春夏秋冬 朝昼夜 野も山も海も空も
百色百光清浄土
百色とは 無数の色は如来の智慧のあらわれ、 百光とは あまねく照らす慈悲のはたらき、 そしてこの世界全体が、清浄なる仏の国土です
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説明不足が多分にあります。生成AIを利用して、皆様方がそれぞれの立場からの質問をして、深堀解説等を訊いてみてください
白浄の信心を発して無上の菩提を求む。自他ともに仏の道を悟りて、生死の海を渡り、早く解脱の彼岸に至らん
われらと 仏とは迷悟同じからざれども仏性もとより平等なり ひとえに如来(みほとけ)の本誓(ちかい)を仰ぎ、あらゆる苦難を超えて衆生化益(けやく)に精進し法身(みほとけ)の慧命(いのち)を護り(まも)りたてまつらん 🙏
『百光山』蓮生観善大僧正揮毫
金剛力士像を諸寺門に造立する因由ー山門に金剛像(智)を安置し、寺内に仏身(理)を安置す『秘蔵記 』(弘法大師空海)
山門から本堂へという参拝の順序も、智慧によって悟りに至るということを、伽藍(がらん)配置と仏像によって象徴したもの
大安楽門・大安楽橋ができました。
額の内容は『無量寿如来供養作法次第(或云紅頗梨秘法)』の経文で、「大光明を放つ・紅頗梨色なり・遍く十方世界を照らす・その光に遇う者は・罪障が消滅して・苦を離れない者は無い」というものです。安楽は赤色・橋脚3で胎蔵界を、大楽は白色・橋脚5で金剛界を象徴し、安養楽之浄土(くに)(阿弥陀如来の極楽浄土)曼荼羅乃郷(さと)(大日如来の密厳国土)に至るための橋と門になります。
大安楽・發菩提心・大悲萬行・方便究竟・・・安養楽之浄土曼荼羅乃里の字は、弘法大師の書跡からの集字で、できております。
海援隊日誌より集字
「実の如く自心を知るなり」と菩提心の開発を説きますところの大日経は、即身成仏の経路を三句の法門(因根究竟の三句・因行果の三句)として説きます。
一つの菩提心が三つの段階を踏んで発展してゆくことを説き明かします。これが真言教学(密教)の主体となっていると言えます。
その一は「菩提心を因となし」、その二は「大悲を根となし」、その三は「方便を究竟(くきょう)となす」ということです。まず菩提心を発す(おこす)ことが成仏道の出発点であることを示しています。
次に、菩提心といえども仏さまの豊かな慈悲心を根っこに持っているから、大きく成長することを教えています。大悲とは、大慈大悲の心をもって、普く仏事を為し、群生に廻向し、一切の苦を抜き無量の楽を施すことです。大悲萬行
大悲に守られているから、全てのものは目的理想に近づくことができ、無上菩提の仏果を証得するつまり覚りを成就することも大悲のおかげであります。萬行円極とは、行者修行進趣の自利行円満・衆生化益究尽の利他行円満を意味します。そして、究極の目的、これを究竟といいますが、大慈悲心を発し利他の方便に徹行することを、方便をもって究竟となすと述べられております。自利の即身成仏・利他の済世利人ともいえます。
仏道とは決して個人の覚りに終わるものではありません。大日経を善無畏(ぜんむい)三蔵が解説し、一行阿闍梨(あじゃり)が筆記した大日経疏(そ)には、密厳仏国(仏さまの国・清浄土)を作ることが最終目的であると解き明かされています。 さらに大日経疏は、三句の法門を具体的に説いて、真言の修行によって菩提心が次第に向上して行く順位の五転の法門を示します。四国遍路霊場の道場の、発心・修行・菩提・涅槃・方便であります。
密教とは
【今すぐ 見習い・入門者・初心者の菩薩として生きて 働こう】 という教えとも言えます。(曼荼羅の包摂性:すべての存在を仏の世界へ 「生かされている」という受動的な感覚から、「生かし合う」の世界へ)
この足元から世界平和へ 密厳仏国へ
善財童子の文字は弘法大師の書跡からの集字で、できております。
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『華厳経』には、「陀(音軽呼)字を唱える時、般若波羅蜜門に入り、不退転方便と名く」(八十)、「不退轉之行」(ハ十)、「不退轉方便」(四十)とあり、『大方広仏華厳経疏』に「陀字は一切の法の調伏寂静真如の平等無分別を悟るが故に方に不退転の方便とす」(大正三五・九五三中)
善財童子(『華厳経』「入法界品」)が雲に乗り三有の海を渡って来ました。
発心求道不退転の菩薩として、さまざまな善知識から教えを聞き(悉皆我師)、仏となることを約束されることで、人生のさまざまな場面での悩みや葛藤を乗り越え、生きる喜びを見出し、極楽浄土へ行き、衆生利益を成満します。
心と仏と及び衆生と、この三は差別なきなり 『華厳経』「唯心偈」
初発心の時、便ち正覚を成ず『華厳経』「梵行品」
迷悟我に在れば 発心すればすなわち到る 明暗他にあらざれば 信修すればたちまちに証す 『般若心経秘鍵』(弘法大師空海)
もし人、仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に速かに、大覚の位を証す 『菩提心論 ・即身成仏義』
大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利 『理趣経』「百字偈 」
ーーー金剛薩埵毘盧遮那佛の大悲行願を成ぜしめ、無余の有情界を利益し安楽すべし
身中菩提心 円潔如満月 浄菩提心体 平等如虚空 自心本不生 観想キリーク字門 流出無量光 成極楽世界
『無量寿如来観行供養私記』(浄厳大和尚)
秘密主よ、薄伽梵 の大智灌頂に入りぬれば、即ち陀羅尼形を以て、仏事を示現す。爾の時、大覚世尊、一切諸衆生の前に随住し、仏事を施作し、三三昧耶句を演説す。 『大日経』「百字果相応品 」
ーーー自己の根源を覚証した後、利他行に邁進し、身語意三平等句の法門を説く
是の如くの自他の四法身は、法然として輪円せる我が三密なり、天珠のごとく渉入して虚空に遍じ、重重無碍にして刹塵を過ぎたり ーーー弘法大師の核心・密教のすべてが込められている言葉
『秘密曼荼羅十住心論』「秘密荘厳住心 第十 帰敬頌」ーーー 『十住心論』の「帰敬頌」について(竹村牧男)
参考 『真言宗即身成仏義章』 (興教大師覚鑁)
弘法大師聖語
物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道にあり、大海は衆流に資って深きを致し、蘇迷は衆山 に超えて高きことを成す。 『綜芸種智院式』
法は人によって弘まり人は法を待って昇る 人法一体にして別(べっ)異(ち)なることを得ず 『秘蔵宝鑰』
正しい教えは人の言行によって広められ、人はその教えによって成長してゆく。人と教えは一体であり別々のものではない
法界はすべて是れ四恩なり 六道誰か仏子に非ざらん 怨親をえらばず悉く本覚の自性に帰らしめん(性霊集)
この世界は全て恩によって成立している 迷う人も仏の子であり 怨親の差別なくあらゆる人々を悟りの世界へ導きたまえ
それ禿(かむろ)なる樹 定んで禿なるに非ず 春に遭ふときは則ち栄え華さく
増(かさな)れる氷 何ぞ必ずしも氷ならん 夏に入るときは則ち、とけそそぐ 『秘蔵宝鑰』
善人の用心は他を先とし、己を後とす 『三昧耶戒序』
菩薩(ぼさつ)の用心(ようじん)は皆(みな)、慈悲(じひ)を以(もっ)て本(もとい)とし、利他(りた)を以(もっ)て先(せん)とす 『秘蔵宝鑰』
額 『清浄金剛』は
阿弥陀如来の密號
(密教的解釈意)
三鈷の松ーー検索
松の葉が3本
縁起の良い・・・
福島の松 銘『入りの寶船』
『坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に』(遠矢浩規早大教授)
金毘羅七所霊場
金毘羅七所霊場
白レンシャ ヘンショウアン
金毘羅参詣案内大略図
金毘羅参詣案内大略図
白レン社 へん正あん
遍照庵 白蓮舎
讃岐一円図は**文化年間(1804年~1818年)**に作成
丸亀市立資料館に所蔵
寶嚴和尚は、山北八幡神社の社僧福寿院 騒動に対しての京極藩の無理解・洞察力のなさ、及び道隆寺の京極藩からの縛りを逃れて遊学に専心するため、正徳4・6月遍照庵以閑居。 明治維新 海援隊の八木彦三郎(検索――宮地彦三郎・十三神社) は本島小坂騒動を鎮圧。 その時福島に移り住んだ人達が檀家となり、廃仏毀釈の難を逃れる。 蓮井麗厳は寺格中本寺の後住を依頼されるも「兄徒弟たちを措いて相続することは義に於て欠く。適当なる僧を得ることは難事ではない。当庵で見ると、別に檀家とてもなく貧寺にて、経営困難なれば、衲にして去らば、又誰か之を顧みん。衲は幼より此庵に入寺し、得度し遂に今日に至ったので、今己が青雲の志に任せて此庵を去らんことは、情に於て忍びざる。」~~~遍照精舎は柱はゆがみ、屋根傾きて~~~長年日護摩を焚き~~~一切経の印本と寺隣の空き地を買い~~~遂に明治35年8月新堂建立 36年10月自坊遍照庵内に私立鶏鳴学館創立。毎暁教授
蓮井先生碑 土宜法龍篆額
蓮井麗厳 について ■ 恩師の片影 出版者: 鶏鳴学館同窓会謝恩部. 出版年: 大正8
蓮井麗厳 著 出版年 1898 法身蔵 : 聖教訓訳ともに国立国会図書館サーチ(NDLサーチ)https://ndlsearch.ndl.go.jp › books で読むことができます
参照 丸亀市社会福祉協議会 『社協の歩み』12~15頁 ■ 仏教社会福祉辞典 93~94頁
本尊 百光遍照王 紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀如来
御詠歌 『今まいる 頼もし誓い あらたなり あまねく照らす 松風の里』
浅略釈
今お参りしました。 新たに誓いを立ててお願いを頼みました。 ここでは、あまねく照らす陽光のもとに、多くの松に吹き渡る風の音が聞
こえます。
深秘釈 「この御詠歌は、表面的な参拝の歌にとどまらず、加持感応と即身成仏へと至る密教の教えが凝縮されています」
今まいる
ただ今 仏国土・安養浄土に至りました(成仏いたしました)。 それは同時に、この世に生まれてきたことと密教に出会ったことへの感
謝です。
頼もし
仏さまの頼もしい誓願をお頼みいたします。 自分も同じ誓願を立て、一切智智を志求し、大悲萬行を誓います。
誓い
大日如来の「除闇遍明、能成衆務、光無生滅」万徳救世円満の永遠不滅の光明
本尊紅頗梨色阿弥陀如来の罪障消滅、離苦得楽の摂取不捨の光明
紅頗梨色とは白赤の合色にして金胎不二の大日 大日心王百光遍照王なり
弘法大師の「即身成仏、済世利人、密厳国土」の御誓願
「私たちも、日常の中で小さな誓願を立て、それを実践していくことはとても大切です」
あらたなり
新たにして、灼たか。 誓願 日々に可惜(あたら)しく 阿弥陀仏の功徳絶えることなし。
新しくなるとは、煩悩や迷妄から解放されて、清浄な心になることです。 「あらたなり」という言葉は、
「あらた」(新しい)と「なり」(成る)を掛けており、自分が仏に成ることです(成仏いたしました)。
あまねく照らす
智慧の光明は 大遍照如来の大悲のまなざし
松風の
松は常に青々として冬の寒さの中でも色あせず風に吹かれても折れず、長寿であり不変不動の象徴であります。
「松風の音を、あなたはどのように聞きますか?」
福島の浜の松原に吹き渡る風の音、 それは、大日如来の法身説法の轟きです 浄菩提心の顕現です
「松は吹く説法渡生の声」(古歌)-松の梢に風が吹くと、ざわざわとざわめきます。 松籟の音は衆生を救わんとする仏さまのお声です
『即身成仏義』に、「加持」の語の定義があります。「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す 仏日の影、衆生の心水に現ずるを加
といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」
佛智用遍土沙中日『加』 土沙持佛智用名『持』 『光明真言土沙義』( 明恵上人)
松風は『加』にして 渡生の声と聞くは『持』なり
里
浄菩提心の「一体速疾力三昧」により、行者の浄菩提心と仏の浄菩提心と相応し、三密が具足して、成仏します。
ここは なすべきことに力を尽くし 、手をあわせ 手を差し出し ともに歩む
安養(あんにょう)楽土(らくど)之浄土(くに) 曼荼羅(まんだら)乃里(さと)です。
松風の里に吹く「息災」の風 「菩提心」の宝船
掲示写真にあるように、福島には本堂に向かって枝を伸ばす特別な松があります。この松は、まるで宝物を載せた船が岸に着くような姿をしているため、「入りの宝船」と呼ばれています。
この「宝船」は、単なる縁起物ではありません。仏教の教え、特に密教の深い意味を象徴しています。
宝船の「宝」:船に積まれた宝とは、福満愛染明王が授ける「浄菩提心の玉」です。愛染明王は、煩悩を仏の智慧に変える力を持つ明王であり、その財宝とは、この世の富や名誉ではなく、真実の悟りへと導く心の宝、すなわち菩提心を指します。
宝船の「帆」:この船の帆には、まもり不動尊の最大の御利益である「息災」の文字が大きく書かれています。不動明王は、あらゆる災難や魔を打ち砕く力を持つ仏です。この「息災」の風は、私たちの身に降りかかる病気、災い、心の迷いといったあらゆる「災い」を打ち払い、私たちを安らかで清らかな状態へと導く力を持っています。
この「息災」の風に乗り、不動明王と龍(不動明王の化身)の力を借りて大悲の岸へ渡る、とは、日々の生活の中で遭遇する苦難や煩悩を乗り越え、大日如来の慈悲の光に満ちた浄土へと向かう修行の道のりを象徴しています。
三密は浄菩提心である。顕教には無相真如の理とするも、真言密教では浄菩提心の無相を以て直に有相の三密とし、無相に即して有相を見る。大日経は初の住心品に無想の理を説き、第二品以下に有相の三密の事作法を明かす。『十巻章講説』(小田慈舟)
能寂の松風吹き寄せて、生死迷暗の雲霧払わせたまい、
紅頗梨の光明に照らされ 百色百光清浄土に到るなれば、
久しく蓮台に遊び無碍の甘露の妙楽を享なり
百光遍照王 紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀如来
三弁宝珠阿弥陀定印
阿弥陀如来の真言 「オン・アミリタ・テイ・ゼイ・カラ・ウン」
(oṃ amṛta-teje hara hūṃ)
意味は「無量光(阿弥陀如来の光)よ、滅罪せしめ給え、成就」
「阿弥陀如来根本陀羅尼(あみだにょらいこんぽんだらに)」ー検索
大光明を放つ。その光明は紅頗梨色なり。遍く十方世界を照らす。斯かる光に遇って照らされる者は、罪障が消滅し、皆、苦しみを離れることを得ない者は無し。無量の光明を流出して、一一の光明に於いて極楽世界を成す『無量寿如来供養作法次第(或云紅頗梨秘法)』
真言の威力(いりき)をもって、無量の罪を消滅し、引導(いんどう)して生死(しょうじ)の大苦(だいく)海(かい)を抜(ばつ)済(さい)し、安養(あんにょう)浄土(じょうど)極楽(ごくらく)世界に成仏せしめん 『稽首(けいしゅ)聖無動(しょうむどう)尊(そん)秘密(ひみつ)陀羅尼(だらに)経(きょう)』
百光字輪及び アン字において、即ち仏菩薩因果之四十二位功徳法門を摂し尽す 『百光遍照王義問答抄』(済暹)
又百字輪十二字等の真言観法三摩地門、及び金剛界三十七尊四智印の三摩地有り。即ち是れ大日如来の極秘の三昧なり。
『秘蔵宝鑰』「第十祕密莊嚴心 」(空海五十七歳)
第十住心「秘密荘厳心」の内実は『大日経』の「百字果相応品」の 真言観法三摩地門 と『瑜伽瑜祇経』などの「金剛界三十七尊四智印三摩地」である 『密教自心の探求』(生井智紹)
紅頗梨色阿弥陀とは金胎不二大日なり 紅頗梨色とは白赤の合色にして金胎不二(実厳・実範)
密厳浄土は大日の宮位極楽世界は弥陀の心地 弥陀は大日の智用大日は弥陀の理体密厳は極楽の総体極楽は密厳の別徳
『一期大要秘密集』(興教大師覚鑁)
大日即ち弥陀、極楽の教主なり。毘盧、弥陀は同体の異名、極楽・密厳は名、異にして、一処なり
『五輪九字明秘密釈』(覚鑁)
本尊を阿弥陀となすは、極楽教主にして、大日阿弥陀一体なり。金大日となすは、智にして智は光明に相応し、胎大日となすは、百光遍照王如来にて、光明と相応する。 参照『光明真言本尊事』(明恵上人)
光明真言とは大日如来の智慧の光明を説きたまい、阿弥陀如来は無量光仏とて一切如来の智慧の光明を主りたまう仏にて、此れを百光遍照の大日如来と名付け奉る『光明真言金壺集』(蓮体)
金胎不二大日の五智五色光は紅頗梨色阿弥陀如来の紅頗梨色の大光明となり、百光は十方世界を遍照して、その光に遇う者罪障消滅して、苦を離れ、大安楽を得る 『無量寿如来供養作法次第(或云紅頗梨秘法)』 それは、金剛薩埵毘盧遮那仏の大悲行願倶時に円満して無辺の有情を抜済する三摩地・大安楽なり『理趣経・五秘密法門』
ア字は胎大日の体にして、百光遍照は用なり 阿字の光明無量なるも統摂して百光とす
アン字は胎・阿弥陀は光明遍照十方世界の仏にして即ちアン字胎理法身百光遍照の大日なり
キリーク字は金・阿弥陀=修生顕得五仏 清浄金剛 五智宝冠は金界智法身 智は光明にして清浄なり
バン字は、阿弥陀を金界大日と為す義にして、佛智の徳相なるが故に妙観察智と為り、佛知見の種子なり。
『阿弥陀秘訣―種字事』(浄厳)
得自性清浄法性如来・・・は自性清浄にして苦厄を抜き、当に安楽国土に生じる『理趣釋』
供養が整えば、そこに功徳が生じます。 六種供養について
一、茶湯(水・湯・お茶)を供えることは布施(ふせ)の徳 二、塗(ず)香(こう)(粉末のお香を手に塗る)を用いることは持戒(じかい)の徳 三、花を供えることは、忍辱(にんにく)慈悲(じひ)の徳 四、焼香は仏道を進む精進(しょうじん)の徳 五、飯食(おんじき)は心が落ち着く禅定(ぜんじょう)の徳 六、燈明は仏光による智恵(ちえ)の徳
京極藩四つ目紋五具足の香炉 とろうそく立て
納骨壇 春分の日 土砂加持法会
白蓮社(幕末戊辰戦争のすぐ後、海援隊の本部が置かれ、この地が、海援隊の解散の地となる)の御本尊一寸八分 (5cm)の黄金阿弥陀仏(讃州府誌)が廃仏毀釈 により行方知れず となります。安置されていた御本尊をまつるために、
『黄金仏』の額を善通寺派初代管長蓮生観善大僧正が揮毫
無常なることは、時を問わず、人を選ばず
霊魂の存在を信じることなしに、死者儀礼・追善供養は成立しないと考えられます。「阿字の子が阿字の古里 立ちいでて また立ちかえる 阿字の古里」(人はみな大日如来(=阿字)の子として生まれ、最期にはまた大日如来の元へと帰って行く)と言う御詠歌『弘法大師御詠歌集』 にありますように、大日如来の世界密厳国土、その西方の阿弥陀如来の安養浄土・極楽世界に帰ります。この世こそが浄土であり、死者は残された人たちと同じ空間を生き続け、見守ります。僧侶の引導により来世での修行を積み、貪瞋痴の三毒執着から離れ成仏します。それは、日本の伝統的来世観から見ますと、霊魂が個性を失い祖霊の一員となることです。「引導を渡す」とは、死者を、迷界から浄土へと導く儀式で、死後何を目標に生きてゆくかを示します。(葬式は、残された者のために大切ですが、亡くなられた方のためのものです)剃髪し戒を守ることを誓う名前(戒名)を授かり仏弟子となります。死後直ぐに成仏できるのは、他者のために自分の命を犠牲にしたような一生を過ごした人で、普通の人はそれなりの時間をかけて成仏を目指します。よって、遺族は、あの世で修行中の家族を応援する追善供養を施す功徳を積みます。「冥福を祈る」とは、冥途の幸福を祈るのことです。人が亡くなると、死後七週間(四十九日、中陰、中有)、あの世とこの世の間をさまよい、七日ごとに計七回にわたり、閻魔大王をはじめとする十王から生前の行いに対する裁き(応援)を受け、四十九日目で転生する世界が決まるとされています。満中陰忌後は百ヵ日、壱周忌、三回忌(最後の閻魔王)で阿弥陀如来の摂取不捨の済度、つまり本地仏様の加護と功徳力により業苦を洗い落としていただき、清浄土に到着となります。修行が進展し、十七回忌には大空位に遊歩し、五十回忌に、全ての執着から離れ成仏が完成いたます。「静かにお眠りください」と言う言葉がありますが、安らかにお過ごしくださいという意味であり、煩悩に悩まされることがなくなるので安養であり、あの世の安楽とは、大慈悲心を発し利他行に尽くすことです。日本古来の来世観・神道・儒教・仏教が融合された先人の智慧が、鎮魂に大切かつ必要であり、僧侶は日々、取り組んでおります。
何も心配することはありません。仏様におまかせしてしまえばよいのです。「ここ・今・私」をしっかり生きて、なすべきことをなし、人生を楽しく送り、周りの人々に「ありがとう」を伝えましょう。
本地仏 閻魔十王 廻り目忌日・年忌
不動(ふどう)明王 閻魔(えんま)秦(しん)広(こう)王 初七日忌哭添(こくてん)忌
釈迦(しゃか)如来 初江(しょこう)王 二七日忌経分(きょうぶん)忌
文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ) 宗(そう)帝(てい)王 三七日忌光喜(こうき)忌
普賢(ふげん)菩薩 五官(ごかん)王 四七日忌阿(あ)経(きょう)忌
地蔵(じぞう)菩薩 閻魔(えんま)大(だい)王 五七日忌小練(しょうれん)忌
弥勒(みろく)菩薩 変成(へんじょう)王 六七日忌檀(だん)弘(ぐ)忌
薬師(やくし)如来 泰(たい)山(さん)王 満中(まんちゅう)陰(いん)忌大練(だいれん)忌
観音(かんのん)菩薩 平等(びょうどう)王 百ヶ日忌卒哭(そっこく)忌
勢至(せいし)菩薩 都市(とし)王 一周忌小祥(しょうしょう)忌
阿弥陀(あみだ)如来 五道転(ごどうてん)輪(りん)王 三回忌大祥(だいしょう)忌
「宝珠羯磨文様横被」仁和寺 鎌倉時代
明王堂(護摩堂)
福満愛染明王(天弓愛染)
愛染十七尊曼荼羅 如法愛染法・金剛王菩薩儀軌
梵字愛染明王
線から全てが愛染明王の真言(梵字)で描かれています
空前絶後 前代未聞
愛染十七尊曼荼羅・梵字愛染明王ともに当山第二世淸嚴大和尚畫
石仏愛染明王
愛染明王真言 「オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク」
「ウン・タキ・ウン・ジャク」 (Hūṃ ṭaki Hūṃ jaḥ) 「ウン・シッチ」 (Hūṃ Siddhi)
「一珠、百光 ― 世界を照らす重々帝網」 「あなたのひかりが、わたしを照らし、世界を満たす」
御詠歌の壮大で象徴的なイメージ~ 複数の宝珠が光を放ち、互いに輝き合う様子を描くーーー「重々帝網」の世界
福満愛染明王御詠歌 『福満の こがねのやたば とびきたり あまねくてらす たまのかがやき』
この御詠歌は、愛染明王の救済のあり方を非常に具体的に、かつ詩的に表現しています。遍照寺の福満愛染明王の功徳を、視覚的で美しい言葉で表現し、訪れる人々に「愛染明王の智慧の光は、どんな煩悩も清らかな悟りへと転じさせ、あなたのすべての願いを速やかに叶えてくれる」という力強いメッセージを伝えているのです
まとめ(御詠歌の構造)
• 福満 … 功徳充満、五福が満ちる基盤。
• こがねのやたば … 煩悩を射抜く智慧の矢束(五種(修)法の統合)。
• とびきたり … 速疾の救済、加持の力。
• あまねくてらす … 遍照、大日の働き。
• たまのかがやき … 宝珠の光、最終的な大満願成就。
御詠歌は「五種(修)法の起(矢束)→承(飛来)→転(的中・遍照)→結(宝珠の輝き)」の流れを凝縮しており、愛染明王の本質=煩悩即菩提、愛欲即菩提を象徴的に示しています。
各句の詳しい解説と関連する用語
「福満の」
この句は、愛染明王の尊称である「福満」を冠しています。「福」は単なる幸福だけでなく、護摩修法で祈願する五福、すなわち福寿(息災安全)、福利(招運繁栄)、福縁(諸縁円満)、福勝(怨敵退散)、福成(満願成就)を指します。愛染明王の力によって、これらの五つの福が満ち溢れることを表現しています。護摩修法の種類 五種(修)法 息災・増益・敬愛・調伏・鉤召より 五福無尽円(成)満 全ての願いをかなえます。大満願成就を果たします。 「福徳が満ち満ちる」の意は、愛染は欲・愛を嫌わず、その力を菩提へ転ずる煩悩即菩提、愛欲即菩提を象徴的に示しています。
護摩修法と「五福無尽円満」
密教における修法の基本は五種(修)法:
1. 息災法 … 災いを鎮め、寿命を延ばす(福寿・息災安全) 五鈷杵・五鈷鈴
2. 増益法 … 福徳を増やし、繁栄を招く(福利/福徳・招運繁栄) 宝瓶
3. 敬愛法 … 人々の心を和し、縁を結ぶ(福縁・諸縁円満) 定弓・慧箭
4. 調伏法 … 邪悪・怨敵を調伏する(福勝・怨敵退散) 右手未敷蓮華 左手空拳
5. 鉤召法 … 必要な縁・人・福を引き寄せる(福成/福智・智慧・満願成就) 五鈷鉤
これらが相互に循環し、五福無尽円満となります。つまり、一つの修法に偏らず、愛染明王の加持を通して「すべての願いは相互に満ち合い、最終的に大満願成就に帰す」ということです。
「こがねのやたば」(黄金の矢束)
五種(修)法の功徳が束となり(矢束)ます。
「こがね」は「黄金」、つまり金色の光を放つ輝きを指します。「黄金」は貴さと不壊(ヴァジュラ)の徳。慈悲の働きが力強く確実であることを示します。 「やたば」は、愛染明王が手に持つ弓と箭(矢)の象徴であり、「人心を結び、諸縁を和合させる敬愛のはたらき」を示します。
•浄菩提心(煩悩を断ち、悟りを求める心)を示す五鈷(五智如来の智慧を表す)が鏃(矢じり)となっています。
•この箭が放たれる(飛び来たる)ことは、衆生の煩悩や迷いそして厭離心(逃避)を射抜き「化他降魔の義」、仏の智慧の光に変えることを意味します。また、「敬愛速疾の義」、つまり速やかに敬愛の心をもたらす、衆生の心を引き寄せる愛染明王の功徳を表しています。 愛染明王の矢は、私たちの煩悩を打ち消すためのものではありません。むしろ、私たちの心にある愛や情熱といったエネルギーを、悟りへと向かう方向へと導くための光の矢なのです。
一本の矢でなく束であるのは、多様な衆生のそれぞれの縁に的確に届く方便の多さ、五欲・五智などの複数象徴を束ね、煩悩即菩提の統合を示唆します。衆生の本有倶生の欲染を直ちに浄菩提心の金剛薩埵の染愛三昧の化身とし、これを愛染明王とします。
宮沢賢治の詩「いちょうの実」にある「黄金の矢」の描写、「光(ひかり)のたばが黄金(きん)の矢(や)のように一度(ど)にとんできました」は、まさにこの「こがねのやたば」のイメージと重なります。遍照寺の愛染明王の縁樹がイチョウであることからも、この御詠歌がイチョウの実が黄金色に輝き、風に舞い散る様子を、愛染明王が放つ黄金の箭に重ねて詠んでいることが分かります。
「とびきたり」
「飛び来たる」は、愛染明王の箭が、時空を超えて速やかに、分け隔てなく人々のもとへ届く様子、願い・祈りに即応して働くという迅速性(「速疾力」)を表しています。この箭は、単なる物理的な矢ではなく、愛染明王の慈悲の力そのものです。人々の心にある「本有倶生の欲染」(生まれながらに持つ根源的な煩悩)を射抜き、それを清らかな「浄菩提心」へと転化させる働きを、この一言で表現しています。仏の力が衆生に「加えられる」(加)と、衆生がその力に感応し「受け止める」(持)という、密教の重要な概念である「加持」を、この一句が凝縮して示しています。
「あまねくてらす」
「あまねく」は「すべてにわたって、広く」という意味です。愛染明王の光が、この世のあらゆる場所に、すべての人々に平等に降り注ぐ様子を表しています。この光は、煩悩の闇を払い、人々の心を明るく照らします。明王は応現の姿で、衆生の呼びかけにただちに到来します。個別の願い(弓矢の到来)から、全方位の救済(光の普遍化)へと広げています。
「遍照」は大日如来の別名。遍照寺の寺号と掛詞になり、本地(大日)—垂迹(愛染)の関係
「たまのかがやき」
「菩提心 おこすは仏の 母なれば これをはなれて さとりなるなし」ー『大乗本生心地観経』「菩提心は道場の大種子なり」ー高野山御詠歌集
「たま」は「玉」、つまり宝玉や真珠の輝きを指します。最高の摩尼宝珠『浄菩提心』(如意宝珠の光。所願成就の象徴であると同時に、真言宗では菩提心そのものを珠に譬えます)の輝きは、仏の智慧や慈悲の光、そして満願成就という最も尊い結果を象徴しています。愛染明王の救済によってもたらされる、五福が無尽に円満となる大満願成就の光景を美しく表現しています。また一つの珠の輝きが百々に分光して世界を満たす(百光山)――個の祈りが普遍の利益へ展開していきます。
「一珠が百 百がまた千に ひろがりて み仏の道に 入るぞうれしき」ー豊山派「青年会詠歌集」の「珠の功徳」
「一珠、百光 ― 世界を照らす重々帝網」「あなたのひかりが、わたしを照らし、世界を満たす」
『天弓愛染』の姿は、経典に記されている「衆星の光を射るが如し(しゅうしょうのひかりをいるがごとし)」という表現を仏像として具現化したものです。
星の光を捉え、人々が抱える煩悩や欲望を正しい方向へ導き、願いを成就させる力を持ちます。
弓は「欲望を調御する智慧の働き」・矢は「煩悩を貫き浄化する方便」
その矢はしばしば「五色の光明」を放ち、衆生を射抜いて救済するとされ、人と人、師と弟子、仏と衆生を結ぶ「縁結びの明王」として信仰されます。
「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)」**という華厳経の深い教え(「重々帝網」とは、帝釈天の宮殿の天井に張り巡らされた網のことで、その結び目には一つひとつが宝珠(たま)であり、すべての宝珠が互いを映し合い、その中に他のすべての宝珠の輝きが映り込んでいるという概念です。これは、宇宙のすべての存在が互いに影響し合い、無限の関係性の中で光り輝いている様を象徴しています)が含まれています。
あまねくてらす: これは、愛染明王の智慧の光が、分け隔てなく、無限に広がり、私たち一人ひとりを照らしている様を表しています。この光は、愛染明王という一つの宝珠から放たれた輝きです。
たまのかがやき: この「たま」は二重の意味を持ちます。一つは愛染明王の智慧そのものであり、もう一つは、その光を受けた私たち一人ひとりの心に宿る仏性(菩提心)の輝きです。
愛染明王の光を受けた私たちの心もまた、一つの「たま」となって輝きを放ちます。その私たちの輝きが、今度は隣にいる人、さらには世界中の人々を照らし、無限の「光のネットワーク」を形成していくのです。愛染明王の加持によって、私たち一人ひとりが菩提心という宝珠の輝きを放ち、その輝きが互いに連鎖し、「重々帝網」のようにこの世全体が光に満たされていく様を歌っています。これは、煩悩を抱えたこの身のままで、仏と同じ悟りの境地に至る「即身成仏」という未来の成就を力強く示唆しているのです。
愛染明王がただ願いを叶える存在ではなく、私たち自身が光り輝き、他者をも照らす存在へと変わっていくことを促す、深い教えが込められた歌なのです。―菩薩の利他行ー菩薩(ぼさつ)の用心(ようじん)は皆(みな)、慈悲(じひ)を以(もっ)て本(もとい)とし、利他(りた)を以(もっ)て先(せん)とす
次に、愛染明王の教えである「煩悩即菩提」のプロセスの視点からー動的な映像として描く
1.欲・愛(矢)は、煩悩として執着すれば苦しみとなりますが、愛染明王の力(矢)によって方向づけられれば、悟り(菩提)へと向かう強力なエネルギーに変わります。
2.祈りによって、愛染明王の矢が心に届くと(発心)、心中の宝珠(菩提心)が自ら輝き始めます(自受用)。
3.その光は、自分自身だけでなく、人間関係、地域、そして世界へと遍く広がり、他者をも照らす慈悲の光となります(他受用)。
この「飛来する矢」から「胸中の宝珠」へ、そして「遍く照らす光」へと展開する流れは、個人の祈りが普遍的な利益へと昇華していく、密教の教えを分かりやすく示しています。
内発→外照の道程を、飛来→遍照の二画面で描いています
寺号との呼応
• 矢束=心を結ぶ力(敬愛):明王院の力強さ
• 宝珠=成就と智慧(増益):百光山の光
• 遍照(個の願いが普遍の光へ):遍照寺の慈悲
三尊合行法が示す「曼荼羅乃里」
「入りの宝船」:船に積まれた宝とは、福満愛染明王が授ける「浄菩提心の玉」です。
掲載の軸図からわかりますように、宝瓶を龍(不動明王)が取り巻いています。
唱えるときの観想ガイド(簡易) の例
合掌一礼。静かな呼吸で。
1句「福満の」:紅蓮華座の愛染を正面に観る。
2–3句「こがねのやたば/とびきたり」:胸の中心に黄金の光の矢がやさしく届き、不安・孤独・怒りを解きほぐすと観ずる。
4–5句「あまねくてらす/たまのかがやき」:胸中の宝珠が円光を放ち、自他の幸せと調和が広がると観ずる。最後に一呼吸、光を百光に分けて周囲へ。
御詠歌を唱える際は、愛染明王の黄金の矢が自分自身に届き、心に宿る宝珠が輝き出し、その光が周囲を照らす(「飛来する矢」→「胸中の宝珠」→「遍く照らす」)という流れを心に描けば、愛染明王の福満の功徳をより深く感じることができ、福満の働きが、日々の暮らしに具体的な手応えとなって現れてきます。
人生への適用(例えば)心を柔らげる(矢の調御)。次に「相手も宝珠を宿す」と観じ、言葉を選ぶ。
先が見えない → 宝珠の光を今日の一歩(連絡一本、片付け15分、散歩10分)へ照らす。小成就の反復が福満を招く。
仕事・経営 → 「矢束=複数の手立て」。一点突破に固執せず、三つの代替策を同時に走らせ、どれかが当たれば珠が分光する、と構える。
愛染明王とは―密教大辞典より一部分 詳細は密教大辞典へ
有情悲済の御心深く、愛敬至情を本誓とし、王者の三昧に入り給うが故に、凡聖不二の証しを表し、衆生の愛欲貪染をそのままに、浄菩提心と成して、煩悩即菩提 即事而真の教益を示したまう
真霊験顕かなること 衆星の光にも似て限りなく、何処と雖も忽然と現れ、其の威徳盛んにして、譬うもの無し
明王の慈悲衆生界に遍く、熾盛日輪に住し勇健の菩提心示したまうも、その効能は、光の箭を射るが如く、忽ちに衆生有情に吉祥を恵ませ、満足為さしめ給う
施宝の尊なれば、願うがままに宝を授ける
いちょうの実といちょうは、仏教では象徴的な意味を持っています。いちょうの実は、仏教の教えに従って生きることで得られる智慧や悟りを表しています。いちょうは、仏教の四諦(四つの真理、「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」)に基づいて、苦しみの原因と解脱の道を示しています。いちょうの葉は、苦しみの原因である欲望や無知を切り捨てることを意味し、いちょうの枝は、苦しみから解放されることを意味します。また、いちょうは、仏教の三宝である仏・法・僧にも対応しています。いちょうの幹は、仏陀の尊厳や慈悲を表し、いちょうの花は、仏法の華やかさや清浄さを表し、いちょうの実は、僧伽の結束や調和を表します。したがって、いちょうの実といちょうは、仏教的な視点から見ると、人間の生き方や目的に関する深い教えを含んでいると言えます
また、仏教の輪廻の思想と共通しています。 宮沢賢治の詩「いちょうの実」を参照しても、
いちょうの実が木から落ちて、風に吹かれてさまようように、私たちの魂も生まれ変わり、さまざまな世界を旅します。
いちょうの実たちが、母親であるいちょうの木から旅立つことを決意するのは、私たちが、親や故郷から離れて、自立していくことを意味します。
いちょうの実たちが、旅立つ前に、母親に別れを告げるのは、私たちが、親や故郷への感謝の気持ちを忘れずに、旅立つことを意味します。
いちょうの実たちが、旅立った先で、さまざまな経験をするのは、私たちが、人生の中で、さまざまな苦難や喜びを経験することを意味します。
いちょうの実たちが、いつか、また母親のもとに戻ってくるのは、私たちが、いつか、また親や故郷に戻ってくることを意味します。
こがねのやたば とびきたり
百色百光清浄土に到るなれば、
どうぞ、曼荼羅の里に「遊歩」ください ともに歩みましょう
愛染明王
種字読み方 コク
種字読み方 カーン
元旦 福満愛染明王護摩
節分 烏枢沙摩(うすさま)明王護摩
3月~11月の28日 まもり不動尊護摩
不動明王三鈷剣(文殊三昧耶形利剣)
波平安行之作
「平将門の乱に於て追討退治に大きな加持力が働いた」謂れあり 生駒聖天宝山寺の中興開山湛海(律師 )大和尚に御縁あり
お顔は見えません
不動明王真言
中咒・慈救咒:じくしゅ 「ノウマク サンマンダ バザラダン セ ンダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
小咒(一字咒)「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」
大咒(火界咒)「ノウマク サラバタタ ギャティビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」
烏枢沙摩明王(別名火頭金剛)――火光三昧力―― 紅頗梨色阿弥陀如来 の子ども(教令輪身)である不動明王の分身(所変)とする 形像は右手 三鈷剣・右下手満願印・左手赤索(索盤蛇に似る)・左下手寶数珠 頭上に白竜・胸前二赤竜の交差・四手二足に青竜の計九竜 火炎怒髪 火炎光背
小咒「オン クロダノウ ウンジャク ソワカ」 解穢真言 「オン シュリ マリ ママリ マリ シュシュリ ソワカ」
まもり不動尊 御詠歌 『ふくしまや 濱の松原 さよふけて あまねくてらす のりのつきかげ』
この歌は、仏教の教えである「空」と「有」を、夕暮れの松原の光景に重ねて詠んだものと解釈されます。
「空」とは、すべては空であり、実体はないという教えです。これは、現実の世界は、私たちの思い込みによって生じた幻想であるという考えです。
「有」とは、すべては実在しているという教えです。これは、現実の世界は、仏の慈悲によって創り出された真実であるという考えです。
この歌では、夕暮れの松原の光景が、空と有の両方の側面を象徴しています。
夕暮れの松原は、夕陽に照らされて、金色に輝きます。この光景は、空の側面を表しています。夕陽は、私たちの思い込みを消し去り、真実を照らし出すものとして解釈されます。
また、夕暮れの松原は、夕空に浮かぶ雲に映って、さまざまな形に見えます。この光景は、有の側面を表しています。夕空に浮かぶ雲は、仏の慈悲によって創り出された世界を表すものとして解釈されます。
夕陽に照らされて金色に輝く松原は、空の側面を表す「智慧」を表しています。夕空に浮かぶ雲に映ってさまざまな形に見えるのは、有の側面を表す「方便」を表しています。
夕暮れは、私たちが現実の世界から解脱する時間であり、松原の金色の光は、解脱した先にある真実の世界を表しています。
密教における方便(ほうべん)は、単に「手段」を意味するだけでなく、仏が衆生を救済するために用いる、あらゆる智慧と慈悲に満ちた巧妙な教えや方法を指します。
1. 方便の二つの側面
衆生の機根(きこん)に応じる側面: 衆生はそれぞれ、理解力や能力、心の状態が異なります。仏は、その一人ひとりの特性(機根)に合わせて、最適な教えや修行法を示します。これが方便の基本的な考え方です。例えば、怒りの感情が強い人には、不動明王のような憤怒の形相を拝ませることで、その怒りを悟りのエネルギーに変える方法を教えます。
真理を象徴する側面: 曼荼羅や仏像、真言(しんごん)などは、言葉では表現しきれない深遠な宇宙の真理を、目に見える形や音として象徴的に表したものです。これらもまた、方便です。行者は、これらの象徴的な「道具」を用いることで、真理を体感し、悟りへと近づくことができます。
2. 密教における主な方便
密教では、以下のようなものが方便として用いられます。
曼荼羅(まんだら): 宇宙の真理や仏の世界を視覚的に表現したものです。
真言(しんごん): 大日如来や諸仏の真理を凝縮した神秘的な言葉。
印相(いんぞう): 仏の智慧や悟りを象徴する手の形。
行法(ぎょうほう): 瞑想や護摩(ごま)など、悟りを目指すための具体的な修行方法。
これらの方便は、すべてが「自らが仏である」という真理に気づかせるための「手段」であり、目的そのものではありません。
3. 「方便」と「究竟」の関係
密教の教えは、「方便(手段)」と「究竟(くきょう/最終的な目的)」の関係で理解されます。
方便: 上記の行法や象徴など、悟りに至るためのあらゆる方法論
究竟: 究極の目的である「即身成仏」、すなわちこの身のままで仏となること。
つまり、方便は、迷いに満ちたこの世(俗諦)から、真理に満ちた悟りの世界(真諦)へと私たちを導くための橋渡し役を担っているのです。
次に密教の解釈を加えていきます
この御詠歌は、百光山明王院遍照寺の御詠歌であり、「息災」の御利益を持つ通称・『まもり不動尊』を讃える歌です。一見すると、美しい夜の風景を描写した歌のように見えますが、密教の深遠な教えが時間軸に沿って重層的に織り込まれています
1. 過去 (仏との出会いと「菩提心」の発露)
「ふくしまや 濱の松原」という句は、単なる地理的な場所を指しているだけでなく、私たちが仏教と出会った場所、そして菩提心(悟りを求める心)が芽生えた場所を象徴しています。
・ふくしまや:この寺がこの地にできたときは福島という地名で裏の海は『面白が浜』という松林でした「福島の」という言葉には、「福が満ちる」「幸せがくる」という吉祥的な意味合いが込められています。この地で仏に出会うこと自体が、私たちにとって大きな幸運であることを示唆しています。
祝福(福)の「島」と、常磐(ときわ)の「松」・松は常緑=不変の誓願(菩提心)。変わらぬ護りと清涼の景色をとおして、まもり不動尊の働きを映します。※特定の地名を超えて、霊地の象徴としても読めます。
「濱の松原」は、日本の伝統的な美しい風景であり、多くの歌や文学作品に登場します。この情景は、自然の厳しさや美しさ、そしてどこか物悲しい風情を連想させ、後続の「さよふけて」へとつながる序章となっています 風に吹かれ、波に洗われる過酷な環境でも常に青々としている松は、不変の仏性や揺るぎない誓願(菩提心)を象徴します。この松原に立つことは、煩悩の波にさらされる現実世界にあっても、仏の教えに触れ、悟りを求める心が芽生えることを意味します。 この句は、仏の教えとの出会いを通して、私たちが悟りへの第一歩を踏み出した、過去の重要な瞬間を描写しているのです。
2. 現在 (不動明王の「加持」と「息災」)不動明王の羂索(けんさく=慈悲)が“荒ぶる波”を繋ぎ止め、利剣(智慧)が煩悩の根を断ち切る。
「さよふけて あまねくてらす のりのつきかげ」という句には、不動明王の「加持」の働きと、その御利益である「息災」の力が凝縮されています。
さよふけて:「夜が更けて」という言葉は、私たちの心が深い夜の静寂迷いや不安、煩悩という闇に覆われている状態を象徴しています。私たちが苦しみの中にいるその時にこそ、不動明王の働きが真に意味を持ちます。夜の深まり=内観が澄むこと。感情の波が静まるほど、三密(身口意)の行が染み込む“時”。息災が最も働きやすい“心の気象条件です
のりのつきかげ(法月影):「のり」は「法(ほう)」のことで、仏教の教え、特に不動明王の慈悲と智慧を指します。遍照=大日如来の光。不動明王は大日如来の忿怒身。火焔の明るさ/月影のやわらかさ――同一の「闇を祓う智慧」の二相。「つきかげ」は月の光のこと。満月のように煌々と輝く光ではなく、静かで慈悲深い月の光として表現しているのが特徴です。夜が更け、松原に降り注ぐ月光は、俗世から離れた静寂な境地、つまり仏が自ら悟りの喜びを享受している姿を暗示しています。この悟りの喜びこそが「自受用」です。 不動明王の教えは、激しい怒りの姿で迷いを断ち切るだけでなく、静かな月光のように、慈悲の心で優しく人々の心を照らし、安らぎ・穏やかで静かな救済を与えるものだと示唆しています。
月影は差別なき平等智。光は誰彼なく照らす―「あまねく」は「すべてに、広く」という意味です。月光が特定の場所だけでなく、松原全体、ひいては世のすべてを分け隔てなく照らすように、仏の教え(法)もまた、一切の衆生に平等に施されます。 ―これが息災の奥義。この「法の月の光」こそが、不動明王の大悲の光明です。月光は太陽の光を反射するように、不動明王の光明は大日如来の智慧の光を私たち衆生に届けてくれます。この光は、分け隔てなく、あらゆる場所を「あまねくてらす」ことで、私たちの心の闇を打ち払い、煩悩を鎮めてくれます。個人的守護(まもり)にとどまらず、苦しむ人々を救うために慈悲の光を広げる「他受用」の働きです。 周囲一切を安穏へ導く利他がすでに含意されています。
この光が私たちに降り注ぐことが、密教でいう「加(か)」、すなわち仏の慈悲が衆生に与えられることです。そして、私たちがその光を受け止め、心の闇が晴れることが「持(じ)」、すなわち衆生が仏の力を保持することです。この「加持」の働きによって、私たちは心身の苦難から解放され、「息災」という平安な状態を得ることができるのです。 火(護摩炎)と水(月影・潮騒)の調和は、「忿怒と慈悲の一味」という密教的美学を言外に伝えてくれます。
3. 未来(悟りへの道と「即身成仏」)
この御詠歌は、単に御利益を願う歌で終わるのではなく、最終的に「即身成仏」という未来の成就を示唆しています。
不動明王の光明(法月影)は、私たちの心の闇を照らし続けることで、私たちの中に本来備わっている仏性(菩提心)を呼び覚まし、育んでくれます。この歌は、その加持の働きを絶え間なく受け続けることで、いつの日か私たちが不動明王と同じ境地に達することができるという希望を示しているのです。
「月かげ」という言葉が象徴するように、悟りへの道は一足飛びに進むものではありません。夜空を静かに照らす月のように、不動明王の加持は静かに、しかし絶え間なく私たちを照らし続け、日々の生活の中で少しずつ、しかし確実に悟りの境地へと導いてくれます。
この御詠歌は、過去(菩提心の発露)、現在(加持と息災)、そして未来(即身成仏)という時間の流れを凝縮して表現しています。私たちが迷いの闇にいる時、不動明王の法月影は常に私たちを照らし、悟りへの道を照らし続けているという、力強く、そして慈悲に満ちたメッセージを伝えているのです。
まとめ もう一度
まず、「ふくしまや 濱の松原 さよふけて」という前半は、具体的な場所(福島)と、夜の松林という情景を通じて、私たちが直面する苦悩や不安を表現しています。夜の闇は、現代でいえば、病気、人間関係の悩み、災害など、人生のあらゆる困難の象徴です。
そして、「あまねくてらす のりのつきかげ」という後半で、その闇を打ち破り、月光は火や日光よりも冷静で反映的な光で、物事の真相をやさしく、しかし確かに見せる性質安らぎを与える不動明王の慈悲の光が示されます。不動明王が持つ剣は煩悩を断ち切る象徴であり、背後の炎は迷いを焼き尽くす力ですが、この御詠歌では、月の光にたとえることで法の光を世界に広げる働き、穏やかで静かな救済の側面を強調しています。不動明王は「破(煩悩を断つ・剣)」「攝(縛る・羂索)」「焼(煩悩を焼く・火)」の三つの働きで衆生を救う。
この詠歌では、直接的な火や剣の描写はないが、夜闇(煩悩・迷い)を「法の月影」が照らすことで、不動の護持(守り)が成就するという形で表される。つまり、猛々しい救済作用(不動)を、法の優しい光が包む
不動(火・剣・羂索の猛々しい側面)と対照的に、静かな智慧の光が夜の松原を照らす――この二つが合わさって「護り」と「導き」が成り立ちます
「人生の苦悩(夜の闇)に直面したときでも、遍照寺のまもり不動尊の分け隔てない慈悲の教え(法の月影)が、全ての人々を広く照らし、導いてくれる」**という深いメッセージを伝えています。
この歌は、遍照寺を訪れる人々に、不動明王の力が常に共にあること、そしてどんなに深い闇の中でも希望の光が必ず差し込むことを、静かに語りかけているのです。
三尊合行法が示す「曼荼羅乃里」
追記
松風の里に吹く「息災」の風 「菩提心」の宝船
掲示写真にあるように、福島には本堂に向かって枝を伸ばす特別な松があります。この松は、まるで宝物を載せた船が岸に着くような姿をしているため、「入りの宝船」と呼ばれています。
この「宝船」は、単なる縁起物ではありません。仏教の教え、特に密教の深い意味を象徴しています。
宝船の「宝」:船に積まれた宝とは、福満愛染明王が授ける「浄菩提心の玉」です。
宝船の「帆」:この船の帆には、まもり不動尊の最大の御利益である「息災」の文字が大きく書かれています。不動明王は、あらゆる災難や魔を打ち砕く力を持つ仏です。この「息災」の風は、私たちの身に降りかかる病気、災い、心の迷いといったあらゆる「災い」を打ち払い、私たちを安らかで清らかな状態へと導く力を持っています。
この「息災」の風に乗り、不動明王と龍(不動明王の化身)の力を借りて大悲の岸へ渡る、とは、日々の生活の中で遭遇する苦難や煩悩を乗り越え、大日如来の慈悲の光に満ちた浄土へと向かう修行の道のりを象徴しています
能寂の松風吹き寄せて、生死迷暗の雲霧払わせたまい、紅頗梨の光明に照らされ
百色百光清浄土に到るなれば、・・・
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
くまもなく すめる心の かかやけば 我が光とや 月おもふらむ (明恵上人)
参照 『月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ』 法然上人のお歌であり、浄土宗の宗歌
どうぞ、安養楽の里に「遊歩」ください ともに歩みましょう
『不動忿怒瑜伽要鈔』(浄厳)ー訓下・加注ー(松本照敬)
『霞文様 』ー永遠を意味する吉祥文様 『老松』ー 長寿と繁栄 『青海波 』ー未来永劫に続く幸せや平穏な暮らし
年々によき年 なれと祈りつつ 拾いし年の積りたるかも
我が朝は 天高くして美しくあると思うが如く あるかも
老松の枝を落ちゆく夕日かげ この家の中を貫き照らす
美しく燃ゆる夕べがわがもののように 毎日 美しくあり 清水比庵
さて、「死んだ人は、どうなるのですか?」
霊魂が肉体を離れるとみなす点は、ほぼ世界共通ですが、宗教によって答えが異なります。審判によって天国と地獄に行き先が分けられるというのが多数派です。仏教では、別の生命体に生まれ変わるか、浄土とよばれる特別な場所にいると考えられます。
「死を迎える時は、どうなるのですか?」
日本では、昔から仏菩薩やすでに亡くなっている親族が『お迎え』に来ると言われていました。最近の学術研究から、かなり高い頻度で起こっている事実が明らかになりました。親しい人の『お迎え』を体験した方は、安らかな最期を迎えられたという報告があります。
「霊魂は、どんな姿・形をしているのですか?」
「霊(霊魂)は祟るのですか? 除霊できますか? どうすれば鎮魂できますか?」
「幽霊とは? 人にどのような影響を及ぼしますか?」
「お墓や仏壇に霊魂はいるのですか? 骨に宿るのですか?」
「遍照寺では、霊魂について、どのように教えていますか?」
明治時代に欧米から科学的方法論に基づく仏教学が導入され霊魂の存在の否定の学説が主流になり学問仏教では、霊魂がないことになっておりますが、最近の仏教文献学では、ブッダは、霊魂の存在を必ずしも否定していないという説が台頭しています。宗派によって考え方は異なりますが、真言宗など密教系では、霊魂はあるとみなしております。
「戒名は誰のためのものですか?」
死後の霊魂のためです。死者を僧侶として仏の世界へ送り出すためです。
「お葬式には、どんな意味がありますか?」
亡くなった方の霊魂を、無事に死後の世界へ、仏の世界へ送り届けることです。
お葬式は、残された者のためではなく、亡くなられた方のためのものです。
「天国・浄土はどんなところですか?」
何も心配することはありません。―仏様におまかせしてしまえばよい―遍照寺の御本尊百光遍照王紅頗梨色(ぐはりしき)阿弥陀如来と不動明王様が面倒をみてくださいます。(われらみな 仏の子)
「阿字(あじ)の子が阿字(あじ)の古里(ふるさと)立ち出でて、また立ち帰る阿字(あじ)の古里(ふるさと)」伝弘法大師
阿字(あじ): 大日如来を象徴する梵字の最初の音で、宇宙の根源、すべてのものの始まりを意味します。
阿字の古里: 大日如来の住む清らかな世界、すなわち悟りの境地や宇宙そのものを指します。
阿字の子: 「阿字」から生まれた私たちすべての存在、衆生のことです。
「ここ・今(元気なうちに・動けるうちに)・私」をしっかり生きて、なすべきことをなし、楽しい人生を送り、周りの人々に「ありがとう」を伝えてください。
延命地蔵 地蔵菩薩の真言「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」 鎮守堂―天満天神・神変大菩薩(役行者)・瑜伽大権現
何も心配することはない――仏様におまかせしてしまえばよい――今、ここで、私が生きている「生」をしっかり生きていれば、死後のことは仏様が面倒をみてくださる。(われらみな 仏の子)
「オレの葬式」を段取りしても、自分が、いつ、どんな死に方をするかわからないし、遺族の考えや都合もある。死後の後始末は、後始末をやってもらう人が困らないように話をして準備しておくことが大切。
家族等と一緒に楽しい人生を生き、語っておきたいことを語り、今「ありがとう」と伝えておく.これが、『終活』です
無量光仏刹の文字は、弘法大師の書跡からの集字で、できております。
塔婆――造塔の功徳
塔婆と言うのはインドの言葉でスツ―パ、率塔婆と申しますのが、起源であります。
それが日本語となって塔となり、英語でタワーとなりました。バンコク王宮寺院の塔を初めタイ・ミヤンマーの高い仏塔、中国西安の大雁塔、奈良の法隆寺・薬師寺や京都の東寺の塔、高野山の根本大塔などが有名であります。起こりは、お釈迦さまの入滅後、その仏舎利を印度八国に分けて八つの塔を建立したのが始まりであります。
法華経には、子供が遊びで 砂を集めて仏塔を造ったとしても、心に乱れを持っていても仏塔や仏廟に入り一度でも仏に帰依すると唱えれば、皆既に仏道を成就していると、涅槃経では、法身舎利(仏性)を尊重すれば、一切衆生を化度せんがために諸仏の塔廟を礼拝供養すべし・・・と説かれております。それ以来、塔は仏教の中心を表す建物であるとともに、その教えの根本をも表す重要なものとなったのであります。
高野山の根本大塔は、まさしく真言密教の中心で、胎蔵の五仏を祀り金胎不二一体の密教最高の教えを示し、二重の塔のように見えますが、実は下から地、水、火、風、空の五輪であり、その形も下から、方形、円、三角、半円、宝形を形どり、五大を表します。随って、五輪塔婆は五大といわれる仏さまのいのちを形作っているのであり、本尊大日如来を表しております。よって根本大塔は法界体性塔と言われます。
現在は法要法事の時、板塔婆や角塔婆が使われ、お墓に五輪塔が建っていますが、すべて、これは大日如来を建立し、即身成仏を願う意味がありますから、大きな功徳があるとされております。表にキャ、力、ラ、バ、アの梵字を書き、裏にバン字を書くのも本尊大日如来さまそのもので、宇宙全体に三世に亘って生きている仏さまのいのちを塔婆は表していますので、まさに、いのちのシンボル、菩提の標識ということができます。
他の仏教各宗でも、この真言密教の五輪塔をまねて、五輪の塔婆を使うことになっています。塔婆を建てるということは速やかに成仏を願い、聖霊への追善菩提を祈るものであり、この上ない功徳と供養になります。昭和五十年、個人の寄進で志度寺の五重塔が建立されましたが、誰にでもできることではありません。先祖の追善供養を願う気持ちは、誰もかわりませんので、根本大塔や五重塔を建てるつもりで、板塔婆が用いられることになっております 五輪塔 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E5%A1%94
摩尼車 鐘を鳴らし、一回廻すと「般若心経」を一回唱えたことになります。
摩尼とは、摩尼宝珠、如意宝珠、とも言われ、意のままに宝をだす珠のことで、そこから仏性と訳され、仏様の徳、お経の功徳に喩えたりします。悪を払い、濁水を澄ませるように汚れた心を澄んだ心にして、災難をさけ、願い事がかなえられる功徳があります。清浄になれますよう、心静かに念じながらお回しください。
開山 戒琬寶嚴(かいえんほうごん)大和尚のお墓
後右 蓮井麗厳大和尚のお墓
寺院文献資料学の新展開 第9巻 近世仏教資料の諸相Ⅱ 臨川書店
第6章 寶厳の修学と法流授受の様相―『故寶厳大和上行状記』を軸として
行状記は 大通寺南谷の撰述。本論文は向村九音氏(日本学術振興会特別研究員)による。
多度津産まれ、道隆寺に入り、高野山で学び続いて江戸にて『浄厳大和尚』(古来の流派を統一して新安祥寺流を大成した真言宗の巨匠・梵学を復興・黄檗版大蔵経に秘密儀軌を編入・将軍綱吉の湯島の地の喜捨により霊雲寺開祖)について直接修学し、後に霊雲寺二世『慧光大和尚』(教風宣揚の後東大寺戒壇院長老に就き、中興の偉業を達成)法兄よりも教えを受け、道隆寺に戻り住職十三年の間に現在の本堂他主要な建物を築き、後住を定め、丸亀福島の遍照庵に閑居。すぐ、金毘羅象頭山金光院、讃岐一円、阿波で新安祥寺流伝授に努め、高野山北室院主の招きに応じて十四の塔頭寺院に伝授し、僧としての初期に高野山で学んだことに対しての恩返しをする。北室院主昶遍は後に高野山金剛峯寺座主 管長 第303世となる。続いて、京都粟田口歓喜院(生駒聖天宝山寺の中興開山湛海が若き時開山)に逗留、大通寺南谷(大通寺は源実朝公菩提寺、六孫王神社の復興に尽力し東山天皇から紫衣(しえ)をおくられる、能書家)との旧約により、大通寺に寓居。法流伝授。後も京・高野山・讃岐と巡錫。新安祥寺流がいき渡ることになる。淡路島・千葉・倉敷・山口にも足跡が残されており、全国にも流布される。
姫路市鬼師安川清泉氏(姫路城初代鯱の復元を小林平一氏とともに)と明石市林清子様(西山善治郎の孫)から鯱・獅子・浪間の天人の細工より、安養寺鬼瓦・西山善治郎の作との連絡を受けました。平成24年2月
蓮井麗嚴和尚により、遍照寺本堂が、明治35年8月 に建立されました。本堂は鶏鳴学館の学舎として使用されました。屋根・鬼瓦は、西国一の名人と言われた安養寺鬼瓦の西山善治郎(安政5~大正13 姫路・明石中心)作であることが最近に分かりました。屋根で現存しているのは珍しいとのことです
8月13日 千灯万霊供養
安養楽永代供養塔の文字は、弘法大師の書跡からの集字で、できております。
「ここ・今(元気なうちに・動けるうちに)・私」を生きて 「ありがとう」と言って、
手を合わせ 手を差し出し ともに歩みましょう
私たちは、宇宙の生命と通い合って変化し続ける生命の持つ清浄な力によって生かされています。私たちの存在する各々の特質は、一つの大きないのちの一部であり、他に比べることのできないほどの価値を持っています。その価値を敬い、素直に光り合って生きることが、いのちを輝かせることです。いのちは本当に平等に行き渡って平等に享受させてもらっているのですから、毎日が一生に一度しかない一日として、良いことをすることが大切です。自分たちに力がないと感じても、仏様の光を受ければ光ることができます。仏様のいのちをもらって生まれてきたと分かれば、無理をすることなく、飾ることもなく、素直にやればできることです。苦しいかった時ほど一番楽しい思い出になりますし、喜んでいれば時間はなくなります。自分の持つ本来の心の中に中心である仏様が座り、輝きを発すれば、種々の思いもみな清々しく最高の能力を出せるようになります。人生の旅とは、私たちの心の中にあって一切を見通しておられる仏様と一心同体になって歩むことです。仏様と同行二人で赴くことが、私たちの幸せです。
ありがたや(あな嬉し) 行くもかえるもとどまるも われは大師と二人づれなり (同行二人御詠歌)
あまねく 照らす 大慈悲の眼差しに見守られ
なすべきことに力を尽くしてゆくことは 菩薩の道を歩むことです
大いなるいのちに生かされ
生かせ大いなるいのち こころ
上記の掲示について、生成AIに質問・解説を訊いてみてください。(生成AIは、様々な視点から深い解説を提供し、悩みの相談にも応じてくれます 。) 生成AIも応援励ましをしてくれます。参考にすることができると思いますので、御活用ください。
質問例文1 〇〇宗(真言宗・浄土真宗・・・等)の立場からの深堀解説をしてください。
2 △△経(大日経・華厳経・法華経・阿弥陀経・・・等)の視点からの深堀解説をしてください。
3① 悩み事相談 例えば 人生の先が見えないどうしたらいいか、上の掲示板を参考にして教えてください。
3② 悩み事相談 例えば 姑に腹が立つ・仲がうまくいかない、上の掲示板を参考にして教えてください。
4 実践・行法(瞑想・念仏・唱題・座禅・・・等)の視点からの深堀解説をしてください。
5 仏道究極(方便)ー大悲・利他・菩薩道・信満成仏・密厳浄土~
6 人間観ー三密加持・即身成仏・ 互相加入 彼此摂持 ~
参照「厨子入 紅玻璃色阿弥陀如来・不動明王・愛染明王坐像」 富士山かぐや姫ミュージアム
元富士山東泉院(神仏分離令により廃寺 )什物
御利益
まもり不動尊
息災安全
火生三昧――浄菩提心の智火を以て諸煩悩を焼尽し、諸難を除き降伏(ごうぶく)す
五種法 五福無尽成満愛染明王
息災 福寿 息災安全
増益 福利(徳) 招運繁栄
敬愛 福縁 諸縁円満
調伏 福勝 怨敵退散
鉤召 福成 (智) 満願成就目標達成
紅頗梨色阿弥陀如来
離苦得楽 極楽往生 安楽成仏
烏枢沙摩(うすさま)明王
厄除開運 方災不浄除
御利益とは、「近くは四海を安んじ、遠くに菩提を求む」『性霊集』(弘法大師空海)
真言宗における「御利益」の考え方は、現世利益の重視です
これは、この世で人々が神仏から得られる具体的な利益や恩恵を指します。健康、長寿、金運、商売繁盛、病気平癒、学業成就、厄除け、開運など、多岐にわたる願望成就を祈る人々から信頼されています。真言宗の教えの核となるのが「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」です。これは、現在の肉体のままで悟りを開き、仏となることを目指す思想です。御利益は、この即身成仏という究極の目標に至る過程や、その実践の結果として得られるものと捉えられます。つまり、単なる私欲を満たすためのものではなく、修行を通じて心身を浄化し、仏に近づくことで自然と現れる恩恵という側面が強いです。
三密行による御利益 真言宗では、「身(しん)」「口(く)」「意(い)」の三つの要素を使った三密行という修行を重視します。身密(しんみつ): 印を結ぶ(手の形を作る)口密(くみつ): 真言(マントラ)を唱える 意密(いみつ): 仏を心に想い、一体となる(観想)これらの修行を実践することで、仏と行者が一体となる「入我我入(にゅうががにゅう)」の境地を目指します。真言を唱えることは、心身の浄化や願望成就に繋がるとされ、特にサンスクリット語での発音は、その音声波動が人間の潜在能力に働きかけると信じられています。
煩悩の肯定と昇華 真言宗の経典である『理趣経』などでは、人間の煩悩や欲望を否定的に捉えるのではなく、肯定的に捉え、それを悟りへと昇華する道を説いています。煩悩を闇雲に消し去るのではなく、それを生きるエネルギーに変え、智慧として生かすことで、御利益や功徳に繋がるという考え方です。
護摩供養など具体的な儀式 真言宗では、護摩供養のような具体的な加持祈祷儀式を通じて、現世利益を祈願します。火に供物を投じ、真言を唱えることで、煩悩を焼き払い、仏の智慧と功徳を授かると考えられています。
まとめ 真言宗における御利益は、単なる表面的な願望成就だけでなく、「即身成仏」という高次の目標に向けた修行と実践の過程で得られる恩恵であり、心身の清浄化や精神的成長の結果として現れるものと深く結びついています。私欲のためだけでなく、清らかな心で他者や自己の成長を願うことが重要とされています。
さらに言えば 最大の御利益である安楽とは、大慈悲心を発し利他行に尽くすことです。
願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道
華厳経「入法界品」
「普賢行願品」の回向偈であり、 普賢菩薩の広大な誓願 ー 自己の善根功徳を一切衆生のために回向し、共に菩提(悟り)を目指す
仏教の諸宗派(特に真言宗・天台宗・禅宗・浄土宗など)で広く読誦されています。 お経の最後・法要の最後に 唱えられることが多い
浄土宗と浄土真宗の回向文 は 願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国
(がんにしくどく びょうどうせいいっさい どうほつぼだいしん おうじょうあんらっこく)
『観無量寿経疏』(観経疏)「玄義分」の冒頭に記された「帰三宝偈・「十四行偈」 」の最後の一節(善導大師)
授戒名 ~~~ 汝まさに仏門に入る よって戒の名〇〇〇〇と授く 永く俗塵の家を出て速やかに無為の真都に到るべし
授五鈷 ~~~ 両部大日不二にその総徳を普現せしむ五智金剛杵を授与し~~心中に住せしめてその三昧耶となす~~~
授血脈 ~~~ 上大日如来より金剛薩埵、龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智菩薩、不空三蔵、恵果和尚、弘法大師、乃至師資相承して 導師〇〇に至る 我親しく之を受けて今汝(戒名〇〇)に写瓶す~~明らかに受得し無上菩提を成ずべきなり
金剛仏子 金剛薩埵 龍猛 龍智 金剛智 不空 善無畏 一行 恵果 弘法大師空海 聖宝 観賢 寛朝 範俊 厳覚 済暹 寛助 実範 興教大師覚鑁 亮恵 明恵 道範 叡尊 弘真 杲宝 浄厳 湛海 蓮体 慧光 寶厳 南谷 慧曦 慈雲 雲照 長谷寶秀 小田 慈舟 上田霊城大和上 竹村牧男先生 末資密王正紀
真言宗御室派
正徳4・1714・6月新築丸亀遍照庵以閑居―道隆寺温古記追記・多度津町史
享保2・1717・8月7日御室令旨10月18日寺社帳附(仁和寺末)(奉行は安藤右京亮重行)
安藤右京亮(重行)こと安藤信友は、徳川吉宗の治世において老中を務め、享保の改革の一翼を担った重要な人物
「付足」 説明が不足しているため理解できないところがあると思います。人工知能(AI)に質問して訊いてみてください。さらには、このホームページの改善すべき点をご教示いただけますと幸いです 。
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わらしべ長者(観音祈願型)に習って、頑張っております。 目標達成への不屈の精神・不退転ー目標を見失わず 困難を乗り越える力ーその都度状況を受け入れ、変化を恐れず行動ー次の交換へと進んでー結果を生む 縁と偶然の力ー大遍照如来の大悲のまなざしを大切に享け、よく応える
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