2015年からモノクロでの作品の制作を開始、2018年からはカラーも多用し、匿名性の高い“存在”が画面に佇んでいるような 作風で知られる。極めて客観的でもありながら、とてもパーソナルな情景にも見えてくるその作風は、人間同士の関係性や、作品と鑑賞者の関係性など、必要な情報が削ぎ落とされているからこそ見えてくる景色と情景を提示。

In 2015, Auto Moai began creating works in monochrome, has been using a lot of color since 2018, and is known for a distinct style in which a highly anonymous “presence” seems to be standing on the canvas. The artist’s style, which is extremely objective but also appears to be a very personal scene, presents us with views and sceneries that can be found through the removal of elements, such as the relationship between people and the relationship between the painting and the viewer.


instagram:auto_moai / twitter:auto_moai / contact.automoai@gmail.com

Opend now
2023 "ボリビアから来たトルコの石" "Turquoise from Bolivia" (PARCO MUSEUM TOKYO、東京)

Past Exhibition
20222I wanna meet once again if like that dream SAI、東京
2022名前を忘れることで距離をとっていた TAV GALLERY、東京)
2022"澱を泳ぐ"(デカメロン、東京)

2021 “Three Different Minds” 3 person exhibition with Nick Atkins, Aki Yamamoto and AUTO MOAI.(MUCCIACCIA GALLERYLondon
2021 "dog,ghost" two-person exhibition with Nick Atkins and AUTO MOAI.(CALM & PUNK GALLEY、東京)
2021 "6 Paintings From 6 Artists"Parcel、東京)
2021 "Big Ass Beyond Mountains"Gallery Ascend、香港
2021 "あやまった世界で愛を語るには"(イセタン・ザ・スペース、東京

2020 "Buoy" CALM & PUNK GALLEY、東京

2019 "ANGEL"(GALLERY X BY PARCO、東京
2019 "Anonymous"(藤井大丸、京都
2019 "Permanent Boredom"(TAV GALLERY、東京

2018 "Endless Beginning"(OVER THE BORDER、東京

2023 "ボリビアから来たトルコの石"  (PARCO MUSEUM TOKYO、東京)

本展の油彩には、記憶に沈澱していた風景の断片が描かれているという。

その沈澱している記憶は現実のものなのか、はたまた夢でみているものなのか、そこから掬い上げた時にはもう整合性を取ることは難しく、記憶という過去を見る時に人は現実への認識や、記憶することの曖昧さを知る一つの術かもしれない。

同時にそれは現実世界の不安定さを示唆しているようでもあり、 確認する為の手段のない曖昧な記憶は、語られることのない歴史となり、その上に立つ現実は不安定でうつろいやすい、蜃気楼のようだが確かに存在している。

あるのにない・あったことなのになかったことになっていること、またはその逆、科学的根拠がないのに 存在しているとされている幽霊や、ある視点によっては、存在しているのにいないとされてしまう個というものと同じように、夢で見たことを現実だと思うこと、現実で起きたことなのに夢だと思ってしまうことに関心を惹かれ、心を奪われる。

そういった存在の曖昧さを記憶の霊性と位置づけたとき、これらの作品は、視覚的イメージとして(視認できる記号として)の絵画へと昇華する試みであろう。

This collection of oil paintings within the exhibit delves into fragments of landscapes that have sedimented within the realm of memory. These sedimented recollections blur the lines between reality and the ethereal realm of dreams. Upon scrutiny, attempting to grasp coherence from these sedimented memories becomes a challenging feat, revealing the ambiguity inherent in perceiving reality and in the act of remembering.

Simultaneously, these paintings hint at the instability of the tangible world. Ambiguous memories, void of means for confirmation, become unspoken histories, upon which the foundation of reality stands, yet remains unstable and transient, akin to a mirage—a palpable existence without a means for validation.

The paradoxical nature of something being present but absent, or having existed yet remaining nonexistent, parallels the fascination with considering dreams as reality or mistaking reality for a dream. Similar to how entities such as ghosts exist without scientific basis, or how an individual might be perceived as present from one perspective yet absent from another, the allure lies in contemplating events perceived as real but originating from dreams or occurrences perceived as dreams but rooted in reality.

Capturing the ambiguity inherent in existence and categorizing it as the spirituality of memory, these artworks endeavor to ascend into visual imagery—a portrayal of recognizable symbols—as an exploration of the intangible aspects of our experiences.

2022 "澱を泳ぐ"    (デカメロン、東京)

本展でオートモアイが描く絵画への導入としてディレクターの黒瀧は以下の文章を寄せている。

「絵画とは、見ることと見られることの分業のシステム(法則)であり、また見るものによって見られるものが所有されるためのツール(道具)である。」(森村泰昌 『美術の解剖学講義』p.189)

この絵画論が持つ側面と同時に浮かび上がる暴力性をどれくらいの人が認識出来るだろう。

今回オートモアイが掲げるテーマの中で私が触れるべき点はこの「gaze(まなざし)」という呪術的な力が齎す可能性の話だ。

私論を始めるに当たり、1656年に描かれたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」に描かれた複数の「まなざし」、見る/見られるという関係性をまざまざと示す作品に触れておきたい。ここで注目すべきはまさに「まなざし」の往来であり、絵画からの「まなざし」が鑑賞者をある意味で置き去りにし絵画同士(しかし一方は存在しない)が向き合い、表象自体に撹乱されてしまう。この絵画同士が織り成す世界の間に立ち入り作品を鑑賞しても「まなざし」ている筈の私が空虚な者と化し絵画からの「まなざし」は私を通り抜け私からの「まなざし」は撹乱に巻き込まれるだけとなるからだ。そう「まなざし」を(は)撹乱に(へ)誘う(われる)。

ここから私が思惟する「gaze(まなざし)」という呪術的な力が齎す可能性に関して言及していく。「始めに見ることと見られること」と「見るものによって見られるものが所有されるためのツール(道具)」という点に関して私がなぜ暴力的であるかと言及したかの補足を行おう。

英の映画研究者であり実作者でもあったローラ・マルヴィは映画理論の方向性を精神分析の枠組みへと移行する視点を加え、フロイトとラカンの概念を「政治的武器」として活かした。その枠組みを活用し古典的なハリウッド映画は必然的に観客を男性的な主題の位置に置き、画面上の女性の姿を欲望の対象として一方的な「まなざし」の方向性を「男性の視線」とした。この時代の男性の「まなざし」は2つあり「のぞき見」(女性を「見られるべき」イメージとして見ること)と「フェティシズム」である。

またジャック・ラカンの自我形成と鏡像段階の概念を利用。幼児は鏡に映る完璧なイメージと同一化することで喜びを得ると同時に幼児のエゴの理想を形作っている点に着目し、観客が画面上の人間の姿(男性キャラクター)との同一化から自己陶酔的な喜びを得る方法に類似していると説明。これらの識別はラカンのメコネサンスの概念に基づきその識別が「認識されるのではなく、それらを構成する自己陶酔的な力によって盲目になる」事を意味している。

つまり男性を「見る主体」女性を「見られる客体」と示唆した。そしてローラ・マルヴィが発表した論文(1975年)とほぼ同時期から制作された彼女の作品は「gaze(まなざし)」の呪術性を語る上で通り過ぎる事は出来ない。そう、シンディ・シャーマンだ。

シンディ・シャーマンの代表的な写真シリーズ「アンタイトルズ・フィルム・スティール」は1977-80が推定制作年とされ映画のセットを利用して制作した広告写真や映画の1シーンを彷彿させる内容で、容姿を模倣しさまざまな女性に扮している。シャーマンによれば1950年代から1960年代の映画に登場するステレオタイプな女性役から着想を得ているという。モチーフとして選んだ50~60年代のハリウッド映画とはまさにローラ・マルヴィが論文の対象年とほぼ一致するのだ。シャーマンの作品を例に挙げた理由はただ一つ「セルフポートレイト」という手法がここまで時代的にも妙さを帯びている瞬間はないと思うからだ。つまりローラ・マルヴィによって「まなざし」の方向性が示唆された後に、セルフポートレートで映画のワンシーンを模倣した作品を制作したシンディ・シャーマンは「まなざし」を自分から自分へ向けたのである。


冒頭ベラスケスの「ラス・メニーナス」を思い出して欲しい。シャーマンは「まなざし」の撹乱に成功したのである。

「見るものによって見られるものが所有されるための道具(ツール)である」

私論はもちろんオートモアイの絵画へと立ち戻る。

本展でのオートモアイは、まさに「gaze(まなざし)」の呪術的な力を多く喚起させる。

私が私論を進めて来たのは全てオートモアイの絵画鑑賞への導入に役立てばとの一心と

「まなざし」の撹乱を行えるアーティストであると信じてやまないからである。

オートモアイの絵画を「まなざし」た、と同時にあなたの「まなざし」が機能することを期待している。

2022 "名前を忘れることで距離をとっていた"    TAV GALLERY、東京)

オートモアイは匿名性の高いアーティストである。筆者も未だに、彼なのか、彼女なのか、そもそも”ヒト”であるのかも疑問なところである。現に私は呼び名から文章上の名称まで気を遣ってしまっているし、手に汗が滲みPCのキーボードに垂れそうになるほどの抑圧的な緊張感の中でこの文章を執筆している。勿論、私はオートモアイのステートメントの執筆を許された関係性にあり、オートモアイの仕事を深く知る人間の一人である筈なのだが、不思議な事に、未だに同氏の顔を思い出すことが出来なかった。

この文章は「永続的な退屈(Permanent boredom,2019)」と名付けられた旧テナントのTAV GALLERYで開催された展覧会と地続きの文脈をもつ。Permanent  Boredomはインターネットプロバイダが恒久性をもつ限りにおいて、オートモアイの仕事とイメージとしての”AUTOMOAI”は不死になり得ることを語った。「名前を忘れることで距離を取っていた」と題されたこの展覧会では、創作されたイメージとしての名と、伝承として与えられた名の距離、またその差異から生じた「語られることのなかった時間と実存」にふれ、何故オートモアイが不死の空間から、有限であるこの時間軸まで降り立ったのかを説明するプロセスである。

今現在、政治的な理由に基づき、Googleから事実的に追放された中国通信機器メーカーの華為技術(ファーウェイ)のタブレットには加入者識別カード(SIMカード)を2枚差し込むことができる。それは私、と編集可能な私、の二つの個人を持ち合わせる事が可能となる近未来的なユーザービリティへの応答であったし、当時筆者はこの話を聞いて興奮を覚えた記憶がある。しかしながら、一個人が複数の人格を有することなど、人間が人間であるための諸原則を裏切っているとも捉えることが可能で、ましてやSNSネイティブ世代以外にこの可能性が享受されることはまだしばらくはないように思われる。問題は編集されたイメージとしての名と、家族から伝承された名が分裂して同時に存在し得ることであって、この距離から生じる語られることのない個人の歴史が、唯一、同一性を保持していたといった点に於いて正しかった事にある。

オートモアイが忘れていたのは、両親の名である。生まれてから実の母を、文字通りに「母」と呼び続けたという。時に臍の緒が知覚する母の存在は”愛”を理解させてくれるものであったし「母」の名と彼女が辿ってきた歴史を認識することは自分の歴史が彼女から地続きに引き継がれる事を証明していた。その歴史は、繁殖と命名によって伝承され死によって途絶える。死を知覚することこそが、恐らく覆してはならない人間の諸原則であり、本展の狙いはオートモアイが現実の死を直視することと、伝承された名と、イメージとして創作された名の距離を縮め、実の血縁関係にあった家族の歴史を辿ることによって、真の個人史を成立させることにある。

筆者もまた、オートモアイの名を忘れることで距離を取っていたのかもしれない。現実に生きるオートモアイにまた会いに行きたいと思う。当展は前期と後期で作品の入れ替えが行われる。地続きな物語が展開された大型キャンバスによるTAV GALLERYでは約3年ぶりの個展となるオートモアイの個展「名前を忘れることで距離をとっていた」にぜひ、ご注目いただきたい。

佐藤栄祐


I wanna meet once again if like that dream

会期:2022年6月25日(土)~7月17日(日) 会場 : SAI
Dates: Saturday 25th June - Sunday 17th July 2022  Venue: SAI

「匿名」 というキーワードの元、表情を描かれない人々が登場するオートモアイの世界観は、これまで国を跨ぎ多くの人々に絵画の魅力を改めて提示してきました。また、アートピースの制作 のみならず、Supreme、NEW ERA、SEIKO、Champion 等のファッションシーンやミュージッ クシーンにも作品を提供するその幅広い活動は、世界各国でも大きな注目を浴び、アートシー ンでは日本を代表する若手作家のひとりとして、現在その立ち位置を確立しています。


2015 年よりアーティスト活動を開始して以降、新作を発表する毎に進化し続けるオートモアイの作品群には、絵画表現の持つ多様な側面に注目したラディカルな可能性への力強く深い追求を感じることが出来ます。


 これまで、国内外様々なスペースで異なるテーマを用いて作品を発表してきたオートモア イ。本展はペインターとして、絵画自体を時間を超越することのできる装置と捉えた上で設 けられた「記憶の中の霊性」というテーマの元、制作が行われました。本テーマは絵画表現 により描かれるモノへの考察にあります。何世紀も前に描かれた絵画と対峙した時の、自分 が生きている時間軸以外の世界へアクセスしたような感覚と、自分自身の記憶を遡る感覚。 それらが酷似していると感じたオートモアイは、絵画つまり記憶を不確かでも確かにそこに ある存在として、霊の存在を重ね合わせ、まるで降霊術を行うかの如く制作に励みました。

 タイトルにある「I wanna meet once again if like that dream(そういう夢であれば、も う一度会ってみたい)」が指す夢もまた、漠然と判然を交差する存在としての絵画(=記憶) と同じ側面を持ちます。ロジックを越え、場所や時間をも越えて交差するイメージ。そんな オートモアイの作品は、ファンタジックな空気を纏いながら、限りなく現実味のある新鮮な 刺激として我々鑑賞者に、これまでにない絵画表現への解釈を尋ねるでしょう。

 全て新作で構成される本展は、会場を囲むアーティストが近年より力を入れ制作する油彩 の平面作品群が世界観への没入を仰ぎ、作品にじっくりと向き合うことができる空間が構築されます。

The word ‘anonymous’ is a key phrase in the world of AUTO MOAI, a world inhabited by faceless people, that demonstrates their unique painting style that has captivated people around the world. AUTO MOAI’s versatility as an artist is demonstrated not only through their artistic output but also through their contributions to the fashion and music scene. Working alongside brands such as Supreme, NEW ERA, SEIKO and Champion, they have attracted considerable attention from a global audience, and established themselves as one of Japan’ s leading young artists.

Since starting their career as an artist in 2015, AUTO MOAI’s work has continued to evolve with each new presentation, with each of their works expressing a strong and deep pursuit of radical possibilities, focusing on the diverse aspects of pictorial expression.

AUTO MOAI has exhibited in a variety of spaces both in Japan and abroad, with each exhibition exploring different ideas and themes. For this exhibition, AUTO MOAI focuses on the concept of ‘Spirituality in Memory’ ,by reflecting on their role as a painter and examining the process of painting, the object it self, and how it functions as a device that transcends time. Their thematic approach is a study of these painted objects and the emotions felt when looking at a painting from centuries past, as if accessing a world out side of one’s own timeline and tracing back in time to distant memories. AUTO MOAI felt a close affinity with these emotions, and created their paintings as if they were performing a séance, superimposing the presence of these spirits onto the paintings, even if the memories were uncertain.

The dream referenced in the title ‘I wanna meet once again if like that dream’ shares a similar position to AUTO MOAI’s concept of painting, and is equal to or equivalent to memory. These can be seen as an existence that crosses between the obscure and the obvious or as images that transcend logic, place and time. The works of AUTO MOAI invite the viewer to interpret painting in a new and unprecedented way, as a raw catalyst with an uninhibited sense of reality, whilst clad in an air of fantasy.

The exhibition will present all new works, transforming the space with their latest series of oil paintings, which have been the focus of their output in recent years. Visitors will be free to take their time to enjoy the works and immerse themselves in the unique environment. Please come and visit the compelling world of AUTO MOAI, which continues to develop and grow through their ever-changing practice.

2021 "dog,ghost"     two-person exhibition with Nick Atkins and AUTO MOAI.(CALM & PUNK GALLEY、東京)

2021 "Big Ass Beyond Mountains"(Gallery Ascend、香港)

オートモアイは2015年より作品制作を開始、当初は主にモノクロドローイングを制作していまし た。2018年に300ページに及ぶ作品集『Endless Beginning』(焚書舎) の出版と同時期にアクリ ル絵の具とキャンバスを使った制作へ本格的に着手し、出版記念展にて原画とあわせて発表、 「イラストレーションという印象から絵画という印象へ変容を遂げた」とされています。2019年以降 は平明作品に加え、立体作品も発表、同年に開催した「Permanent Boredom」(TAV GALLERY 、東京)では、ペインティング作品を発表、自身が暮らす地域や世代に漠然と蔓延する事象を雄 弁かつ冷静に語っていました。2020年に開催した「Buoy」(CALM & PUNK GALLEY、東京)、 2021年「あやまった世界で愛を語るには」(イセタン・ザ・スペース、東京)では油彩を発表しています。スマートフォンにデータとして存在している日常の写真をモチーフに描き、写真を見ること・記憶を振り返ること、確信をもって行われる日々のコミュニケーションの曖昧さや不確かさ等と向き合っているようでもありました。このことは本展への前段であったかのようでもあります。

 オートモアイの作品には、一貫して目鼻のない人物のような像が登場しますが、それら(彼ら?)は鑑賞者が描かれている事象を「読み解く」または「想う」きっかけとしての機能を果たすことがあります。

 本展『お山の向こうのでっかいケツ』では、油彩、アクリルペイント、ドローイングに加えて立体作品も展示いたします。  作品制作を開始して7年、油彩の処女作から1年未満という驚異的なエネルギーとスピードで3度めの発表となる油彩作品は、以前とは異なりどこか遠く、そして曖昧な風景を背負っているように見て取れます。「記憶から掬い上げた風景の断片」を描いたと語られる本作品群は、画面内に おける明確な意味や、何かの象徴を示唆するモチーフが登場します。これは『Endless Beginning』でも用いられていた手法ではありますが、当時ごく個人・局地的であったものから、異なる地域や時代の中で、ものごとを喩えてきたものが多く描かれるようになったと見受けられます。かつてのオートモアイの作品には、ひとつの画面のなかに、異なる時間軸が描かれているものが多く出現していました。本作では「現実への認識、記憶すること、夢と過去の記憶などの認識の視差」など、「異なる視差」が描かれているのかもしれません。それは、ごく現代的で先進的な新しい愛のかたちと社会への眼差しであるように感じます。

2021 "あやまった世界で愛を語るには" (イセタン ザ・スペース、東京)

顔のない人物の絵で知られるオートモアイ。描かれる人物は皆、まるで日常を切り取ったかのようにリアルであり、作者とは信頼のある関係性が伺える。カメラで簡単に写真を残せる今の時代に、身近な人物をあえて特定できないように表現するオートモアイの思惑とは。作品の隅々から感得できることを、編集者で日本翻訳大賞実行委員も務める平岩壮悟さんに寄稿していただいた。

カメラを見ない日はない。スマホが普及し、写真を撮ることは日常生活の一部になった。「写真に撮られると魂が抜かれる(から写りたくない)」と主張する人も、今では絶滅危惧種である。YouTubeやInstagram、TikTokは人気で、カメラを使ったコミュニケーションはすっかり定着しつつある。

個人が自分だけのメディアを持って発信できることはすばらしいし、使えば楽しさもある。けれど同時に、怖さもある。カメラは暴力的な装置にもなるのだ。たとえば芸能人。プロフェッショナルであるところのテレビや映画、広告への出演はいわずもがな、時には週刊誌のパパラッチによって私生活ですら、まなざしの対象となる。

プライベートは商品になる。なぜ商品になるのかといえば、プライベートこそ「リアル」で「生々しい」からだ。世界中で高い視聴率を誇るリアリティ番組もその一例と言えるかもしれない。人はそういうものを見たがっているのだ。

AUTOMOAIが描く絵には顔がない。というより、目と鼻のパーツがない。輪郭から察するに、人間のポートレイトであることは間違いなさそうだ。けれども、それが誰なのかはまったくわからない。手がかりとなるタイトルもない。「モナ・リザ」という人名もなければ、「微笑み」という表情もないのである。

とはいえ描かれている人物を知る情報がゼロというわけではない。柄物のシャツ、パーティドレス、厚手のダウンジャケットといった衣服は、持ち主の年齢やジェンダー、趣味やライフスタイルを知るうえでのヒントになる。現代の消費社会の特徴を「消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される」と謳ったのは、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールだった。背景に描かれている部屋や街並みも、前景にいる人物の正体に迫るための糸口となるはずだ。「目にうつる全てのことはメッセージ」と前に誰かも歌っていた。

とこのように、記号を頼りに描かれた人物が誰であるかを探っていくのはおもしろいが、はたしてその記号は今でも有効だろうか。ドレスを着ているからといってその人が女性であるとはかぎらないし、髪が長い男性だっている。記号が記号として機能するのは、同じ認識・前提が共有されている集団や場合においてのみである。価値観やライフスタイルが多様化すればするほど、共有された前提はなくなっていく。記号的な見方は、ステレオタイプに基づいた認識に直結し得るものでもある。顔のパーツが欠如した人物たちは、それを見ている側の認識や規範を否応なく炙りだすのだ。

ここで一旦立ち止まって、考え直してみる。AUTOMOAIの絵にとって、そこに描かれている人物が誰であるのか(を詮索すること)はそれほど重要ではないのかもしれない。むしろ主眼は、その人物との関係性──描かれている人物と作者や鑑賞者との関係性──にあるのではないだろうか。そんな気がしてきた。

画中の人物たちは、いずれもポーズらしいポーズはとっておらず、リラックスした様子だ。猫を抱き抱えてこちらに見せてよこす人、腕枕をしてベッドに寝転がる人。長い髪を持ち上げる人もいる。そこにあるのは、画家とモデルとのあいだの緊張関係というより、気のおけない間柄ならではの脱力しきった親密さだ。彼ら/彼女らは、一緒に街歩きをしているパートナーや自室でくつろぐ友人なのかもしれない。

ではAUTOMOAIはなぜ、そうした身近な人を描くのだろう。スマホのカメラでいくらでも高画質の写真を撮って残せる今、どうしてわざわざ絵に描かなければならないのだろうか。

現代の暮らしはデジタル化し、かつてなく便利になった。その反面、人と人とのつながりやコミュニティの感覚は失われつつある。都市部においてその状況はより深刻で、同じ町内に住んでいる人の顔も知らないままに、インターネット上での社交に勤しむことは当たり前の風景となった。そしてコロナの感染拡大以降、フィジカルな関わりあいは一層希薄になった。パンデミックは同時に、コミュナルなつながりや交流が人の生活にとっていかに必要不可欠であるかを明らかにもした。

親指ひとつでデジタル記録できるようになった人びとの関係性を、AUTOMOAIは絵を描くという行為で反復することによって、温度を感じるほどの距離にまでたぐり寄せ、より身体的なものとしてもう一度関係を切り結びなおそうとしているのだ。

顔のパーツがないのも、描かれている人物との距離感が関係しているのかもしれない。現代は誰もが視線の対象になり得る時代であった。まなざしは芸能人だけでなく、「一般人」にも向けられる。視線の暴力とは、そのまなざしが向けられる人物を消費の対象に変えることの蛮行にほかならない。

AUTOMOAIは描く対象を暴力的な視線の下に晒しはしない。いち個人をミューズやアイコンとして祭り上げたり、人が求める「リアル」や「生々しさ」を演出するために個人が特定され得る細部を描いたりはしない。

白日の下にさらすことなく、木陰の奥にとどめておくこと。プライベートをプライベートのままに遊ばせておくこと。それこそがAUTOMOAIの、そして匿することの優しさなのである。


-平岩壮悟

2020 "Buoy" (CALM & PUNK GALLEY、東京)

オートモアイは、匿名性と人と人との関係性をテーマとして作品を描き続けてきました。オートモアイの作品は一人の人間が成長するプロセスの中で感じうる様々な感情を、一瞬の情景として再現し、作中の少女 (正しくはヒトようなもの) への感情の移入を促すようです。ただ、感情移入を促しておきながら、その作中の少女は、鑑賞者なのか、既存の物語の主人公のステレオタイプなのか、または別の個性なのかを不確かにさせてしまいます。鑑賞者の立ち位置に揺らぎを与え見失わせてしまうことで、作品の時間、空間の構成をより深いものにしています。会場では、新たな挑戦として子供サイズのスカルプチャー、またドローイング、オイルペインティングなどさまざまな媒体で発表いたしました。

~本展のテーマ ʻ Buoy ʼ・浮子について~
浮子は流れに身をまかす様子と、繋ぎ止められていることを同時に象徴し、また、類型の浮子はそれぞれの設置されたポジションに意味を持ち、役目を果たすことを使命付けられているとオートモアイは語ります。


Over the past three years, AUTO MOAI has created countless works. This latest exhibition will be an exploration of their newest creations, and an introduction to the next chapter of AUTO MOAI’s creative journey.


AUTO MOAI has created pieces that explore themes such as anonymity and human relationships since 2015.  AUTO MOAI’s pieces distill the range of emotions that a person experiences as they move through life into singular moments, allowing us to access these emotions through the femme figure (to be exact, a genderless, human-like figure). 

However, in inviting us to connect with the emotionality of the piece, the identity of the femme figure is left deliberately murky ー whether the figure a depiction of the viewer, a caricature of a character in AUTO MOAI’s creative narrative, or some other element remains unclear. By leaving the positionality of the viewer unclear, the temporal and spatial composition of the piece becomes something far more deeper and complex. 

In this exhibition, we will be unveiling AUTO MOAI’s newest creative ventures, including a 150cm sculpture, oil paintings and drawings. 


~ About the theme of this exhibition ʻ Buoy ʼ ~

The “buoy,” AUTO MOAI explains, simultaneously symbolizes the release and attachment to the flow of time and space. AUTO MOAI adds that every buoy is deliberately positioned, tasked to fulfill its predetermined purpose. Please enjoy the creative world of AUTO MOAI.


GALLERY STATEMENT
ʻ Buoy ʼ

汽水域のブイ
たゆまなくなみにもまれつづける こと

河川は、海に注ぐ。その淡水と海水が交わる領域を汽水域という。
汽水域は様々な生態を育み、穏やかな情景を想起させる。
オートモアイは汽水域にブイを見る。繋がれて、流されず、漂い、交わらないブイを。

オートモアイの作品空間の中を漂ってみると、
とっつきやすい記号が浮標(ブイ)の様に視座を与えてくれる、、、、はずだったのだが。
穏やかだったはずの汽水域の波が、どんどん時化(しけ)て、ブイは波間に見え隠れするようになる。
何らかにしがみついてでも見ようとする気持ちが揺さぶられ、三半規管が正常ではないように感じはじめる。
船酔い、安易に近寄ったことに軽い戸惑いを覚える。

汽水域の浮標(ブイ)は人間にとっての視標である、航路の危険や、網の位置を知らせる。
その下の海流や、岩礁、漁網、生息する生き物の様子は見えてこない。 

少女(ヒトのようなもの)が飲み込んだ多くの感情は、簡単には見えてこないものなのだと悟る。
(何故か既視感のある、見覚えのある)情景と情景の持つ意味性は、
飲み込まれた多くの感情のごく一部露呈したものだと、

シンディ・シャーマンの作品では、鑑賞者は、
設定された状況をより強く再提示されることにより事象の不確かさを想起させられる。
オートモアイの作品にはそれと通づる、不確かさへの導線がある様に思う。
オートモアイの作品の情景を構成する要素や、状況設定は、ブイ同様、たゆまなくなみにもまれつづける。

汽水域のブイとしたのは、オートモアイの立ち位置が、
相剋するいくつかの要素の合流点だと思ったことはご理解いただけるかと思う。

CALM & PUNK GALLERY
西野慎二郎


Buoy’


A buoy in brackish waters

Meaning: to be incessantly buffeted by the waves


River water flows into the sea. Brackish water conditions occur in estuaries, where fresh water meets seawater. This environment nurtures various ecosystems, conjuring up a sense of calm. AUTO MOAI envisions a buoy in brackish waters—anchored but floating; drifting yet never intersecting.


While drifting in AUTO MOAI’s world, I imagined that easily recognizable symbols would help anchor my viewpoint like a buoy would. However, the waves that were meant to be calm in this estuary became rougher by the minute, hiding the buoy in between the waves. I started to feel dizzy, my will to stare at it while latching on to something shaken. Feeling seasick, I felt slightly confused by the casual approach I took upon entering this world.


A buoy floating on brackish water is a visual target for people, informing us of danger in the seas or marking fishing traps. However, one cannot see what is happening underwater, be it the currents, reefs, fishing nets, or aquatic animals.


One understands that the emotions swallowed by a girl, or something human-like, cannot be easily seen. The scenes and those scenes that feel familiar or like déjà vu to us represent what has been exposed, a small aspect of the many emotions that were swallowed.


Cindy Sherman's works evoke feelings of uncertainty in the viewers’ minds by vividly representing the circumstances again and again. I found a commonality between Sherman and AUTO MOAI’s works: a conductor to uncertainty. The elements and compositions found in AUTO MOAI's works are, just like buoys, being buffeted by the waves endlessly.


A buoy in brackish waters represents AUTO MOAI’s standing position: a confluence of conflicting elements.



CALM & PUNK GALLERY

Shinjiro Nishino