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LABEL: BLOG
DATE: 01/27, 2026
BLOG POST
昨日 13 日、「仙台戦災復興記念館」というところに行ってまいりました。
1981 年 (昭和 56 年) 設立の、仙台市青葉通り付近にある資料館です。
当時のアメリカ軍が開発した、大型戦略爆撃機 B-29 による焼夷弾の大量投下で、現在の仙台駅周辺が一夜にして焼け野原と化したのが「仙台空襲」。
この空襲があったのは、1945 年 7 月 10 日の 0 時 3 分から 2 時 7 分まで。
その約 2 時間のあいだ、123 機の B-29 によって、仙台の中心市街地は爆撃され続けました。
仙台に住んでいるとごく当たり前に感じますが、仙台には「歴史的な建物」といえるものが少ないです。
最も大きなところでは、伊達政宗の本拠点であった仙台青葉城。この城は現在、城跡としてしか残っていません。
子どもの頃、私がその理由を父にたずねたときに、父はこう答えました。
「仙台の街は戦争のときに空襲でみんな焼かれたんだよ。だからなくなっちゃったの」
大人になるにつれ、父のこの言葉が仙台空襲を指していたのは理解できるようになっていきましたが、「歴史上の出来事としての仙台空襲」を仔細に知る機会は終ぞないままでした。
当時のアメリカ軍による本土空襲の新しい資料が公表され、この記念館の内容が大幅に変更されたようだったので、行ってみることに。
実際に仙台空襲を経験した方々の体験談、戦前の仙台がどのように発展したか、戦前の仙台の街並みと戦後の街並み、復興の歩み……といった内容に加え、米軍の偵察機による空爆前後の空撮写真も大きく展示してありました。
一緒に訪ねた父とその写真を見ながら、「青葉通りは戦前はなかったから」「え、そうなの?」「そう。ここがいまの青葉通り」「へえ〜」とか、そのように話しながら、1 時間ほどじっくりと見学をしました。
空爆後、何もかもがなくなった仙台の写真を見る。
本当に何もない。
市街地だった場所に、瓦礫と地平線、まばらな人影の小さな背姿だけ。
住む場所が焼け野原になっても、人間が生きている限り生活は続けなければならないという、絶望さえも許さない厳しい現実が、そこに写されているように感じられました。
そして米軍の資料によって明らかになった新たな事実は、当時の米軍による空爆作戦の計画についての内容。
米軍がどのようなルートで空爆を行ったか、使った焼夷弾は何か、作戦目標は何かといった詳細とともに、「なぜ仙台だったのか」についても、この資料で知ることができました。
そもそもこの空爆作戦は、大日本帝国の継戦能力に打撃を与えることを目的とした、大都市〜中小都市への空爆作戦の一環でした。
そのため、特に東京以北の地域において産業の中心地であると目された仙台が作戦の対象地域に選定され、なかでも陸軍第二師団司令部や歩兵第四連隊営などがあった場所 (仙台城二の丸〜現在の榴ヶ岡公園付近) の周辺ということで、仙台駅前の中心市街地が攻撃対象になったようです。
私は 20 年そこらしか生きていない、現代の歴史観をもって歴史好きになっているので、アメリカ軍に対する憎悪などがあるわけではありません。無論、アメリカという国に対してもそうです。
長い西洋史を鑑みれば、かの軍隊は第二次世界大戦下において、おそらく相当マトモな部類の軍隊だったのだろうと思っています。
ただ、それでもやはり、如何とも形容し難い遣る瀬なさを覚えずにはいられませんでした。
やはり戦争は最悪最低で、なにもかもがむごい。
戦争は、それが起きたこと自体でもう既に地獄なのだと、改めて切実に思いました。
大日本帝国を動かしていた者たちが悪い、と簡単に言ってしまうことはできますし、それはきっと間違いでもないのですが、「なにかを悪者にして終わり」とするには、あまりにも犠牲が多すぎるのです。
だからこそ、誰それが悪者だったからと、わかりやすい結論にすがって思考停止をするのではなく。
「もう聞きたくない」と耳を塞ぐのでもなく。
同じ過ちを繰り返さないために、歴史への分析と評価に辛抱強く付き合っていかなければならないのです。
常に揺れ動き、新しい側面——時に、拒絶したくなるような惨い側面でさえ——を見せることもあるこの「歴史」と、自ら関わらねばならないのです。
明日で終戦から 78 年。
戦争で犠牲となった、すべての方々へと思いを馳せることとします。