「鮎瀧(あゆたき)」の名勝は、この滝の瀑布を二間余跳躍し溯上する鮎を、二間の竹竿の先に付けた笠網(被(かぶ)り笠)を両手で把持し、瀧壷の厳頭に待ちうけて、魚が空中に飛躍する一瞬にこれを掬(すく)い獲る漁法(鮎汲みともいう)に因み、滝川三之瀧の愛称となったことによる。
今をさること四百年の昔、寛永二十年(1643年)(*1)に、出澤邑(すざわむら)の領主滝川宗右衛門一貞が、丸木流しの通行障害となっていた瀧川(旧寒狭川・現豊川)の三之瀧(釜淵(かまぶち))の棚巌(たないわ)といわれた大巌盤(がんばん)を、播州高砂(ばんしゅうたかさご)の石工を使い、凡そ半年の難工事により爆破・切開した結果、木材の流通が容易になったばかりか、遡上する鮎も増加したのであった。これにより、領主設楽市左衛門貞信はその功績を嘉(よみ)し、正保三年(1646年)四月、瀧川家に「永代瀧本支配」のお墨付(すみつき)を与えた。この時一貞は、出沢村民にも鮎の漁獲を許可し、生計の助けとさせた。(*2)
今日漁業権は漁業組合に移ったが、「鮎瀧」についてはその長きにわたる歴史的由緒と旧来の慣行に鑑み、鮎の漁獲は出澤区民の権利とされている。そして往時の新城城主菅沼公や、蕉門の俳人大田白雪(おおたはくせつ)や幕末の歌人糟谷磯丸(かすやいそまる)、下ってはかの若山牧水(わかやまぼくすい)など、多数の文人墨客がこの瀧を訪れた。その際、人々を魅了した昔ながらの伝統漁法は、今なお保存会の努力により継承され、奥三河屈指の名勝として、また夏の風物詩の添景として、ここを訪れる人々の心に、塵外の清福を与えてくれている。
ー三十四代滝川一興誌之ー
(*1) 長篠の戦いより68年後、関が原の戦いより43年後、三代将軍徳川家光39歳の頃です。
(*2) 「三河の嵐山」と呼ばれている、新城市の桜の名勝「桜淵」は、寛文二年(1662年)時の新城城主菅沼定美が、豊川沿岸に桜を植えたのが始まりと伝えられています。この頃は漸く戦乱の世が安定し、インフラの整備も進み人々の心が安らぎを取り戻した時代だったと思われます。
➖2019-01-05➖
■先日の八平会の忘年会で、ウシマの美彦さんから『こんな物が出てきたで、ちょっと見てくれんか』と、筒状に丸まった紙を預かった。
正月の退屈しのぎに、丁寧に、丁寧に伸ばして、拡げてみると・・。達筆な文書だ。この文書によると、滝鮎運上代四貫文を、四月より七月晦日までに取り立てる。末尾に延享元年とある。どうやら鮎滝の運上金についての取り決めらしい。
下は昭和58年に、当時の総代瀧本保男氏が、読みやすく書き直したもの。
■延享元年は1744年(275年前)、8大将軍吉宗の時代
●運上金(税金)年四貫文と記されているが、
銭4貫文=4000文=銀60匁=金1両
金1両=米1石=150㎏=4~5万円
=腕のいい職人(大工)の一月分の日当
=30~40万円?
※因みに現在は、出沢区全体で漁協組合費と笠網の管理費で年30万円位必要。鮎が飛んだ年も飛ばなかった年も、払い続けて275年、総額八千万円超。よく続けてきたものだと思うが問題はこれからだ。急速に進む少子高齢化で笠網漁の存続が危ぶまれている。