宮 本 武 蔵

新たに発見された晩年の人物像とは

宮本武蔵の風貌については,島田美術館所蔵の掛け軸の肖像画が有名である.二天一流兵法の開祖, 六十余度の勝負に無敗,巌流島の戦い等から想像できる容姿は肖像画そのものであるが,最近これまで語られることのなかった意外な一面を知ることができる史料が熊本大学による永青文庫の史料調査で判明した.

報道機関向けに公開された資料が大学のホームページでも閲覧できるので,紹介する次第である.資料は史料写真入りのPDFになっていて,ダウンロード可能である.

各史料について,専門家による現代語訳が付けられている.古文書の解読をされる方は参考にしてほしい.

新史料1

新史料2

新史料3

新史料4

新史料1 (寛永17年)10月29日 細川家惣奉行衆書状控 忠利側近3名宛(該当部分、永 青文庫10.11.30)

新史料2 (寛永17年)11月5日 細川家惣奉行衆書状控 担当奉行3名宛(永青文庫 10.11.30)

新史料3 (寛永19年)閏9月27日 松井興長書状控 細川家大坂留守居宛 (熊本大学所蔵松井家文書17-30-20)

新史料4 (寛永20年)9月13日 細川光尚書状控 宮本武蔵宛(永青文庫4.2.111.3.2)

〇新史料1(寛永 17 年)10 月 29 日 細川家惣奉行衆書状控 忠利側近3名宛

来月3日から忠利様が山鹿御茶屋に逗留されるので、(足利)道鑑様、(津川)四郎 右衛門殿、(朝山)意林庵、(宮本)武蔵、この御衆中に山鹿へ参上するよう命じよとの 忠利様のご意向である。この旨、惣奉行衆として了解した。命令文書のとおり担当者 に通達した。

〇新史料2(寛永 17 年)11 月5日 細川家惣奉行衆書状控 担当奉行3名宛

道鑑様、意林庵、武蔵の山鹿での御宿へ、すべてのお世話に必要な物品を滞りなく 搬入するために、それぞれの担当として小姓衆・鉄炮衆を付け置いた。彼らが常に御 宿に張り付いていたら、3人が迷惑するだろうから、担当の者どもは脇宿にいさせて、御用のあるときに奉仕するよう命じたが、このやり方で支障が出る場合には、柔軟に 対応してほしい。

〇新史料3(寛永 19 年)閏9月 27 日 松井興長書状控 細川家大坂留守居宛

急ぎ一筆申し上げる。桑山理斎の子息作右衛門は、忠利様の代から細川家に寄寓し ていたが、先月中旬、おできができて山鹿へ湯治に行き、何を考えたが、そのまま出 奔してしまった。このことは大和にいる理斎や、幕府の大坂町奉行にも届けた。作右 衛門は山鹿に赴くに際して、隣に住む宮本武蔵に長持と鎧櫃を預かってくれるよう頼 んでいた。武蔵は作右衛門自身が長持・鎧櫃に封をすることを条件に、これらを預か った。この荷物は封を付けたまま大和に送付する。

〇新史料4(寛永 20 年)9月 13 日 細川光尚書状控 宮本武蔵宛

一筆申す。私はこの間、熱病で煩っていたが、すっきりと回復した。もう少し力を 付けるので、心配はいらない。おまえの方は、寒くなる時候だが息災だろうか。様子 を聞かせてほしい。精一杯の保養が肝要だぞ。春には熊本に下って、対面で話をしよ う

史料発見の経緯,各試料の背景,登場人物等の詳細はPDF資料を見てほしい.

宮本武蔵晩年の人物像を示す新史料 4 点を発見 - 熊本大学

この新史料発見の紹介ページを書きながら,以前紹介した青木規矩男師範や西の武蔵塚のことを思い出した.青木規矩男氏(故人)は宮本武蔵の7代目の弟子である(二天一流兵法第八代師範).島崎5丁目に住んでいた子供の頃,早朝,剣道の掛け声?が,三賢堂境内から石神山山麓の谷合に響き渡っていたのを記憶している.分家筋の人や友人が弟子入りして練習に励んでいた.また,宮本武蔵の直弟子である寺尾信行一門の墓(西の武蔵塚)は,北へ直線距離で500メートル程度のところにあり,武蔵が「五輪の書」を書いた霊巌洞は鎌研坂を登り峠を越え河内の方へ下った金峰山麓に位置する.さらに,島崎4丁目には島田真富(故人)氏が居て,武蔵会の会長として武蔵の肖像画等の古美術品を収集していた.晩年は「私蔵が死蔵に墜すること」を危惧し,収集品を公開・保存すべきとの考えだったという.孫の真佑氏(故人)が祖父の遺志を継いで昭和52年私立島田美術館を開館した.故島田真佑氏は,小中学校の同級生であり,祖父の真富氏とも直接会話した者の一人として,彼が生きていれば,今回の古史料の発見をどのように捉えただろうかと思い,話題として取り上げた次第である.

関連ブログ:青木規矩男覚書(熊本城炎上の真相)

(2022.10.11)