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限定的英語公用語化論

(英語教育時評12月号)
靜 哲人
今年も夏季を中心に各地方自治体の指導主事が工夫を凝らした英語教員研修が行われた。細部は異なっても基本的には「英語をもっとうまく教えよう」という指導法研修と「英語そのものをブラッシュアップしよう」という運用力研修の組み合わせだ。そして前者は日本人が英語あるいは日本語を使って、後者は英語母語話者が英語を使って講師を務めるのが典型のようだ。しかしそういう二本立てが果たして良いのだろうか。

 二本立て構成は、英語授業力は「指導法の知識」と「英語力」という別々の要素から成るという前提に立っているのだろう。しかし授業を受ける生徒から見れば、先生は英語力と指導技術の同時を駆使して授業を進めるのである。この意味で授業力は、複合的ではあるが全体としては単一の構成概念と考えるほうが妥当だと思う。

 たとえて言えば昔の「読解」「作文」「会話」などの分類は不毛であって、リーディングの題材をもとに英文を書けばライティングだし意見を交換すればリスニング・スピーキングである、というのと似ている。この3つが別々のものであるかのように扱うと、使える英語力につながらない傾向があることには異論がないだろう。

 それなのになぜ教員研修になると指導法と運用力を別々に考えるのだろうか。指導法の知識を拡充する部分でも運用力を伸張するためにすべて英語で行い、逆に運用力を伸張する部分をすべて授業で使える活動にすれば、事実上二つの境界は消えるはずだが、なぜこれができないのだろうか。
 指導法の部分をすべて英語で実施すると研修内容が十分伝わらないことがあるので、その部分は「内容重視」で日本語も交えて、としていることが多いと聞く。

 この理由づけに関してふたつの潜在的な問題を指摘したい。まず仮にも英語を教えている人間が英語で十分理解できないのは、講義・研修内容が理論的に過ぎるのが原因である可能性がある。それほど抽象的な内容が、実際の教室で果たして役に立つのだろうか。

 十分実用的な内容であるのに理解できない参加者については、その特定参加者の運用力のレベルがその指導法を使える段階に達していないと考えるべきだ。ある教員が使用できる指導技術の範囲は、その人の運用能力のレベルによって制限される。オーラルインタラクションには、語彙・表現レベルを上げたり下げたりしながら話す能力が不可欠だ。自由作文をその場で添削しようと思えばかなりのライティング力が要求される。発音・音読・スピーチを指導しようにも、本人にその能力がなければできるはずがない。だから指導法研修の内容が英語では理解できない、他の参加者と英語で討論できないレベルの人が、中身だけを日本語で理解して頭でっかちになっても授業の役には立たない。

 よって、講師の側は英語でも理解されるような実用的な内容を英語で語るべきだし、参加者の側は英語で理解できない時、一番必要なのは内容の理解ではなく英語力の向上だと自覚し、奮起すべきだ。「理解できない」「表現できない」苦しみは必要な苦しみなのである。

 それを、理解できないから日本語で解説しましょう、議論が深まらないから日本語で討論しましょう、とお互いに面目と精神衛生を保っているだけでは、根本的な解決にならない。

 英語公用語論は各方面から総スカンを食らって消えてしまった。確かに英語を日本全体の公用語にする必要も現実性もないだろう。だが特定集団内での英語公用語化はもっと真剣に検討してよい。それが当該集団の目的にもかない、構成員にすでにある程度以上の英語力の素地がある場合である。

 英語教員およびその志望者はこの条件に当てはまる。英語を教えて給料を得ているのに母語よりも英語の運用能力が格段に劣る者(つまり筆者を含めほぼすべての日本人英語教員)同士は、少なくとも自分の仕事関係の話題に関しては必ず英語で話す・書くことによって、そのギャップを少しでも小さくしようとするのが職業的な義務ではないだろうか。

 以上の理由から、教員養成のための大学の授業から現職教員の研修、学会発表まで、英語教員またはその志望者が集まる場では、公用語(定義=個人的なやり取り以外で用いる言語)を厳に英語にするのが望ましいと考える。
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