夢にうなされましたね。たくさんの死体の上を飛んでる夢。そして、普段でも炭火焼きとか焼き鳥屋の近くを通過すると職場(焼場)の窯で炊きあげるご遺体のあまーい匂いがフラッシュバックしたりしてましたよ。
※え?あまーいの?
名前:ひみつ
26のとき
一回のプレイごとに女の子の陰毛をいきなり鷲掴みにし、力ずくで抜き取るお爺さんがいる。その毛の中から1本を選びスタンプラリーの様に集めるのだ。それで「御守り」を作っているらしい。様々な女の子達の陰毛を集めた御守りだ。人間の業の深さを感じた出来事でした。とにかく痛かった。
※爺さんはそれでいったい何を守るつもりなのだろう。
名前:腹肉ツヤ子
テレAの長寿番組T子の部屋で収録のスタッフをしていました。募集した観覧者の案内、誘導、お世話係のバイトです。集合時間に集まった観覧者を名簿でチェックして来た人から順に控え室まで連れて行くのですが、勝手に入ろうとした人がいたので止めたらその日のゲストのタレントさんでした。人間の顔を覚えるのが苦手です。困惑してたけど怒らなかったのでいい人だと思いました。
※関係ないですが、T子さんて現実に存在してるんですか。
名前:くにちろぶえの
(初めてのバイト) 建設現場にて、足場組みのお手伝い18歳高校卒業後に
大阪今宮エリアで、朝早く6時ぐらいに友達と、労働者たちが集まるエリアにつれていってもらった。色々な現場の親方がきて、体の頑丈そうな人を選び連れていくシステム。親方に気に入られると、次の日も同じ現場で作業ができる。日払いで、一万円もらった。
(1番長くしたバイト) ファミリーマート夜勤
9時間労働で、2人組の勤務だが、先輩がミュージシャンで、エレキギターを休憩室でひきたいあため、4時間半の休憩を交代でとれるように、高速で仕事ができるよう鍛えられた。1ヶ月で高速で仕事ができるようになり、自分も4時間半の休憩をとり、休憩室でアコースティックギターを弾いていた。通しで7年くらい続けた。
(音楽のバイト1)
能管の先生の代役で、子供向けの演奏会で能管を吹いた。父親からプレゼントされた高級な着物を着てステージに立ったが、帰り道の電車の中に、着物を忘れてしまった。
(音楽のバイト2)
尺八の先生のお手伝いで、和楽器体験会で、初めて尺八を吹く人に、吹き方を教えるバイト。初めて鳴る尺八に感動する人たちに触れ、こちらも感動した。
※現場仕事の人身売買っぷりが素敵。
名前:渡邉カント作郎
バイトね〜いろいろしたんだろうけど、初めてバイトした頃をおぼろげに思い出すなあ。高校生の頃だから70年くらい前かな。
当時、父親は自宅を事務所にして、金融業を営んでいました。いろいろな人が出入りしていたんですが、そのお客さんというのかな事業資金を借りに来る人がいる訳です。顔は思い出すんだけれど名前が出てこない。とにかく、Xさんもその一人で、その時はスーパーの惣菜売場(つぎの日)Xさんて東川さんだ、この頃、半日か一日経つと思い出す笑
東川さんはいくつか小さな事業をやっていたと思う。何故か惣菜屋もやっていた。そんな繋がりがあったので夏休みか、そういう休みの時にバイトをさせて貰う事になった。確か東京の京王線か小田急線の烏山の辺りの中規模スーパーの惣菜売場の売り子がバイト先となった。
覚えているのは、とにかく大声で品物の名前を連呼あとは、「いらっしゃ〜い」「☓☓おいしいよ〜」と。やたら気合いを入れてた。もう、笑っちゃう程だ。大声を出し続けるって気持ちいいんだよね。だからって商品が売れるかっていうと、そんな事ないんだが。
大声で思い出したけど、東京の高円寺に昔キャバレーが商店街にあって、その後そのビルかその隣辺りに「20000V」っていうライブハウス出来たと思う。
そのキャバレーの入口で大声で呼び込みやったな〜恥ずかしさを乗り越える訓練的なものを感じたりしながら。それは、高校を出てからの事だけど、地元が高円寺なんで、小中学校の同級生なんかが通ったりして。そ〜そ〜中学の時に好きだったH子さんが通りがかったりした!「え〜っ!」勿論声なんか掛けられない一瞬純情中学生に戻る!
話、思ってもいなかった方向に進むなあ。
大声で〜って、その頃がいちばんエネルギーがあったのかもね。
高校の休み中にバイトという事は高2か高3の時だな。高1の時は部活をやっていたので休み中は全て練習だった。
日大付属の櫻ケ丘高校というところに通っていて、入って間もなく、ウォーかっこいい!という事でアメフト部に入る。面白いスポーツなんだけど、これが例によって「体育会系」。その軍隊的な集団は無理やった。ちょっと前にメディアで騒がれた日大アメフト部、彼らと同じグランドで練習、コーチはその卒業生。だから強豪校な訳だが、もお無理。自由時間欲しいし、やたら殴られる恐怖政治も要らない。中学の時は野球部だったし声を出す事自体は爽快だったと思う。現在もそー思う、声をはって、歌を歌う、お経や祝詞を声を出して唱える、そういう爽快さは又、60〜70歳になってから目覚めるんだけど。
さてさて惣菜売場ね。楽しかったと思う。初めての経験だから。プレッシャーなにもないし。惣菜売場には職人さんも居たけれど問題もなんにもなかった。お調子者だから、アドリブでなんやかやと大声で叫んで自分でも笑ってたと思う。
思い出しても腹痛くなる。
キャバレーの前を通るいろんな人に、なんかね〜あらぬ言葉を浴びせかけてたと思うなあ。半分遊んでたよね。
で、惣菜売場のあるそのスーパーで、何を売ってたか覚えてないが、他の売り場にもバイトの人が居たんだ。たぶん女子大生。まあ、べっぴんさんだと思う。バイトが終わり帰る電車が途中まで一緒だった。高校生だからね、だいぶ、そろそろ目覚めてきてるわけです。
いつも一緒に帰ってたかは思い出せないが、なんか誘ったんだよね、たぶん生まれて初めて。デートに誘ったんだよね。
よくやったよね。何処で覚えたの?
その頃は悪友も居なかった筈なのに。
でね、ふられた訳です。
だから、良く覚えてるなあ。
そして、高校を出ると純情イカレポンチまっしぐらで現在に至る。
※さらっと「70年くらい前かな」と書かれているとこが仙人の領域ですね。人生は声出し。
名前:のぞみ
バイトといえば大学生の時、場末のスナックで働いていたことを思い出す。四年間働いていたけどアットホームで結構楽しかった!
一つだけ忘れられないのはグラビアアイドルと旅行に行ったサラリーマンの話で、旅行中に彼女と喧嘩したらしい。『なんで?』って聞いたら、1日目の夜に勃たなかったらしくて怒られたとのこと。旅行の写真見せてもらったら、2日目の彼女の顔、全部見事なふくれっ面。勃たなくてそんな怒る?と思ってちょっと面白かった。
※グラビアアイドルってそんな簡単に連れ出せるの?そればかり気になる。
名前;玉野大介
市ヶ谷あたりに住んでいた30代のころ近くにあった大きな印刷所によくバイトに行っていた。常連となった仕事場は結束されて出てきた印刷物をパレットに積むという作業を一日中やる。
きつい力仕事なので交代制になっていた。1時間働けば1時間狭い休憩室で横になっていられる。そこが気に入っていた。私は持って行った本を読むか寝ていたと思う。他のメンバーは週の初めに競馬新聞を買い、週末まで一日中新聞をにらみ続け週末に馬券場に馬券を買いに行くという生活を続けていたと思う。その中のひとりの話だが いつも言っていたのは競馬新聞にはレースに勝つ馬の名が暗号として載っているということだ。そして その暗号を見つけ出すのだ。残念なことにいつもレースの結果が分かった後なのだ。
※なんか分かりませんが文を読んでるとずっと小さい四角形の箱が頭に浮かんでとれません。
名前:二口タカユキ
大学を入学して間もなく地元の焼き鳥屋で働いた。
店長は当時40代後半の男性で20歳女子大生のアルバイトと不倫をしていた。
新人は仕込みの為に早めに出勤するのだが「作業が遅い」と怒られ、バイト中は「声が小さい」等とにかく店長からよく怒られた。
3ヶ月経った頃に「お前夏休みいつからや?毎日シフト入れたるわ。休みがあると思うなよ」と言われ、不倫しているクセに偉そうで気持ち悪いオッサンだと思ったので「嫌です」と答えそのまま辞めた。
※ストレート過ぎてキャッチャーミットがじんじんします。
名前:沖冲.
22〜25歳くらい
エロビデオ屋
上京するまでの3年間ほど、京都のエロビデオ屋でバイトしていたことがあり、その期間は本当にあらゆる種類の少し壊れた人々を見てきました。
ロングコートを着た女性を連れだった老人が、嬉しそうにその女性をバキバキに縛った写真を見せてきたり、入って来ていきなり「ちょっと寝ていい?」と言うと、こちらの返答も待たずに店の床で爆睡しだした蛍光ヤマンバギャル、ビデオ棚の前で何気ない動作からパントマイムのように2時間フリーズし微動だにしなかった男、あとふつうに公には書けない出来事など。
色々ありましたが、あんなに楽なバイトもなかったな、とも思います。初日にお客が来たので「いらっしゃいませ」と言ったら、客が驚いて出て行ってしまい、店長から「あのね、愛想良くしないでいいからね」と言われて以来、ほとんど絵を描いてるか寝て過ごしていたある日、阪神が18年ぶりに優勝し、店長がビールを奢ってくれたりもしました。
無愛想であればあるほど良い、そんな薄暗い空間がこの世にはあるのです。
※日本だよね?
名前:よるのひるね
正社員の仕事を三年やった後、書店で三年半働きましたが、これはバイト扱いでした。正社員最後の一年と書店員最初の一年で年収が三分の一くらいになったので前年基準の国民年金保険料が非常にきつかったのを覚えています。バブルははじけていましたが出版業界のピークはもう少し先のことで、気分的には随分楽でした。
※国保、払わなきゃいいのに。
名前:J子
1990年代後半、わたしは25歳〜28歳くらいまでに経験した「ダイレクトにエロではないがエロ系のバイト」の一部を記します
・出会い系サイトのサクラ
いまはこういうバイトは詐欺罪になるそうですが、当時はそうではなかったため、周りでもやっている人が多かった。友人に誘われて深夜帯に勤務。場所は渋谷の宮益坂のオフィスで、みんな仲良しで、良い環境。お弁当が充実していた。架空のキャラになりきってメッセージを返信するのだけれど、男性バイトのほうが男心がわかるため、良い仕事ができるということがわかった。
・おじさんのフェチの話を聞くだけ
当時関わっていたSMクラブの店主(女王様)から「話を聞くだけの仕事があるんだけどどうかな?」という依頼あり。半個室の明るいムードのカフェで、中肉中背、スーツ、上品なフレームのメガネの男性と会う。
そのかたはビニールフェチなのだという。???となっていたら、実物を見せてくれた。
それは、昭和の時代のビニール傘に使われているような、ちょっと厚めのビニール。
いまでも、海に持っていくようなカバンでこんなビニールあるかも、的な。
おじさんは、子供のころに、こういうビニール素材のレインコートを着た女の子で興奮したとのことで、それからずっと、だそうで。
郊外の町の洋品店などに売られているデットストックのレインコート、ビニ傘を買い集めたり。フルーツ柄だったりすると最高なんだそうです。
2時間ほどお話を聞き、最後にレインコートを着させられ、特に触られることもなく、お別れ。
のちに店主さんからバイト代を受け取りましたが、なんと2万円。
店主さんが言うには、わたしが本当に興味を持って話を聞いていたのでおじさんが満足していたと。
その後もこの「話を聞く」シリーズは何件かあり、女装、寝取り寝取られ、露出など。
でも、こういうのって今だったらいろんなところで発信もできるし、同じ趣味の人にも簡単に会えますもんね。当時はまだネットも普及してなかったから、話せる人もなかなかいなかったんだと思います。でも、いまよりもタブー感はでっかいから、ロマンティックだったでしょうね。
・下女として香港にいく
これも、店主さんからの依頼
香港でいくつもの会社を経営しているおじさん(香港人)がM男で、毎年日本に新人女王さまをセレクトしにくるという。身長168センチ以上の細身、デビュー1年以内の新人に限る。おじさんはちょくちょく日本に来てはSMクラブやバーに赴き、お気に入りの女王さまを3〜4人ピックアップし、年に一度香港に招いてプレイするという。
っていうと私にはまったく関係なさそうなのですが、この「招いてプレイ」のときに、ひとり下女が必要なんだそうで。
下女は、背が低め、ぽっちゃり、余計なこと言わない。そして、なぜか悲壮感はあまりないほうがよいのだそうです。
女王様に関してはおじさんが実際に見て選びますが、下女は店主さんが良さそうな子を提案する形になっていて、私の写真を送ったところ、OK出たと。
香港に三泊四日、往復のフライト、宿はもちろん向こう持ちで別途でギャランティが20万。
私がすることといえば、香港の空港に降り立ち、4名の女王様が横並びでハイヒールで闊歩している後ろでスーツケースを乗せたカートを押したり、レストランで皆さんが注文している間床に正座していたり(でも、料理が来たら普通に椅子に座って食べてもよい。店員さんに異様な場面を見せつけるだけ)。プレイのときに「お前もこんな風にされたいんだろう?」って女王様がおじさんに言うために最初に少し蹴られたりビンタされる役。
滞在中に自由時間もあり、なんだかほんと不思議な体験でした。
翌年も誘われたのですが(女王さまは新人だけなので呼ばれるの1回きりだけど、下女はリピート有り)そのとき彼氏ができていて、反対されたのゆけず。
※「話を聞く」シリーズは連載にしましょう。
名前:森桂子
大学生の頃、イベントでレオタードを着用し食物繊維の入った白い飴(あくまで食物繊維のパウダーの宣伝なので試作品)を配るバイトをした。美味しいソフトキャンディーで試作品なのもったいないね!ともぐもぐしながら配りまくった。そのお菓子を初日配り終え、明日も配る予定が急遽中止になった。配布をするはずだった女子8人は広告代理店の会議室に集められ、お菓子の中に虫が入っていないか調べる仕事を同じ時給でやることになった。15%ぐらいの確率で虫が入っており、孵化しかけているものもいた。虫なのかどうか迷ったら僕たちに聞いてくださいね!とスーツ姿のお兄さんに言われた。最後の方には虫なのか卵なのかわからないものはOKとし、虫だと認識できる物だけをはじくことになった。都内の古い町工場で作った飴だったらしいが、あの飴美味しかったから買いに行きたいな。
※えらいマズイことやってるのに完全にスルーして淡々と仕事が進んでいる様が…日本だよね?(2回目)
名前:ひな
カラオケ
19歳のころ、一人暮らしをする為にガールズバーで働いていました。お金が貯まったので不動産屋に行ったら、保証人がいないと未成年だけでは借りられないと言われました。(親に頼んだらどちらも保証人になる資格がなかったです)それで、社会保険に入ればいいことを教えてもらいその為に適当に近くのカラオケに応募しました。そこで結局5年も働きました。店の鍵開けの係の遅刻をしすぎて朝のシフトに入るのを禁止されたりしていましたが、何となく居心地がよくていいバイト先でした。
丁度5/31で退職します。今日の夜は送別会です。ちょっとさみしいです。
※保証人の資格がない。う~ん、スカッとしたご両親ですね。
名前:抜水摩耶
色々なバイトをしてきた。
高校生の時はセイユーのレジのバイト、
大学時代はチェーン店のうどん屋のバイトや、
街中華のバイト、某インターネットの契約を取るバイト。
これはほぼ人を騙しているという感覚で働いていた。
街ゆく人に声をかけて景品などで釣る作戦を使ってどうにか契約に漕ぎ着けなければならなかった。上司から「何件取れた?」と催促の電話が頻繁にかかってくる。
接客した相手には、ウザそうな目つきで嫌がられることがほとんどで、中には途中で話が長いとブチ切れてブースをめちゃくちゃに壊して暴力を振おうとしたおっさんもいた…このバイトで色々社会を学んだような気もするけどどうなんだろう。
今でも街を歩くと同じ手法で子供騙しのおもちゃで釣って契約させるバイトの人達がいる。
気持ちはわかるけど、裏があるので絶対にみんな騙されないでください。。
※レジやうどん屋だけだったら描く絵は変わってたでしょうね。
名前:まなてぃ
大学時代に近所のスーパーでレジ打ちのバイトをしていた。
その店はまだバーコードリーダーがなくて、値札を見て手打ちでレジをしていた。
たまに値札のシールが剥がれてしまってて、そんな時はその商品が並んでる棚まで確認に行かなきゃならないんだけど、混んでて行列が出来るとお客さんのイライラを感じるので、テキトーにそれっぽい値段を打ち込んでいたが、それで苦情がきたことはない。
あと、手打ちなので間違えることもある。女のお客さんは気がついて言ってくる。
しかし、198円のプリンを1980円って打ち間違えたのに、そのまま何も言わずに買って行ったというのが2、3回あった。そういうのは、必ず男。
ある日、お客さんが血相を変えて「私の車が盗まれた!」と言ってきた。これは大変だという事になり、店長が警察を呼んだ。警察がもうすぐ来そうな時に、そのお客さんが「あっ、私今日歩いて来てたんだった」と言って帰っていった。何故か私が警察に事情を話して謝った。
※いろんな種類のテキトー感が素敵。
名前:姉
・高校生の頃、ドラッグストアのバイトをしました。
バイトの飲み会の後、店長(独身)に「うちに泊まれ」と誘われたり、バイト中泣いてしまった時に抱き締められたり、「面接の時にもっと条件いい子がいたけど、お前が可愛いから採用したんだ」と言われたりした。今考えると完全にセクハラだけど、当時は「上司に可愛がられているんだ」と本気で思っていた。純粋すぎる。
・22才雑貨屋。オーナーに「レジから出るな」と言われていたのでホントに出なかった。すると壁のディスプレイが取れているのになんで直さないんだ!」と怒られた。
次の日、ディスプレイがまた取れたので直していたらオーナーに「レジから出るなって言っただろ!なんで出てるんだよ!」と怒られた。今考えても何が正解だったのかわからん。
・25才アイス屋。1人で早番入っていたら電話がかかってきた。「昨日アイスを持ち帰りで買ったが開けたら陰毛が入っていた」というクレームだった。「あなたのでしょ?」と言うので、私は昨日シフトに入っていないと答えたが「誰のかわからないけど、女の子の方がいいからもうあなたのってことにして謝ってくれ」と言われた。仕方ないので謝るとお詫びにパンツの色を教えろと言う。黒と言ったら喜ばれそうな気がしたので「白」と答えた。すると次は「おっぱいは何カップ?」と聞かれたのでいい加減気持ち悪くて「答えたくありません!」と強めに言ったら「そ、そうだよね、これは関係ないもんね…」と急に弱気になった。またセクハラに真摯に対応してしまった。
※隙だらけで好感持てます。
名前:eye
対人間が嫌いなのに接客業ばかりやってきたわたし。
同期の紹介で始めたラブホテルの客室清掃バイトは究極に天職であり、最高の息抜きだった。
時給は安いが少人数制で決まった作業を自分のペースでできるし、人と会わないのでスッピン出勤でも問題ないという点もわたし的にはポイントが高かった。
深夜のシフト、わたしはおじいちゃん従業員のシゲオカさんと一緒の事が多かった。
シゲオカさんは毎回ジュース代(館内にカップ飲料の自販機がある)としておこづかいをくれた。
最初は100円。たまに200円。調子のいい時は500円をくれた。
ケチなわたしはそのおこづかいを"シゲオカ貯金"としてずっと貯めていた。
シゲオカさんとコンドームの袋詰めをしながら他愛のない話をする時間、わたしはいかにシゲオカさんを楽しませるかを常に考えていた。
話が盛り上がるとシゲオカさんはまたジュースを飲めとチッ…おこづかいをくれた。
あとでいただきます!と、わたしはひたすらに貯めた。
夢を叶える為に上京を決めバイトを辞めた日、シゲオカさんは餞別にと封筒を渡してくれた。
いくら貯まったか分からないシゲオカ貯金とこの封筒はいつか大きな仕事をした時にパーッと使おう、と決めた。
ありがとうシゲオカさん。
あの日から十数年、シゲオカ貯金と封筒はまだ開けられずにいる。
※なんだこのよう分らん感動は。私のほうからもシゲオカさんに有難うをお伝えします。
名前:雨宮沙月
・工場の日雇いのアルバイトをしていた時、服をひたすら詰めていく仕事をしていました。クリスマスと大晦日に入ると時給が少し上がるとかでひたすら入ってました。
詰めた服をロボットが確認してくれるのですが、間違えたら関西弁で叱られて、正解したら色っぽいお姉さんの声で褒めてくれるのが面白かったです。またやりたい。
※個人的にはロボットの声、逆がいいですね。
名前:出禁
バイトって、なんなんでしょうね、社員なんて真っ平御免ですが、好きなもんで仕事したら最低賃金だったり。「好きなもんに囲まれたら最低賃金」と、唱和したい。なんで、這いつくばってしがみつかなきゃ暮らせないのか。日本だけか、こんなもん、、好きなもんで仕事したら、みんな私生活迄犠牲にする生き方になる。好きなもんの店で働いたら、その商品の説明が必要で、購入したり。貯まんないんだマネーが。私は裕福な家に生まれた嬢でも無いから、初めっから大変だよ。小遣い稼ぎに可愛くも無いのにかけ持ちで接待しなきゃなんない職に就いたり、話しだけだからとか言っても心つかってんだ。愉しいよ、だってある意味で天職だったしさ。ただ、辛いよ、なんか。外見上着飾れて余裕もあるようなのはおママごとかなんかだね。こっち側はそんな余裕無いから道をただただ通るしかなかったんだ。何かしらの理由があるからだったんだ。花は花でも昼も輝いてんのと理由(わけ)が違うんだよ。って、現在はグレ方が違うかぁ、、知らない。いつの世も甘えん坊な野郎に付き合い過ぎんのは、やさしい女だからだし。基本賃金でいいなんてバイトすぐ辞めな。高いとこ行くのもすぐ辞めなよ、もう。どんなバイトに就いてもチップが飛んでくるくらいじゃなきゃ、バカよ。
※どこに向かって怒っておるのでしょうか、うちも出禁にしようかな。
名前:育ちは埼玉
・ン十年前、高校の夏休み、バイトとかせずにぐうたらしてたら、社会勉強だと、親の宅⚪便の配達の仕事に駆り出されたりした。もちろん会社から雇われたわけではないので無給。制服もなく、私服のガキが宅⚪便でーす、とピンポンするわけで、よく考えれば相当怪しい。歩くな走れ、エレベーター乗ったら階数ボタン押す前に閉ボタンを押せ、あの家は狂暴な犬がいる、あの隣同士は仲悪いから不在でも預けたりしない、あそこはいつもシンナーやってる、あそこは全身刺青だけど怖くない、とか、うぶな少年はいろいろ社会勉強したのでした。
※全身刺青自体が怖いんだけど。
名前:ヴァンサン
18歳の夏に、フランス電力会社の巨大な敷地の郵便物配達部門で2ヶ月働きました。
そして、休憩時間やお昼ご飯の時には、よく本を読んでいました。
ある日、毛沢東の伝記を読んでいた時に、そこで働いて先輩の正社員から、「君、共産党だったの?!」と言われました。「んん・・・ 共産党というか、二十世紀の歴史に興味がある」と答えたら、「へぇ、君絶対共産党だな!」と言われ、そのまま会話が終わり、仕事に戻りました。翌日から、たまに「共産主義者」と呼ばれていました。
※なんかこの話すき。
名前:MT
初めてのバイトは確か高校1年の時だったかにマクドナルドで。
社風に馴染めず二日で辞めた。その後スーパーのレジを数ヶ月。バ
レンタインシーズンに店内で国生さゆりの「バレンタイン・キッ
ス」がエンドレスで流れていて、調子っぱずれな歌を延々聞いてる
うちに、こっちも調子が狂いそうになった。バイトは就職するまで
にいろいろやったけど、ほとんど長続きしなかったなあ。
※世の中バブルでラリっておったのでアイドルの爆発的歌唱力まで気が回らなかった時代ですね。
名前:楢崎くるみ
24歳の頃、自身の生前葬をやった。本当は20歳の頃に成人式をしている人達の隣でやりたかった。
生前葬をやる前に人の死の現場に立ち会い勉強しないといけないという謎の焦燥感が生まれ、葬儀屋さんのセレモニーホールの仕事を始めた。そのセレモニーホールは山奥にあり、隣には老人ホーム、そしてその近くには旅館の様な廃墟があった。人の世は皮肉だなと思った。
仕事は辛かった。死の現場はいつも重苦しく悲しい。上の人間が下の人間に暴力を振るっていた。それでもお葬式はいつも感動的で美しかった。その表と裏の世界のコントラストにいつもクラクラとした。
同じタイミングで入ってきたパートのおばちゃんはよく苛められていて早々に止めてしまった。よく便器掃除を素手で一緒にやらされた。ある男性用トイレの奧側だけがある時間になると勝手に水が流れ怖かった。
とにかくずっと陰鬱とし、むしゃくしゃしていた。
ある仕事の帰り道、廃墟へ向かった。廃墟の中に大きな椅子が真ん中にどーん!と一つ、その上に何か紐の様なものに大きな人形の様なものが釣り下がっていて怖くて直ぐに逃げ帰った。
勝手に立ち入り、見てはいけないものを見てしまい悪い事をしてしまったとふとした時にその光景を思い出す。
あの場所は今どうなっているだろう。もう行きたくない場所だけれどふと懐かしい気持ちになる。
※なんか綺麗に終わってるけど、ひでー話。
名前:よしだやすとし
20歳の頃に東京に上京したのですが、今となってはなぜ上京したのかはよく覚えていません。たぶん将来のことなど何も考えていなかったのでしょう。そんなお気楽さでありながらも何かしらバイトをしなければ生活をしていけないので、当時はいろいろとアルバイトやりました。バイトと言えば皿洗いだろうと、赤坂の料亭で皿洗いだとか、コンサートやイベントの運営スタッフ、あとは興味範囲でエキストラだとか。当時はバブル崩壊とかで、経済危機が謳われ始めていたのですが、それでも仕事過多人員不足の世の中で、探せばどうにでも仕事が見つかる時代ではありました。特に単発の日払いバイトは割りが良く、事務机を1組搬入するだけでなぜか5人くらいバイトがいて一万円貰えたり、銀行に納入する精密機器搬入のために20人くらい人がいて、その中で実質手を動かすのは5人くらいで残りのバイトはただじっとその様子を見ているだけでも一万円貰えて、忙しい時はそんな現場が午前と午後入って2万円貰えたりと、こんな感じでダラダラとバイトをしながら人生過ごしていけるじゃんと思っていたものでした。
それで人間と言うのは欲が出てくるもので、もう少し効率よく割の良い日給で稼げないかと思い、1日15,000円搬入作業と言うバイトを先に上京していた高校時代の友達と申し込んだのです。それは確か初台あたりにある雑居ビルの1室で四畳半ほどのスペースに事務机が1組置いてあるだけの見窄らしい事務でした。そこで面接を受けたのですが、まずそこのバイトに登録するためには5000円払って安全ヘルメットを買うという条件でした。建築現場での資材運び補助という名目の仕事内容でしたので、いずれにせよヘルメットは必要となるとのことでしたので私たちは疑うこともなく購入しました。そして次に支払いのシステムを説明されたのですが、とりあえず1日働いてその1日分の給料をもらうには2日間働かないと貰えないという契約になるとのことでした。もちろん仕事を辞める時は全額支払いますよ、との説明も受けました。当時は若くて体力もあったのでそんなの余裕だろうと友達と暗黙の了解で目配せしながら登録して、早速翌日からそのバイトに行くことにしました。
翌日、その派遣された私たちの向かう現場が品川から歩いて30分ほどある当時はまだ埋め立て地であったと思います。延々と続く更地の中の先に聳え立つ、まだ鉄骨剥き出しの建設中のビルが私たちの現場でした。ひっきりなしに大型ダンプが出入りしているためか埃とセメントと工事現場特有の匂いと雰囲気。まるで犯罪ドラマの事故現場そのものといった様相で、この世に本当にこんな場所が存在するのかと、変な感動を覚えたことは記憶に残っています。
現場の中に入ると採掘現場のような砂塵で靄がかかった学校の体育館ほどの広さもあるような地下広場に、夥しい長机が延々と並べられており、時折遠近感がおかしくなってこの地下は無限に広がっているのでないかと変な妄想を起こさせたりもしました。
その中から今日の私たちの仕事教えてくれる関係者を探さなければいけなかったのですが、意外とすぐに見つかりました。というのも強面な職人さんたちとは明らかに違うど素人集団が逆に変な雰囲気を醸し出していたからです。
私たちは登録事務所が同じ先輩たちと難なく合流し当日の仕事内容の説明を受けました。東南アジア系の方たちなのか片言の日本語なので何をいってるのかあまり理解はできなかったのですが、要は畳1畳ほどある石膏ボードを簡易エレベーターを使って上まで運べというようなことでした。まあ楽勝だなと友達と話していた時に気づいたのですが、このバイト仲間となる人たちで日本人は私たちだけでした。
8時のブザーと共に現場主任らしき人のマイクを通した朝礼と共に私たちの仕事が始まりました。
それは多分20キロぐらいある石膏ボードでしょうか、持ち慣れていないせいか、見た目以上にずっしりとした重量感を両腕に感じました。持ち運ぶだけならまだしも、床がまだ施工状態で細長い30センチ幅ほどの木板の上を歩いてエレベーターまで運ばなければいけません。そのエレベーターも簡易的なもので周りに壁はなく、むしろゴンドラに近いものかもしれません。私は初めて置かれるこの過酷な状況を面白くも感じ、まるでインディジョーンズの世界だ、と楽しみすら覚えていたのです。始めのうちは。
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が、多分30分もしないうちに私の両腕が笑って力が入らなくなり、物を掴んで持つという概念が私の中で崩壊し始めたのでした。石膏ボードを掴み持ち上げようとしても私の指先からするりと石膏ボードは逃げ落ちて行くのです。何とか体全体を使って抱きつくように運ぶ術を見つけたのですが、やはり運搬途中に落としてしまうので、既に私は数枚の石膏ボードの角を破損させておりました。そして9時になる前にはもう完全に私の体が動かないような状態になってしまいました。歩くのもままならない感じです。
一緒に行った友達は大柄な体格だったので、まだ行けるかもと呟きましたが、けどすぐに限界が来るかも、と珍しく弱音に近い言葉を吐きました。私自身はもう限界で物を持てない状態になっていましたので、私よりも若くて小柄なバイトリーダーらしき人物に、ヤスンデテイイ、と言われてたのですが、友達自身はこのままだと夕方まだ作業を続けなければなりません。そこで私たちは話し合いをしました。
1.このまま作業を続けて明日もなんとか働いて辞める旨を伝えて2日分をもらう。
2.今すぐこの場から逃げ去る
私たちは迷うことなく2を選択しました。
私はすでに休憩を許されていましたので、地下の休憩場に行き友達の荷物を確保して待ち、頃合いを見て友達が逃げ出してきて一緒に逃げ去るという計画になりました。たぶん10分も経たないうちに友達が強張った表情をひた隠しにしながら、行くぞ、と私に檄を飛ばし、私たちは素知らぬふりをしながらそのまま現場を後にしました。
おい!って呼ぶ声がすると友達が言うので私は焦りと緊張で走ろうとするのですが、既に体の限界を超え自分の体なのに自由が効かない状態になっており、どうにもうまく走ることができません。まるで夢の中で殺人鬼から逃げようとしても、体を動かすことができず、まるでコールタールの中を泳いでいるような重みを全身に感じられました。
その時の駅まで逃げ伸びた時間は永遠に感じられました。途中でモノレールの高架線が見えた時、なぜか文明を感じ安心感を覚えたので、少し堤防のような場所で休憩した時は急激な脱力感に襲われて私たちはしばらく立ち上がることができませんでした。それでもまだ誰かに追われている緊張感と気配を感じていたのでなんとも落ち着かなかったのですが。
それから数日はその登録事務所からの電話に怯え、全身筋肉痛と謎の全身アザだらけのために一週間くらいは無気力で過ごしました。腕に力が入らないのでトイレで大をする時に、お尻を拭くことができなかったのは今となっては懐かしい思い出です。
※日本だよね?(3回目)
名前:くろきち
あれは32歳ぐらいだったと思います。当時高円寺に住んでいました。無職でバイトを探してたところ、駅近くの◯◯ストアというスーパーの2階でPCを使い簡単な作業で時給は良いわ時間は自由だわというバイトの募集がありました。
さっそく面接に行くと、蓋開けてみたら出会い系のサクラの募集でした。慣れればノルマさえ越えれば休憩はし放題だし歩合も付くしなかなかの好条件とのこと。無事面接受かり翌日から働くことに。
初日、新人達はまあまあ強烈に太っていて押しの強いイケイケデブ上司のオリエンテーションを受けました。特に印象に残ったのは彼のズボンのベルトが腹のマックス径あたりを食い込みもせず巻かれていて、なぜこの形状でズボンがずり下がらないのか不思議に思ったのを覚えてます。
男からのメールに女として返信するのが仕事なのですが、そのオリエンテーションの中で、届いたスケベニキのメールに上司が返信して見せるコーナーがありました。身長、年齢、スリーサイズ等の設定は相手を予測して色々変えるとのこと。その時はまず身長150cmに、次にバストを少し悩んで「え〜っと、じゃあバストは160cmで行こうか」ばちばちっと専用メーラーに打ち込むのを新人達の多くはジョークだと思い「そんなやつおるかい笑笑」的にリアクションしたのですが、上司はキレだして「何がおかしい?ギャーギャー!ギャー!だってお前らだってバストが身長よりでかい女いたら見たいだろ?」と声を荒げて言いました。これが効果覿面でそこから新人の聞く態度がぐっと変わりました。
オリエンテーションが終わると早速仕事が始まりました。俺は「チチカカ」というIDを渡されました。その時から俺はチチカカさんとして男を惹きつけダラダラとメールしまくるのが使命となりました。ラテン系キャラの設定でメールの最初の挨拶は「ハーイ!みんなのチチカカだよ♪」を定型文にしてました。チチカカさんは28歳ド巨乳シンママという設定で始めたらさっそく同年齢のガテン系と思われる男「ユウジ(仮名)」とのやり取りが始まり、件の上司に大声で褒められてまあまあ嬉しかったです。
ユウジとのメールは話が弾み、相手の筋肉の話になり、見てもない相手の筋肉をすごーいすごーいと褒めていたら「自分はチチカカさんぐらいなら片手で持ち上げられますよ!」と、流れ的にとても爽やかにアピられたところで休憩に。
近くの公園でユウジの「持ち上げられますよ!」を反芻しながらタバコを吸い続けました。ユウジはとても良い奴そうで、しかもきっと女にあまり相手にしてもらえない雰囲気を感じてました。母親と二人暮らしと言ってました。自分がそんな奴を騙してお金を吸い上げるビジネスに加担してるのが耐えられなくなってしまい、5本ぐらい吸ったところですぐ前に見えてる職場に電話して「本当にすいません。このまま辞めさせてください。」と伝えたところ、あっさり「いいですよ〜!」と返ってきてそのままパル商店街を流して帰宅しました。終わり。
※良心、あったんだね。
名前:倉持政晴(区区往来 http://machimachi-ourai.com/)
タイトル:京都のインド料理屋で住み込みのバイトをしていたのは1999年のこと
人生に転機というものがあるとすれば、皆さんそんな時って大体バイトをしてませんか?
1999年。実家暮らしでプーだった24歳の私は、自分の志向と兎に角マッチしない日常が延々と続いていくことに嫌気が差し、頭の中の色々が次第に煮詰まっていくのを日々感じていました。そしてただただ時間だけが過ぎていく。そんな状況に耐えかねてか、こうなったら自分の身を一旦コミュニケーションが不自由な環境に置けば状況なんてものは勝手に変わっていくものなんじゃないのか、今の自分にはショック療法が必要なんじゃないか!…とある日に閃いてしまって(思い込んでしまって)、ほぼほぼノープランで渡仏を決意し、東京郊外のベッドタウンから一路パリへと向かったのでした。
当時のバイト先(地元の高級レストラン)の先輩のつてを頼って借りることができた部屋で二ヶ月間、言葉の通じない、友人もいない土地での一人暮らし。いまの若い人には話しても伝わらないと思いますが、スマホがない時代に非英語圏の国へ行くのはなかなか勇気がいることでした。当然ながらあっという間に極度のコミュニケーション飢餓状態に陥ることとなった私は、「白い人・黄色い人」をわざわざパリで読んで遠藤周作のルサンチマンとのシンクロ率を高めるなどして、ついつい部屋に篭りがちに。アパルトマンの一室はさながら自分で作り上げた独居房のようでした。
とはいえ二ヶ月も同じ土地にいれば色々なことが起こるものでして、旅の後半では異国の地での孤立の果てにたどり着いた境地「オープンマインド」が常にドンギマってる状態でしたし、その流れでロマンス的なこともありました。その頃に撮られた僕の写真はなぜか、まるで内に溜め込まれていたエネルギーの一斉放出がそのまま念写されてしまったような不思議なものばかりでした。この旅は自分にとってきっとアヤワスカに匹敵する体験だったのかもしれません。自分にしかわからないことですが。
帰国後すぐに親戚の集まりが京都であったことがきっかけで、オープンマインドがキマったまま私はそのまま同地にしばらく逗留することになりました。京都では、私が学生時代に作っていたフリーペーパーの読者だったAちゃんが美大生をやっていたので、彼女とよく遊ぶようになりました。ある日、彼女の彼氏が働いているというインド料理屋へ行くことになりました。
その店のオーナーは私よりちょっと年上で、いわゆる遊び人タイプの人でした。店内BGMがインド料理屋とは思えない当時のクラブカルチャーが反映された良セレクトで、営業終了後に店内のバーで話しているうちに意気投合。「最近このバーを作ってんけどな、インド人のシェフが帰省でしばらくおらんくって俺はキッチンに入らないとあかんねん。お前さあ、ひまやったらうちでバイトせえへん?」と言われ、迷うことなく「やります」と即答しました。その時にエイフェックスツインの『セレクテッド・アンビエント・ワークス』がかかっていたのが決め手になったのかもしれません。パリの部屋でひとり遊びばかりしていた時に、夜の煙草などを摂取しながらよく聴いていた音楽の一つでした。
祇園の風呂なしマンションに住みながらバーテンのバイトを続け、昼は京都の町をぶらぶらするという生活が始まって一ヶ月くらい経った頃だったでしょうか、オーナーから「今度カフェ作るねんけどお前店長やれへん?」と言われました。とてもありがたい話だったのですが、オープンマインド期の副作用のせいか、正直なところその頃には京都の町の狭さというものも感じ始めていましたので、咄嗟に「ちょっと考えさせてください」と答えました。
その店のバイト仲間の一人で、京都で作られた自主映画に出演していて音楽やアートの趣味が合うNちゃんもちょうどその頃お店を辞めるタイミングだったので、ある夜それとなく「これからどうするの?」と聞きました。彼女の答えは「友だちと舞台芸術のカンパニーを立ち上げるから、私はそこで音楽をやるために大阪へ行く」というものでした。後日、私はオーナーに「自分は東京でよく遊んでいたけどまだよくわかっていないことも多いから、東京で仕事を探してみたいと思っています」というようなことを伝えました。今にして思えばその時にNちゃんの前を向いている姿を見て焚き付けられるものがあったというか、「俺、まだ何もやってないじゃん」とようやくシラフに戻れたというか。
その後、私は渋谷の小さな映画館で働き始めることになるのですが、この仕事はとても長く続くことになりました。良くも悪くも常に変化が起こるその場所は飽きっぽい自分にとって理想的な環境だったといえますが、次第に「なんか違うな」と思うことが増えてきて、その思いの重なりが看過できないほどの厚みになってしまって、このまま身動きが取れなくなるのは嫌だなと感じて、私はそこから離れることを決めました。 これから世界規模のウイルス禍が訪れることなど誰も予想だにしていなかった、2019年の夏のことでした。
20年間に及んだ私の仕事の内容は他の人に引き継げるような性質のものばかりではありませんでしたが、話し合いの末、現場の人不足を補うためだけに翌年のゴールデンウィーク明けまで残ることとなり、自分の退職日を緊急事態宣言下の東京で迎えることになりました。晴れて自由の身になったというのに気軽に人と会うこともできず自宅で蟄居する毎日が始まって「また独居房送りか!」と地団駄を踏みましたが、この奇妙な円環というものも自分にしかわからないことですね。
私はいま房総半島の田舎町で暮らしていますが、東京を離れるという決断をした時には都内の巨大な公園で清掃のバイトをしていました。無職になってからしばらくの間は失業保険や支援金などで食い繋いでいたものの、そんな泡沫の日々を長々と続けられるわけがなく、とはいっても都内では接客業を二度とやりたくないという気持ちが強かったのでこの仕事をチョイスしたのでした。この公園でバイトをしている時に見たことや感じたことは、いま新しい環境で自分がやろうとしていることと繋がっているような、そうでもないような。長くなりそうなので、この話はまた別の機会に。
Nちゃんとはコロナ禍に再会して、京都で企画したライブイベントに出演してもらいました。翌朝、京都を経つ前にカレーが食べたくなって、宿の近くにあった人気インド料理屋「タルカ」へ行くと同じタイミングでNちゃんもやってきました。二人で一緒にミールスを食べて、話して、またお別れ。そのまま彼女は大阪へ、私は東京へと向かいました。
※これはもう完全な青春漂流記。たしかに海外ショック療法は効くよね。「俺、まだ何もやってないじゃん」多分、これを思わなくなった時が青春が終わったときでしょう。
●今回参加いただいた皆さん、どもありがっとござます!
次回も予定してますので、ご協力よろしゅうに。
市場 2024/6/3
BADA