関連人物紹介

【あ行】

石黒 忠悳(いしぐろ ただのり)

1845(弘化2)年~1941(昭和16)年。井上円了は十歳から石黒のもとで漢学を学びはじめた。西洋の学問にも通じていて、西洋風を好みとしていた石黒は、井上円了ら塾生の成績がよいときには「西洋紙」を賞品として与えるなどして、西洋という新しい世界を紹介した。後に、石黒は陸軍の軍医総監、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員などを歴任した。なお、1904(明治37)年に、円了が退隠を最終的に決断したのは、上野精養軒での哲学館大学記念会にて石黒忠悳と大内青巒の演説を聞いて決断した、と円了は記している。 

礒江 潤(いそえ じゅん)

教育者、京華学園創設者。 哲学館創立時に、21歳の若さで講師(担当科目:英学初歩)を務める。後に、京華学園を創設。

井上 敬(いのうえ けい)

1862(文久2)年~1951(昭和26)年。金沢藩医吉田淳一郎の娘。1880(明治13年)東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)を卒業。卒業後は東洋英和女学校などの教師となり、1886(明治19年)に円了と結婚。仲人は目賀田種太郎・逸夫妻で、逸は勝海舟の娘。この夫妻の縁で円了は海舟の知遇を得た。円了の外遊や全国巡講による家庭の留守中を守った。 

井上 哲次郎(いのうえ てつじろう)

1856(安政3)年〜1944(昭和19)年。哲学者、教育者。 日本人最初の哲学科教授(東京大学)で、円了の東大時代の恩師。1884(明治17)年に学生であった円了らとともに学会「哲学会」を設立。円了の1887(明治17)年の第1回外遊では、ベルリンにて西本願寺僧侶の藤島了穏と3人にて、今後の哲学普及の方法を語り合った。哲学館事件では、円了と学説上の見解は異なった立場で論議した。1923(大正12)年、東洋大学教授に就任。 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 

岡田 良平(おかだ りょうへい)

1864(元治1)年~1934(昭和9)年。官僚、政治家、第5代東洋大学学長。 哲学館創立時に、23歳で講師(担当科目不明)を務める。京大総長、文部大臣等を歴任。1923(大正12)年、第5代東洋大学学長に就任。

行】

勝 海舟(かつ かいしゅう)

1823(文政6)年〜1899(明治32)年。幕臣、軍艦奉行、哲学館の三恩人。 円了と敬の結婚時の仲人が、海舟の娘婿夫妻(目賀田種太郎と逸子)であったことと、以前から円了に関心を寄せていたため、1889(明治 22)年に円了と初対面しました。哲学の必要性を力説する円了に『あんな若い人が哲学の大学を作ろうとしていたのか』と、驚いた様子で周りの人に語りました。数日後、再び円了を呼び、『精神一到の気持ちでやれ』と、「100 円」の大金を(当時、巡査の初任給が6円)を渡しました。また、円了は海舟の書を寄付者へのお礼として渡しました。これは勝海舟のアドバイスもあり、円了は専門科開設資金募集のために全国巡回講演を始めましたが、旅に出る円了に対し、海舟は「陰ながらの筆奉公」と言って、自ら筆をふるい、円了に渡しました。こうして円了は、勝海舟を哲学館の三恩人の一人としました。 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

加藤 弘之(かとう ひろゆき)

1836(天保7)年〜1916(大正5)年。政治学者、東京大学初代総理、哲学館の三恩人。 日本に初めて立憲思想を紹介した。哲学館の創立時の寄付者280人のうちの1名。円了は、哲学館の三恩人の一人とした。哲学館創立時の顧問となり、以後哲学館の発展を見守り続けた。 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

嘉納 治五郎(かのう じごろう)

1860(万延1)年〜1938(昭和13)年。教育家、柔道の創始者、講道館の創設者。 哲学館創立時には講師として、当時27歳で倫理学を教えた。棚橋一郎とともに倫理学科目を担当し、同科の『哲学館講義録』を共著で執筆。 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

河口 慧海(かわぐち えかい)

1866(慶応2)年~1945(昭和20)年。仏教学者、探検家。 当初は学資がないため哲学館の館外員(現在の通信教育生)として講義録を読んでいた。そのうち苦学を決心して上京し、館内員(現在の通学生)として学ぶ。卒業後、鎖国状態にあったネパールやチベットに入って仏教原典を持ち帰った。1903(明治36)年、第2回外遊から帰国した井上円了とインドから戻った河口慧海の帰朝歓迎会が開かれるなど、卒業後も交流があった。 

清沢 満之(きよざわ まんし)

1863(文久3)年~1903(明治6)年。哲学者、宗教家、真宗大学(現在の大谷大学)の初代学長。 哲学館創立時に、心理学と哲学史の講師を務める。その後、真宗大学の初代学長に就任。

隈本 有尚(くまもと ありたか)

1860(万延1)年~1943(昭和18)年。教育者。 1902年(明治35年)、文部省視学官として哲学館を訪れ、教育部第一科甲種(倫理科)の卒業試験の学生の答案に関して、担当講師の中島徳蔵に質問し、哲学館事件の契機となる。中島徳蔵を始め、当時の文化人やマスコミを交えた論争を展開した。

行】

棚橋 一郎(たなはし いちろう)

1863(文久3)年~1942(昭和17)年。漢学者、衆院議員、私立郁文館(現在の郁文館夢学園)創立者。 東京大学和漢文学科で円了(哲学科)の先輩。1884(明治17)年、学生の円了らとともに学会「哲学会」を設立。円了が、学校設立の構想を明かしたうちの一人。1887(明治20)年、円了は哲学書などを中心にした出版社「哲学書院」が設立されたが、その設立計画も棚橋に相談した。1887(明治20)年9月16日、麟祥院での哲学館開館式では、棚橋は「哲学の要」と題して演説した。1888(明治21年)、円了が第1回外遊する際も、留守を館主代理として棚橋に託した。その後、棚橋は郁文館(現在の郁文館高校)を創立し、麟祥院より移設された哲学館(現在の文京区向丘)では、午前中は郁文館に貸与していた。1896(明治29)年、哲学館(現在の文京区向丘)の火災では、郁文館館長の棚橋一郎はひどく狼狽したが、井上円了は少しも慌てることがなかったとの記録がある。なお、井上円了は郁文館の顧問に就任していた。 

寺田 福寿(てらだ ふくじゅ)

1853(嘉永6)年~1894(明治27)年。真浄寺(東京都駒込)の住職、哲学館の三恩人。 哲学館の創立時の寄付者280人のうちの1名で、資金援助に奔走。また、真浄寺の住職として、ことあるごとに哲学館のために寺を開放して、協力を惜しまなかった。また、1889(明治22)年、円了が文京区蓬莱町に哲学館の本校舎を建設した土地は、寺田が住職をしていた真浄寺の隣寺である曹洞宗の海蔵寺から寺田の尽力によって借り入れることができたといわれる。円了は、哲学館の三恩人の一人とした。

行】

中島 徳蔵(なかじま とくぞう)

1864(元治1)年~1940(昭和15)年。教育者、第6代、第7代東洋大学学長。 1897(明治30)年に哲学館の講師となり、1900(明治33)年に文部省修身教科書起草委員に任命されて、一時哲学館を離れたが、1901(明治34)年に再び講師として戻った。1902(明治35)年、円了が2回目の外遊に出発する際、留守中の館主代理に中島を任命していた。1902(明治35)年に、担当する教育部第一科甲種(倫理科)の卒業試験に関して哲学館事件が起きた。事件後、哲学館を辞任するが、辞任後も問題解決に奔走。1905(明治38)年、講師に復職。後に、第6代、第7代東洋大学学長を務め、大学昇格に尽力した。 

西 周(にし あまね)

1829(文政12)年〜1897(明治30)年。西洋学者、獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)初代校長。 1874(明治7)年、「philosophy(フィロソフィー)」を「哲学」に訳語をした。その他にも、「藝術(芸術)」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学・科学関係の言葉を考案し、日本近代哲学の父と呼ばれる。学生の円了らは、学会「哲学会」の設立に関して、西周らに相談した。また、哲学会の第1回会合に参加した。後に、獨逸学協会学校の初代校長に就任。 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

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前田 慧雲(まえだ えうん)

185?(安政?)年~1930(昭和5)年。仏教学者、第2代東洋大学学長。 円了は前田を哲学館の後継者と決め、三か条の契約を交わした。内容は、「(1) 哲学館創立の旨趣を継続すること」、「(2) 財団法人になすこと」、「(3) 他日学長を辞するときは、出身者中の適任者をもって相続せしむること。もし出身者中に適任者なき場合には、講師をしてつがしむること」であった。第2代学長として、哲学館大学を東洋大学と改称し、私立東洋大学財団を組織し、教員無試験検定の再認可の取得などに力を尽くした。後に、龍谷大学長となる。 

三宅 雄二郎(みやけ ゆうじろう)/
三宅 雪嶺(みやけ せつれい)

1860(万延1)年〜1945(昭和20)年。哲学者、歴史家。 東京大学哲学科で円了(哲学科)の先輩であり、学生時代の円了とともに、1884(明治17)年に、哲学を専門に研究する学会「哲学会」を設立したが、設立メンバーの一人。円了は東京大学を卒業した翌年の春、病気療養中の熱海で加賀秀一に、大学時代から抱いていた学校設立の願いをはじめて具体的な構想として明かし、その後、棚橋一郎、三宅雄二郎、内田周平にも話した。哲学館創立時の講師として、当時27歳で哲学史を教えた。 

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

村上 専精(むらかみ せんしょう)

1851(嘉永4)年~1929(昭和4)年。教育者、東洋女学校(現在の東洋女子高等学校)の創立者。 哲学館創立時に、仏教学の講師を勤めながら、同時に学生として西洋哲学を学んでいた。 哲学館卒業後、東洋女学校を創立し、大谷大学学長も務めた。

行】

湯本 武比古(ゆもと たけひこ)

1856(安政3)年~1925(大正14)年。教育者。 1899(明治32)年2月26日、私立京北尋常中学校(現在の東洋大学京北中学高等学校)を円了が開校した際、円了が校長となり、湯本武比古が補佐を務めた。湯本は、当時の皇太子(後の大正天皇)の教育係をつとめた人物で、哲学館の講師をしながら『教育時論』という教育界で著名だった雑誌の主筆でもあった。後に、私立京北尋常中学校を務める。1908(明治41)年には、京北実業学校(後の京北学園白山高等学校)の初代校長に就任。