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091 kyoshiga

教師が「授業を英語で行う」より大切なこと

靜 哲人

新学習指導要領によれば、高校の英語の授業は原則英語で行うことを基本とする、そうだ。いつもながら文部科学省の言うことはhalf-bakedである。

ふつうの高校で日常的に行われている授業は圧倒的に訳「毒」が多いだろうが、非日常の「研究授業」では今や逆に「オールイングリッシュ」がほとんどである。しかしそういう「オールイングリッシュ」の授業を参観して、その「オールイングリッシュ」という部分に関して肯定的な印象をもった覚えはほとんどない。なぜかというと、第一に教員の話す英語の内容がいろいろな意味でよくないからであり、第二に生徒の英語があまりうまくなりそうもないからだ。

内容がよくないとは、(1)どちらかといえばどうでもいい部分を英語で行い、(2)逆に是非英語で行わねばならない活動は行わず、さらに、(3)是非日本語で行ったほうよい部分をまったく行っていないからである。

(1)の「どうでもいい」部分というのは、いわゆるクラスルームイングリッシュ、すなわち挨拶(How are you today?)とか、活動の指示(Open your books to page 36./ Make pairs and read these sentences aloud to each other.) とか、教室内の秩序維持のための発言(Be quiet, please!)である。

 これらはほとんどが、文法構造も使用語彙も範囲のかなり限られた命令文であって、発展性がない。だから生徒に(さまざまな)英語のインプットを与えるという意味での価値は限られている。「雰囲気づくり」と言う人がいるが私にはよく意味が分からない。よくあるのは教師が英語で語りかけているのに対して生徒が日本語で受け答えしているというパターンである。そんな妙なインタラクションを許容しておいて「雰囲気づくり」でもあるまい。(教師だけでなく生徒にも英語を実質的に話させるように、つまり教室内の使用言語を英語にしているならこの点に関しては合格である。)

 さらに「雰囲気づくり」という大義名分を正当化するためには、教員が、生徒のモデルとするにふさわしい「まともな」発音で英語を話している必要がある。この条件を満たす公開授業は10本中1本もない。ほとんどの場合、"listen"も"read"も"review"も"paragraph"も、「リッスン」「リード」「リビュー」「パラグラフ」などと「英語もどき」のカタカナ発音を(わざわざ)生徒に聞かせている。

 日本語で話すよりも伝達効率が悪くても、英語のリスニング(あるいはスピーキング)の練習になるならやる価値はあるかもしれないが、「英語もどき発音」をしながら、いったい何のためにクラスルームイングリッシュなど使うのだろう。美しい日本語でてきぱきと指示したほうが、よほどましである。

とくに、生徒が悪い意味で騒がしいときにつまり教室秩序維持のためにBe quiet! などと悠長に英語を使用するのは私に言わせれば噴飯ものである。オールイングリッシュで授業をするのが目的なのか、効果的な授業をするのが目的なのか、と「つっこみ」をいれたくなる。「そこ、うるせえぞ!」とドスを利かせて日本語で一喝したほうがずっと効き目がある。そうやって静かな環境を確保してから、「英語の世界」に戻ったほうがよいのである。

では、その「戻る」べき英語の世界とは何か。すなわち、(2)の「是非英語で行うべき活動」とは何か。それは教科書本文の意味を英語で説明すること・させることである。説明とは、自分の言葉でパラフレーズしたり具体例をあげたり、長いセンテンスを分割してより単純な文で表したりして、「英語の意味を英語で表す」ことだ。このような活動をルーティーンにすることによって、理解することしかできない「受容語彙」を、自分でも使うこともできる「産出語彙」に徐々に変えることができる。(これまで私が見たオールイングリッシュの研究授業で、このような活動を行っている(行わせている)のはほとんどなかった)。

 そしてこの「英語を英語で表現する活動」を行うために補助として日本語による解説や訳文を視覚情報としてプリントに印刷して配るなどするのは、大いに「アリ」である。文部科学省が「英語で行う」といったとき、文字情報ついてどう考えていたのかは不明(おそらくなにも考えてはいないのだろう) だが、私が本稿で提唱しているのは、「教室内で生徒に英語を聞かせる・話させる補助として、視覚情報として日本語を積極的に活用する」ということだ。いわば字幕メソッドだ。

 最後に(3)の「是非日本語でやるべきこと」とは、英語の形式面についての明示的かつ徹底的なダメ出しや支援である。生徒の発する英語の「発音」が悪かったり、「文法」がおかしかったり、したときに、”Oh, be careful there. When pronouncing an /l/, the tip of your tongue is in touch with the alveolar ridge, letting the air come out through the sides of the tongue. It’s different from a Japanese liquid ‘ル’, which involves a flap.” “That sentence you have just produced is ungrammatical. The word ‘recently’ is used when talking about something that happened in the past, which means that in a sentence using ‘recently’, the present tense cannot be used.” などという「オールイングリッシュ」の説明をやってもダメだ。生徒には理解できない。こんな説明が英語で理解できるくらいなら、そもそもその英語授業を受ける必要がない。それにこういう説明を即座に英語で行える英語教師は多くない。

こういう英語の形式面についてフィードバックはきちんと日本語を用いるべきなのである。最近、「訂正は無駄、有害だ」という妄言が流布しているせいもあって、授業中に生徒の英語を「きちん」と直してやる教師がほとんどいない。しかしESL式に、「正しい形をさりげなく示す」だけで意味ベースやりとりをEFLで続ければ、生徒が誤りに気づいて適切な形式の英語を産出できるようになるまでに100年はかかるだろう。教室を一歩外にでれば目標言語の「先生」による「模範文」が溢れているESLと、そんなものはゼロに等しいEFLでは事情が全く異なるのだ。EFLでは、音声にせよ文法・語法にせよ、教師が明示的に誤りを訂正し、正しい形式を産出させることが必要である。その時に、せっかく全生徒と教師が共有している母語を使わないのは馬鹿げている。

まとめると、「英語の授業は英語で行う」というスローガンからは、肝心の生徒の行動に関する視点が欠け落ちているのだ。そうでなく目指すべきは、「英語の授業では生徒に出来る限り多くの英語を産出させる」ことである。その目的を達成するために教師のほうは、手を変え品を変え、とにかく生徒が英語を口にする時間をめいっぱい確保するべきなのである。(書く時間も確保したいのだが、話すのに比べて文字を書くのは圧倒的に遅いので、授業中にあまりやってしまうと時間がすぐなくなってしまう。ライティングを想定している場合にも、授業中はその文・パラグラフを口頭で言う、暗唱するだけにして、実際に紙に書かせるのは基本的には教室外の課題とするほうが賢明である。)そして生徒が英語を口にしたらその「質」(音声面、語彙面、文型面などすべて)をよりよいものにするためのアドバイスを、日本語を使って必ず与えるべきだ。アドバイスなき発表は時間の無駄と思うべし。

英語で行うことばかりが先行し、そのために英語ではできない内容は教えられなくなっていくなら、手段と目的の混同である。授業の良さは教師のパフォーマンスでなく、生徒のパフォーマンスで決まる。

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