HISTORY

麻布の自治の歴史を年代ごとにまとめてあります。

はじめに

本項では、麻布学園の生徒自治の歴史をまとめていく。

麻布学園の生徒自治は、現在においても完璧なものとは程遠い。そして、我々は過去から多くを学ぶことができるはずだ。

我々は、歴史を学び、自治のいかなるかを熟慮し、その形態の理想を追い求め、日々邁進していかなければならないだろう。

その「歴史を学ぶ」プロセスの最初の一歩として、本項が役立つことを切に願う。

第1期(自治の根本の形成~最初期:第二次世界大戦以前~)

麻布学園設立~第二次世界大戦

1896年、江原素六先生により、東洋英和学校から分離する形で麻布尋常中学校が設立された。

初の公的な生徒団体は、1897年の第一回春季大運動会の準備委員会であった。彼らは春休みごろから準備を始め、前日には夜を徹して準備したという。当日は、東洋英和学校の運動場を借りて、盛大な飾りつけをしていたようだ。もっとも、現在のような「麻布らしさ」を演出するようなものではなかったが、万国旗を掲げ、賞品も用意し、音楽隊もいたという。現在の日本で一般的な運動会と言ったところであろう。

らに1899年、麻布生(通常会員)から教員、卒業生(特別会員、賛助会員)までを会員とする「校友会」なる組織が結成された。会長は江原素六先生、副会長には本校設立に関与した村松一氏が就任した。目的は、「徳義を養い身体を鍛え、学芸を練り、知識を磨きあうとともに、同窓生の親睦を厚くすること」であった。本会の傘下には文学部と運動部が設置され、文学部が機関誌を発行し、講話会という弁論大会を開催していたようだ。運動部には、その傘下にいわゆる運動部が設置された。代表例としては、野球部・撃剣部(剣道部的なもの)などである。

第二次世界大戦期

て、時代は下り1940年。時の政権第二次近衛内閣は陸軍の強い後押しを受けており、陸軍の権力は大変強いものとなっていた。そして強い軍権の影響もあり大政翼賛会が結成されるなど、政府は民間への監視を強めていった。そんななかで文部省が着目したのは、各学校に存在した校友会や学友会だ。これを学校報国団・報国隊なる組織へと改変し、各府県の統括下に置くことで監視を強めていこうとしたのだ。本校校友会もこれの影響を受け、麻布中学校報国団となって東京府報国団傘下に置かれることとなった。

して、1943年に「級長副級長制度」が発足した。これは前年度第四学年から校長に、人物本位制でのいわゆる級長・副級長の設置が求められたことによる。しかし、この制度では成績によって級長・副級長が教員から指名を受けるものであった。

1944年、これに反感を抱いた生徒により、「自律会」なる組織がつくられた。実に開校から48年、麻布で初の生徒の自主的な組織形成である

の自律会という組織は第三学年の生徒が形成したもので、級長1名・副級長2名(前述の者)のほかに、生徒が選挙で選んだ自律会委員3名をして形成される組織である。この組織の目的は、「生徒の規律の乱れを自主的にただす」というものであり、まさに、麻布の校風を示す単語として用いられる「自主自律」である。しかし、彼らは翌年から学徒動員によって労働に従事したため、この「自治」活動は広がりを見せることはなかった。

第2期(自治の確立~前編:学園紛争前の自治~

学校報国団の解体と校友会・自治会

戦後、GHQ主導の教育改革の中で学校報国団は解体され、軍国主義を排した新たな生徒組織が教員側の手によって構成されていった。このような動きは日本全国のいかなる学校にもみられたものであるが、麻布学園の場合は特に、クラブの取りまとめを行う「校友会」と教員と各クラスから選出された委員による「自治会」が存在した。

友会は、各クラブより選出された委員と教員代表による理事会が運営しており、クラブへの予算配分や文化祭の主催などを行っていた。しかし、委員が各クラブから選出される前提条件として、教員側から非常に厳しいものが課されていた。いわゆる優等生でなければならなかったのだ。

治会は、発足当初は自治委員会という名称であった。これは各クラスから選出される生徒委員と各学年から選出される教員によって構成されており、委員長は必ず教員であった。さらに生徒委員の任命権は各クラスの教員に委ねられており、完全に教員側の統制下にあると言っても過言ではなかった。この組織の所管事項は、学校生活に関するありとあらゆる事項を議論し、場合によってはその決定内容を職員会議に提出するというものであった。しかし、自治委員会という組織の中ですら、委員長は必ず教員であり生徒委員の任命権が各クラスの教員に委ねられていることなど、生徒側は大きく抑圧されていた。生徒側もこれを黙認しているわけではなく、「委員長選挙に生徒も出馬させること、各学年から選出される教員の選出を生徒による選挙で行うこと」を職員会議に要望した。学校側は、自治委員会の組織形態に問題があったとして、委員長を廃止して座長を設置し、座長の選出には生徒も出馬できるものとした。

治会は職員会議に対して多くの要望を行ったが、そのほとんどは拒否された。当時の校長である細川氏は、自治会についてこう述べている。「生徒たるの立場を逸脱しない範囲において、如何なる問題を取り上げ決議しても良い。但し、自治会の決議が直ちに学校運営上、形に表れるものではない。その採否は職員会議の決定による」。すなわち、自治会とは「学校運営に関する生徒からの意見を収集するための場所」であったのだ。

突然の生徒協議会発足

友会・自治会が発足して間もないころ、教務主任より校友会と自治会を併合して生徒会とするという旨の発言がなされた。しかし、この併合は職員会議による議論を経ておらず、すなわち当時の教務主任である伊澤氏及びその他数名の教員が主導で行ったのであろう。生徒協議会は、クラス単位での集まりである自治会とクラブ単位での集まりである生徒会に大分されている。構成員は、やはり教員側から条件を付けられていたようだ。生徒協議会は文化祭の企画運営も担当し、高2,3年生からなる文化祭委員が行ったようだ。また、生徒会内において各クラブへの予算配分の会議なども行われたという。クラスタイムの獲得はこの時期に行われたようで、文部省より道徳の授業を盛り込むことが要請された際に、道徳という名目でクラスタイムを盛り込むことが希望され、それが認められた。

生徒協議会の組織改革

来生徒協議会は、中学生徒協議会と高校生徒協議会に分かれており、それぞれに実務機関として下部組織である執行委員会があるという形であった。しかし、一般の業務はほぼ全て高校執行委員会にて行われていたため、この2つは統合してしまうこととなった。

終的には、組織全体の名称として「麻布中学校生徒会」「麻布高等学校生徒会」。その内訳は、中学高校それぞれの代表であり意思決定機関である「生徒協議会」。そして選出基盤でもある「自治会(級自治会)」「生徒会各部(クラブ)」。さらに、生徒協議会の決定を執行する「執行委員会」が存在した。(下図参照)

学園紛争前の自治組織

学紛前の仕組み.pdf

第3期(自治の確立~後編:学園紛争期)

学園紛争直前

一次学園紛争の前、生徒会はその議案内容の軽薄さや議決内容が職員会議に拒否され続けるという事態を経て全校からの関心は低迷の一途を辿るばかりであった。実務機関でしかない執行委員会が、生徒協議会の決定を経ずに独断で行動する問題なども発生した。しかし、その後生徒会内の改革への動きが高まり、生徒全体を集合させて審議をする「生徒総会」の仕組みが制定されたり、級自治会(CT)にて提案された議案が生徒協議会での審議を通過して職員会議に正式に提案され、それが職員会議においても可決されたりといったことがらが起きたのである。これによって生徒全体の興味関心が寄せられるようになり、当時の大学を中心とする「学園紛争」の波や、GHQによる共産弾圧への反発運動もあって学園内に日本共産党麻布学園細胞が誕生するなどのどのできごともあり、それらの流れは学園紛争へと繋がっていくのである。

第一次学園紛争

一次学園紛争は、当時の学園紛争の波に乗った「生徒発案の授業改革」がメインテーマとなる。紛争と呼ばれるにいたるほど過激な行為に及んだ「全学闘争委員会(全闘委)」「二・一一粉砕闘争統一実行委員会(統実委)」なる組織が結成される以前に、学内全体での大きな議論を呼んでいた授業改革。これの議論は、新たに活性化された生徒協議会を中心に行われていた。主に、平均点制度と定期試験の廃止に係るところが議論されていたようだ。そんななかで、高2・高3の生徒の一部生徒を中心に全闘委が結成された。彼らは立て看板などによって主張を行い、さらに彼らが主体となって統実委が結成された統実委は、中庭において彼らの主張に関するデモを開催しようとしたが、校長の藤瀬氏がこれへの許可を拒否。すると、統実委は中庭に繰り出して「校長追及集会」と称して藤瀬氏への批判を行った。生徒との対話路線を歩もうとしていた藤瀬氏は中庭に出向き、統実委の生徒らへの説得を試みようとした。1970年2月11日昼休みのことである。やがて授業開始の鐘が鳴り、生徒らに授業へ戻るよう説得を試みた藤瀬氏は半ば拉致されるような形で講堂へと連れていかれ、そこで校長追及集会は続行された。19日にも同様の集会が開かれ、統実委側は藤瀬氏に出席を求めたが、藤瀬氏はこれを拒否。すると20日、統実委の生徒は校長室に押し入って、朝から晩まで藤瀬氏を取り囲み責め立て続けた。彼らの要求事項は、「19日の集会に出席しなかったことへの自己批判」「統実委と学校の共催で全学討論集会を開くこと」「その中で統実委いくらかの議題提出を行うこと」などであった。その後藤瀬氏は、即答はできないものの回答を約束するとして生徒を解散させた。

日、緊急の職員会議が開催されてこれへの対応が検討された。結果、統実委の要求のいずれも拒否することが決定され、同日の午後5時に統実委側へ通達、翌23日付で「全校生徒諸君へ」というプリントが配布された。内容としては、今回の統実委側の要求は拒否するものの、そういった議論の重要性は認める。従って、生徒側の代表組織である生徒会と学校側の共催による生徒総会を行っては如何。という提案がなされた。しかし統実委は反発し、校長室前での座り込みを実行した。この座り込みは数日に及び、校長室内の金庫を使用できないことから学校運営上の支障も来たしてしまった。これに対して職員会議は、「全校生徒諸君へ(2)」というプリントを配布し、統実委構成員への反省を促すとともに全校生徒への訓告を行った。さらに、生徒会側から学校側との共催による生徒総会の開催の申し入れがあったこと、それを了承したことも記してあった。ところが、プリント配布の翌日の生徒の動きは、全く学校側の予想と異なるものであった。高校生徒協議会は、生徒会と学校の共催であったはずの生徒総会を生徒会と学校と統実委の共催とする旨を議決してしまい、他の生徒もまた座り込みをする生徒に同情的な立場の者が大多数だったのである。職員会議は再び紛糾し、統実委という学校側として正式に認めていない団体との共催による生徒総会を受け入れるか否かの議論が行われた。しかしこれは議論によって終結せず、最終的には票決となり、「生徒会・学校・統実委の共催による生徒総会の開催」が承認された。さらに「全校生徒諸君へ(3)」というプリントを配布し、学校側として授業改革をある程度受け入れることを表明した。

うして全校集会へと至ったわけであるが、全校集会は4日間に及んで行われた。そこで確認された事項は、以下のようにまとめられる。

「生徒の自主活動は基本的に自由」

「教師と生徒の関係性については、一方の他方への従属・命令・拒否などの形で結ばれるものではなく、指導・助言と言う形でおこなわれるべきである」

「集会・デモの届け出提出先は生徒会指導部」

「自主活動は、その自由性を確保するためのルールを破らない範囲において認められ、これを一方的に破ることは教員・生徒に関わらず許されない。その責任追及に関しては、教師と生徒といった関係性ではなく破ったものと破らなかったものというような形で行われること、その背景を十分に考慮したうえで行うものであり一方的であってはならない」

「双方ともに実力行使・暴言に関して反省をする」

「運営方針に関して生徒にほんの少しでも疑念があるならば学校側はその説明をすべきであり、そのために学校側の意思を統一する必要がある」

「如何なる者が抱いた疑念であっても、真剣に討論されその解決への努力が行われるべきであり、その最終決定は生徒会に委ねられる。そして、生徒の意見が反映されるような生徒会を目指していくべきである」

と、こういった点が確認され、第一次学園紛争は幕を閉じた。

第二次学園紛争

一次学園紛争期に、皆さんご存知であろう山内一郎が麻布学園の理事に就任した。彼は、当時校長であった藤瀬氏の退任後、校長代行・理事長代行に就任した。他の理事や同窓生の圧倒的支持を受けて、だ。なお、理事会と言うのは「教育」を担当する職員会議と対を成す、「運営」を担当する組織である。

内氏は、校長代行に就任すると同時に職員会議を招集し、今後の職員会議はあくまで「参考」とし、最終決定は全て自分が行うことを宣言した。また、保護者を集めて「生徒の政治活動禁止」「生徒会の一時凍結」「規則の厳格化」といった新たな発表をした。さらに、藤瀬氏が生徒との対話路線を取ったこと、教職員がそれを支持したことを強く批判した。彼は、生徒に対して強硬だったのだ。当時の教員のなかには、暗澹たる気持ちであったと回顧する方もあったという。しかしながら、特に着目すべきはこの姿勢が保護者及び理事。同窓生による圧倒的な支持を受けたことだ。最も、保護者に関しては今も昔も変わらず子供の自由を制限し自らの管理下に置こうという方々の多いように感ぜられるが。理事や同窓生たちは、このような紛争が起きたことを悪であり恥であるとし、その原因をGHQが突然に持ち込んだ民主主義と革命の欠陥と藤瀬氏の軟弱なることに求めた。そして、強硬にこれを「改善」しようとしたのである。

内氏は、生徒に対して先ずこのような内容の発言をした。「秩序の無い、礼儀を弁えない生徒諸君とは対話しない」「多少の秩序が回復されるまで生徒との対話は不毛である」「先の紛争での校長室占拠を全校集会を代償に解除したことには元来反対であった」と。さらに、理事会としては先の紛争での校長室占拠を全校集会を代償に解除したことは麻布の伝統を無視するものであり、白紙にするべきだという前提があったようだ。しかし、彼が国政において一切の成功のなかった政治家であったことを忘れてはならなかった。要は、この考え方は時代にもそぐわなかったのだ。

速、山内氏による独裁が始まった。全校集会での結論の一切を破棄し、自らの方針に反発した生徒に誓約書を書かせ、生徒会の凍結と印刷物の検閲を宣言し、司書教員の職員会議への出席停止と購入作品リストの提出を命じ、図書館の本の検閲をし、挙句の果てには教員をして生徒のブラックリストを作成しようとしたのだ。職員会議においても強硬な行動を取った。当然のごとく生徒や教員は反発した。生徒は無為に圧政を敷かれ、教員も皆藤瀬氏の方針に肯定的であったから、当然のことである。

ず動き始めたのは教員だ。さすがに社会人であるからその身の制約も生徒より少なかったのであろう。彼らは労働組合を結成し、山内氏に団体交渉を申し込んだ。しかし、山内氏はあれこれ先延ばしにした挙句これを拒否した。さらには保護者宛に、自校の教職員を批判する内容の文書を配布したのだ。当然教員側は抗議文を提出したが、山内氏は更なる圧政で応えた。「学校法人麻布学園服務規程案」なる教員を拘束せんとする規則である。教員側は猛反発であるが、山内氏は平然とこれを施行しようとした。教員側は都全体の労働組合に救済を申し立てたが、このころ朝日新聞に山内氏の「武断政治」に関する記事が掲載され、学園内の問題が世間の目に大きくさらされることにもなったのである。

て、いよいよ生徒の動向であるが、山内氏の代行就任以降しばらくは生徒の活動は緩慢たる者であった。彼らとしては、この圧政は代行の事実誤認によるものであり、この誤解を解けば代行の圧政は解消されるものと思っていたからだ。しかしながら、教員への圧政等も含めて大きな疑問の声が上がっていたところに、今度は文化祭への大きな制限をかけられ、ようやく生徒は大きく動き出した。文化祭最終日に中庭にて自由討論を行い、山内代行体制打倒を叫んだ。学校側は中止命令を出したが、生徒側はこれへの抗議デモを行った。すると翌日、山内氏は関与した生徒十数名の退学を発表し、抗議デモの中心となった卒業生三名を刑事・民事の双方で訴訟したのだ。生徒達はその後も署名活動や生協からの全校集会開催要求をしたが、いずれも効果はなく、さらには説明会において巨漢の山内氏がいちいち生徒を威圧して回ったため、生徒はみな委縮してしまい、生徒の活動は鈍ってしまった。

年ほど、山内氏による締め付けと教員側の攻防が続いた。生徒への締め付けもきつくなったが、しかし生徒は心を折られてしまっていたのだ。最も、一部の生徒によって根強く細やかなデモ活動などは行われていたようだが。ところが翌年の文化祭に、校内に警備を配置することとなり、さらには開催された文化祭にゲバ隊が突入した。そして山内氏はこれを捕えるために警官隊を突入させたが、麻布生の抵抗によってゲバ隊を捕えることはならなかった。この麻布生の抵抗であるが、これは何と根強くデモを行っていた一部生徒のみならず、一般の生徒までもが多く参加したのだ。その結果、警官隊は二度の突入にもかかわらず押し返されることとなった。その後、山内氏の文化祭中止命令を無視した文化祭実行委員会は、後夜祭を討論集会に切り替え、教員らと大々的な議論を夜遅くまで行った。

の翌日は臨時休校であったが、生徒らは有栖川公園に集った。さらにこれには教員も協力し、なんとか無届集会であることを理由とする規制を防ごうとしたのだが、麻布警察署長によって解散が命ぜられた。さらに翌日、文化祭の後片付けの日であるが、登校した生徒らが体育館に押し入り、「三日・四日の事態糾明とその抗議」を行った。教員も三名参加した。生徒たちは代行の責任を問い出席を要求したが、なんと山内氏は黙殺した挙句バリケードを貼って事務室に立てこもったのだ。生徒らは山内氏を捕えようとしたが、それもかなわず、いつの間にか校外に脱出していた山内氏は生徒に向けて退去命令を下した後、機動隊を突入させた。そして、学校は無期限のロックダウンとなった。

ックダウン期間中、生徒から逮捕者が続出した。なぜか?もちろん山内氏が通報したためである。労働組合は、山内氏に対して過去最大の批判を行い、自らの責任を認め行動を改めること、職員会議を民主的に行い事態の解決にあたることを要求した。またまたこれが黙殺されると、今度は山内校長代行辞任を要求した。当然このような大ごとになったのであるからマスメディアも騒ぎ立て、保護者からも不安の声が上がった。さらに、山内氏は同窓会による後援を失った。

の後、山内氏の味方となるのは一部の理事のみとなり、学校の開催その他の要求事項が呑まれていった。そして学校再開後には全校集会が開かれ、最終的には多くの生徒が校長に詰め寄り(物理的な攻撃はやめるよう制止する生徒もあった)、いくばくかの沈黙の後、山内氏は辞任を宣言した。かくして、第二次学園紛争はひとまずの終焉を迎えたのである。

なお、山内はその後学園から多額の金を横領した罪で逮捕された。また、高校で起きた学校紛争の中で生徒側が「勝利」したのは、全国でも麻布学園のみである。

第4期(現代にいたるまで)

改革

故学校運営の透明化・校務分掌が進みにくかったのかといえば、麻布という学校が当時としても長い歴史があったことから伝統に縛られたことが大きな要因であろう。しかし「校務分掌原案作成委員会」(世話人山領)の活躍により、校務分掌が行われた。ちなみに校務分掌というのは、校内の仕事を特定の個人に任せるのではなく職員で分担作業しよう、というものだ。これに関しても、いきなり各職員の仕事を増やすことになるということで職員会議などで議論が起こり、各機関の定義の確認も行われた。

生徒自治の新しい形

こまで学校運営側の動向と生徒の簡単な動向を記してきた。そしてこの項では学園紛争後の新しい生徒自治の形を見ていこうと思う。

1975年度にサークル活動費値上げを生徒委員会によって拒否された生徒たちは、生徒活動費を生徒自身で管理する必要性を感じ、生徒活動が金銭的制約を受けることがないように金銭の管理を生徒自らの手で行う「予算委員会」を設立しようとした。一方文実の不祥事についての議論では生徒の意見を集約する「自治会」を設立するべきであるとの意見がありこれに積極的な生徒たちが運動を行ったが、自治意識がやっと高まり始めた状況において性急に自治会を結成するべきではないという結論になり、予算の配分という最低限の自治の実現のため予算委員会設立運動に吸収されていった。こうして、「生徒活動が金銭的制約を受けることがないように金銭の管理を生徒自らの手で行う、全校的な生徒意思集約機関への過渡的組織」として位置づけられた予算委員会の設立が望まれていったのである。

1976年度に一層高まった生徒活動費の値上げが必要だという全校の意識を受け、予算準備委員会が設立、予算委員会規約の策定が始まった。そして翌1977年4月26日の全校投票を経て予算委員会が設立された。生徒活動費の値上げには成功したものの委員と一般生徒との意識のかけ離れという問題を抱えたままのスタートとなった。

一方サークル連合はサークルの加盟基準の曖昧さや議論の形骸化などが原因で大きな問題を抱えていた。規約を改定し執行部を設けるも執行部が独裁的になるなど問題は深刻化し、合宿規定の作成が遅れたことを遠因とする不祥事や予算査定が杜撰なことによる不明金の発生などの実害をも生んでしまっていた。こうした中で予算委員会は1983年10月、サークル連合を解散し、新たなサークルの連合体を構想することを宣言し、サークル連合は崩壊した。

しかしサークルの利益を守りまた部室や合宿の管理を行う団体を設立しようとする動きはみられており、ついに84年度の決算報告と85年度の予算作成を行う時期である1985年1月、新サークル連合が結成され、サークル連合が復活した。

おわりに

さあ、自治の歴史の大枠を知った貴方はこれから何をする?もちろん、それは自由です。

歴史をさらに深堀してみるもよし、自治のあり方を熟考するもよし、何もしないもよし。

もし自治に関わってみたいと思ったなら、遠慮せずに参加してみてください。

歴史を学ぶことは、自治に関わる上での強力な土台となります。

さあ、貴方も自治への第一歩を踏み出してみませんか?

本項の参考文献は、「麻布学園の100年史」、「自治白書」(図書館蔵書)、その他図書館蔵書の資料です。ぜひご参照ください。