株式会社カンダ
株式会社カンダ
燕三条を拠点に日本の中国料理道具市場を広げた
商人パワー
ー株式会社カンダ
神田智明氏 株式会社カンダ代表取締役社長
執筆・バートル(多摩大学経営情報学部教授)
中国料理道具の専門商社として成長
今回ご紹介するのは、燕三条の業務用厨房製品の総合商社「株式会社カンダ」である。
公式ホームページの代表挨拶には、「道具を作る人、料理を作る人、そしてそこに美味しい料理が生まれ創られ、皆様の笑顔が生まれる。そんな架け橋となるいい仕事がしたい」と神田智明社長の言葉が記されている。
まさに、商社の理念なのだが、(株)カンダはどこに強みをもってきたのだろうか?
(株)カンダは、1965年(昭和40年)に燕市で創業された。前身は「神田熊市商店」で、神田社長の祖父が社長をつとめていた。当初は厨房用品を含めた雑貨卸から始めたが、その後、中国料理道具に特化した卸として強みを発揮し、以後業務用厨房用品だけではなく家庭用厨房用品にまで幅を広げ、今日に至っている。
神田社長は、「当初はメーカー的な立場だったんですけど、いろんな地場の商品も良いものがあるから仕入れて売っていくという商社的な機能が中心ですね。その中に、オリジナル商品もあるという感じで続いてきた。」と話す。
メーカー寄りの卸売り業から始まり、厨房用品の総合商社に変貌した現在、国内シェア60%以上、年商32億円(2025年6月期、社員数69名)の企業へと成長している。
その扱う商品の多様さは、ホームページにアップされた720ページにもわたるカタログを見ただけで、圧倒される。
時代の変化に合わせたビジネスモデルの転換
燕三条には少なくない卸が競争している。しかも、創業した1965年は高度成長期で、ものを卸せば全部売れた時代ではあったが、1965年はオリンピック不況と言われた景気の小さな谷間でもあった。それが影響しているかどうかはわからないが、当時の神田熊市社長は「自分の品物をもたないとだめだ」と話したという。「それは、カンダの社風としていまも根付いている」と孫の神田社長は言う。
その「自分の品物」が、顧客からの要望でつくった鉄鍋、北京鍋といった中華鍋だった。
下の写真は、カンダのショールームに展示している北京鍋だ。
プレス製もあれば、打出しで製作する北京鍋もある。上の写真は打出しで作ったもので油ののりが良い。北京鍋が出始めた当初は、鍋と持ち手がリベットで固定されたものがほとんどだった。そこに、カンダは、持ち手と鍋を溶接で一体化した商品を作った。これは当時なかなか難しい技術だったという。そして現在もカンダの主力商品の一つで、女性にも使いやすいように軽量化している。こうした業務用中華鍋は強い火力で使われるため、半年で穴が空き、また買い換えられることも珍しくないそうだ。
とはいえ、1960年代は今のように中華料理店が多数ある時代ではない。どのように販売ルートを開拓していったのだろうか。
中華料理店の外食産業化を支えた
1960~80年代は、日本の食生活が多様化していった時代だ。当時、日本ではホテル建設ブームだったが、ホテル内レストランに中華料理店はあまり入っておらず、ホテルの総料理長はフランス料理人であったという時代だ。
若き神田社長は、後にTV番組「料理の鉄人」で有名となる「赤坂離宮」の料理人・譚彦彬氏(1943-2022)に出会い、話をうかがったそうだ。譚さんが言うには「中国料理は北京、上海、広東、四川が四大料理だが、四つとも鍋も厨房も全部違う。だから、道具は全部中国から買ってくるんだ」。これを聞いた神田社長はチャンスと捉え「私どもはその代わりをしましょう。」と申し出、香港で市場を調べて全部大量に仕入れたという。
当時、名のある中華料理人たちは、タテの人脈でつながっていたので、影響力のある中華料理人に使ってもらえば、その下の若い料理人も使うだろうと考えた。そこで、日本中国料理協会の会員になって、協会の建物に事務所まで構えたという。ここまでしたのは、神田社長が初めてだった。
この効果は絶大で、顧客のニーズを受け取る強力なルートを確保できるようになった。
そこで聞けたのは「中国の道具は中国の人は使うのだけれど、日本の料理人になると、ちょっと粗末なので、もっとイイものを作ってくれよ」といった顧客の声だ。それをもとに、中華鍋を燕三条で作って、カンダのオリジナルとして商品化していった。
そのようなカンダの歴史は、日本の中華料理店、ひいては80年代以降のラーメン店の歴史と重なっている。現在では、日本中に中華料理店が多数出店し、中華料理も家庭化した。例えば、以前は専門店でしか見なかった中華セイロも、現在では、普通に目にするようになっており、カンダ取り扱いの中華セイロは国内シェアの6割を占めている。
市場が変わる中で弛まぬチャレンジ精神
1960年代から時が経ち、現在はエンドユーザーのライフスタイルも、そして外食産業の厨房も変わってきている。その中で、取り扱い高を保つカンダの流通パワーには目を見張るものがある。
とはいえ、外食産業でも、強火で鍋をふる店は減ってきているし、家庭でも火を扱うのを嫌がる人も増えている。料理をフライパン一つでこなす家もある。こうなると、鍋も売れなくなる。さらに、人口減少・労働者不足の中で、エンドユーザーがキッチンで料理に割く時間も少なくなり、外食産業はどんどん効率化・省力化が進んでいる。
厨房市場が成熟化し縮小に向かう中、カンダは利益率を高めるためにどのような戦略をとるのだろうか。
通常考えられるのは、ブランド化、新商品の開発であり、カンダは両方とも取り組んでいる。
カンダは、創業以来、燕三条地場のメーカーから製品を仕入れたり、発注して製造してもらったりして、地場企業とともに成長することにこだわってきた。これは、燕三条のものづくり企業の集積と分業関係が、カンダの商品開発に適していたということもある。
また、最近では、「燕三条産」という地域ブランド効果により、利益率を維持する効果もあるという。さらに、ホームページでもわかる通り、いくつかの自社ブランドを立ち上げている。これらブランド戦略は、おそらくこれからも積極的に続けられるのだろう。
新商品開発も、既に行われている。
例えば、大型の圧力鍋。ラーメン業界では、8~10時間かけて寸胴でラーメン用のスープを炊くことが一般的なのだが、近年、短時間で大量のスープを炊く圧力鍋が求められるようになった。そこで、カンダはそのニーズに応えるべく100リッター以上の大型圧力鍋(第一種圧力容器)の開発に成功した。
ただ、ここで問題になるのは国の規制だった。国の規制は厄介なもので、圧力鍋でも100リッター未満だと「鍋」なのだが、100リッターを超えると「爆弾」扱いとなり、「第一種圧力容器」となり規制対象となり、認可も厳しかった。それをクリアしてやっと販売できるようになった。
カンダのチャレンジ精神が力を発揮したケースだ。こうした新商品開発も続けられるのだろう。
サプライチェーンの企業間パートナーシップはどうなる?
こうした、企業単位でのチャレンジ精神は、商社がメーカーと顧客の架け橋として機能するための必須条件だろう。
では、外食産業市場の縮小・質の変化、労働力不足と外国人労働者の増加に伴い、厨房用品市場は今後劇的な変化することが予想されるが、カンダやカンダと取引きしている企業間のパートナーシップは、今後どのように変化していくのだろうか。
輸出を増やすと共に、国内向けの新商品をさらに投入するならば、おそらくこれまでのサプライチェーンを機能させてきた企業間パートナーシップの質も、自然と変化していくのだろう。海外の流通チャンネルと国内の流通チャンネル、すなわち、グローバルとローカルの流通チャンネルのバランスをとるのか?それとも、そうしたグローカルなバランスはコントロールできるものではなく、チャレンジしているうちに自然とできあがるものなのか?
神田社長が「流通が劇的に変化する危機感はあります。私どもがたぶん手を打たないといけないものですよね」というのに対し「では、5年後にまたお話をうかがわせてください」と私たちが申し上げると、神田社長は最後にこうおっしゃった。
「もう来年あたりから変わるでしょう。生き残るのは大変です」。
神田社長がどのような戦略で動くのか。私たちは、来年も取材に来なくてならない。
(取材日:2025年8月29日)
左より中庭、野坂、新西、神田社長、バートル
(株)カンダのショールーム兼販売店にて撮影