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026 shirakeru

(現代英語教育97年12月号)

しらける授業をしていた私

靜 哲人

しらける授業というテーマを与えられて考えてみて、私はついぞ自分の授業で生徒がしらけないか、という心配をしたことがないことに気づいた。しらけ、というのは授業を受けている側がふと我に返り、授業者のやっていることを、ある距離を置いて見て、そしてそのことについて否定的な感情を持つ時に起こる感情であろうと思う。だとすれば生徒をしらけさせたくなければ、こちらのやっていることを客体視するような余裕を与えなければ解決する。私の場合、常にいかに生徒をいじめるか、を模索しているので、嫌がることはあってもしらける暇はないと思われる。

 そういう訳で、過去の授業を振り返ったとき、生徒がしらけていたことはまずなかった思うが、むしろ自分で自分の授業に対して「何をやっていたのか」と、しらけてしまうことは多く、恥ずかしい思い、生徒に申し訳ないという思いがこみ上げてくる。紙面を借りて、その反省をさせていただき、せめてもの罪滅ぼしをしたいと思う。

授業の手順が大切だと思っていた頃

英語教師になって数年は、授業内の活動の手順というか順番を大変気にしていた。当時おもに勉強していたオーラルアプローチの解説書が、「かくかくしかじかの理由により、活動Aは活動Bの後にこなければならない」などと、"teaching procedure"をたいへん重要視していたためである。まず、Review。次にOral Introduction。そして次にReading for Comprehension...等々。これらにまた細かい下位区分があった。これらの手順を頭に入れておくだけでも、新米教師にとっては大変なことだった。教案というほどのものではないが、おおまかな授業の手順を書いた紙をいつも教室に持って行ったが、授業中、おうおうにしてひとつの活動が終わると「えーと次は何だっけ?」という感じで教卓に置いた教案の紙をのぞき込んでいた。その間当然生徒の顔は見ていない。しかも教案通りに進まないとその日は一日気分が晴れなかった。

 これは生徒にしてみればしらける状況だったろうと思う。なんといってもこの先生は、自分たちにとっていい授業ではなく、先生の考える良い授業をしようとしていたのである。きょう何気なくテレビをつけてみると、医院を舞台にしたホームドラマをやっていた。この医院では患者のカルテの整理等にまだコンピュータを導入せず、手作業でやっている。時流に乗ったコンピュータシステムの導入を説かれて、経営者が一喝する:「あんたが言っていることは医者にとって便利なだけで、患者さんにとってはまったく便利なことじゃない。医者は効率よく診断を済ませて短時間で終わらせるのが便利や。けど患者にしてみたら時間をかけて話を聞いて欲しいのや。患者は医者の不便を望んでいるんや。」

この台詞を「生徒は教師の不便を望んでいるんや」と読み代えれば、機器を使って教師の手間を省く工夫が花盛りのこのご時世に、何とも心に響くではないか。当たり前の話だが、英語授業は本来生徒のためにあるべきで、教師の自己満足、英語教育業界内での自己顕示のためであってはならない。授業手順の話に戻ると、つぎに何をするべきかは生徒の表情が教えてくれる、と思えるようになるまでずいぶんかかった。

日本語を使わないのが大切と思っていた頃

約10年前にエレックの研究大会で実演授業をやらせていただく機会があった。生徒は中学3年生である。午後1時開始のその時まで、最初から最後まで英語で通そうか、どうしようか実は迷っていたのだった。そんな時、同じ日の午前中に別の会場で研究授業をされた語研の先生が、やはり中学生を対象に全部英語で通した、という情報が伝わってきた。それを聞いて迷いは消えた。「よし俺も」というわけで、その日の授業はオールイングリッシュになったのだった。
あの日のことが印象に残っているのは、当時は(少なくとも自分の見聞きしていた範囲では)研究授業でもオールイングリッシュはまだそれほど当然ではなかったような気がするからだ。あれから10年。今では研究授業でのオールイングリッシュは当たり前で、そうでなければ恥ずかしい、ような風潮があるような気がする。誤解であれば幸いである。

英語で通す授業が悪いと言っているわけではない。またあの日の自分の授業も、それなりにうまくいった方だと思う。英語でやった授業の結果が悪かったのではなく、恥ずべきは「英語で通して見る人を感心させてやろう。」、(さらに告白すれば)「本場もどきの英語で生徒をびびらせて、その後のコントロールをやりやすくしよう」という当時の私の醜い心根である。当時の私の授業を受けた生徒のひとりに後年言われた。「中学生にとって誰でも英語は恐いもの。入らなければならないのは知っているけど、入るのが恐い水のようなもの。つま先からすこしずつ入りたい。そこにいきなり頭の上から氷水が降ってくれるのは誰にだって恐怖ですよ。」嗚呼、神よ許したまえ!

 別の例を引いてみる。あなたは翌日の授業のプランを練っている。あしたは宿題の答え合わせをやってから、音読をやって、その後重要文型の解説の補足をしよう...。そこに教頭が突然やってきて「明日見学者があるので、悪いけど授業を見せてやってくれないか」と言ったとする。あるいは同僚もしくは後輩の英語教師が「ちょっと授業のやり方で悩んでいるんで、あした3組の授業見せてくれませんか?」と来たとする。この状況でまったく動ぜず、予定通り答え合わせと音読と文法解説を敢行できるなら、あなたは偉い。尊敬する。だが小心者の私はできなかった。

見学者があれば、流れが不自然になりすぎない程度のぎりぎりまで、その時間帯に、オーラルイントロダクションやえせコミュニケーション活動などの「見栄えのする」 活動を持っていった。見学者が教室内にいる限りは英語で授業を行うようにした。夏などでドアを開け放しての授業で、日本語で解説をしているときにたまたま同僚が廊下を通りかかるようなことがあれば、「しまった!聞かれた。」と恥ずかしい気持ちでいっぱいになるのだった。

日本語でやる解説も立派な局面であり、答え合わせの効率的なやり方もきわめて重要な技術だ、と胸をはって予定通りの授業を見せられなかった自分が情けない。それより何より、誰の方を向いて授業をしていたのかと、生徒に申し訳ない。

リーディングスキル養成が大切だと思っていた頃

リーディングスキルという表現がこの業界でポピュラーになって久しい。そしてリーディングスキルというと決まってでてくるのがスキャニングとスキミングのスキスキコンビである。学生時代にこの用語に初めて触れた時は、「おお!なるほど。これぞニューリーディング」などと感動したものだった。あほくさ。

まずひとつ言えることは、スキスキは、日本語であれば新聞のテレビ欄や時刻表などの例をあげるまでもなく日常茶飯事だということである。必要な情報のみを求めて、紙面上を縦横無尽に視線を走らせるたり、斜め読みしてもっと詳しく読むか決めたり、という行為自体は改めて学習するまでもなく、中学生くらいの年齢になればまず例外無く身に付いている能力だと考えられる。

しかし中学生のような初学者に限らず、もう十年単位で英語に接している我々英語教師でも、英語で書かれた時刻表やらテレビ番組表やら新聞の分類広告欄やらを見たときに、日本語のそれと同じ気軽さと効率でスキスキをするのが困難なのは実感するところである。(少なくとも私の場合そうだ。)これは英語と日本語でのスキスキには、その技能自体に違いがあるのか?そうではないだろう。技能自体には違いはないのだが、その技能を発揮する相手である言語が違うのだ。つまり、日本語と英語の違いである。

なにをくどくど当たり前のことを、を思われるかもしれないが、つまりこういうことである。英語でのスキャニングが難しいのは、平たく言えば英語の文字や単語などに慣れていないせいである。堅く言えば文字認識や語彙認識などのlower-order processes の問題であって、higher-order process の問題ではない。 Alderson (1984)が広めた表現を使うなら問題はreading problem にではなくlanguage problem にある。

スキミングも同様である。確かに生徒で英語を飛ばし読みする者は少ない。これは彼らが飛ばし読みという行動自体を知らないからであろうか。そんなはずはない。スキャニングと同様、スキミングも日本語の世界では日常的に行っている読み行動である。ではなぜ英語では飛ばし読みをしないのか?それはしたくないからではなく、できないのでだ。あるいはそのような読み方をすると理解度が極端に落ちることを事実として知っているからだと思われる。リーディングの「スキル」などではなく、もっと基本的な読む力、具体的には文字認識の速さ、語彙のサイズ、語彙認識の速さ、文法解析の速さが向上してくるにつれて、読む(精読)スピードは自然に上がってくるし、そうすればスキスキ(雑読)もこなせるようになるだろう。

 常識で考えてもわかるこんなことも忘れ、単に教科教育法のテキストや、英語教育の雑誌記事や学者の言葉を鵜呑みにし、いわば時流にのって、「速読だ!」「スキミングだ!」と言って、時にはストップウォッチ片手に生徒を急かしていた私は、馬鹿であった。例えるならば、基本的な脚力が不足している短距離走者をオートバイで牽引して速く走らせようとする、無茶な陸上コーチのようであった。そんなことで走力は向上すまい。オートバイのスピードに、脚の送りがついていけなくなってけがをさせるのが落ちである。速く走る方法をしらないから走れないのではない。方法は知っているが自分の筋肉が言うことを聞かないのだ。

スキミングと速読についての最も本格的な研究のひとつはおそらくMasson, Carpenter & Just(1982) である。通常の読み、スキミング、そして速読の最中の眼球運動と、読後の理解度を調べたこの研究で明らかになったことは、

(1)スキミングは、通常の読みのようにすべての語を読む速度を速めることではなく、まばらに読むことによって達成される。
(2)通常の読みとスキミングでは大筋の理解には差はないが、細部の理解は、スキミングが劣る。

この第2点を聞くと、「概要・要点がわかるならスキミングでもいいではないか」と思う人がいると思うが、それでは次の第3点を考え合わせるとどうであろうか?

(3)通常の読みとスキミングの差は、文章の内容がノンフィクションの場合より、フィクションの場合のほうが大きい。

これはつまり、スキミングはそのテキストの内容に関する予備知識に大きく頼っているので、フィクションになると、おおきく理解度が落ちる、ということである。文章中の断片だけを見て、不明な部分を予備知識によって推測する、のがスキミングの正体である。つまり

スキミング=断片的な読み+予備知識+当て推量

という式がなりたつ。果たしてこのような行動が、真の意味で「読む」と呼ぶに値するであろうか?L1リーディング研究では一般に、リーディングといえば、一語一語きちんと読む「普通の黙読」(ordinary silent reading) を指す。なお、読むときはすべての語を見ているわけではない、とか、一度に数語を読みとっている、というのは錯覚である(Rayner & Pollatsek 1989). スキミングはリーディングの範疇に入れないか、もしくは入れたとしても特殊な読み方として、せいぜい周辺的な扱いをされるのが普通だ。スキャニングにいたってはL1リーディング研究で触れられているのを私は見たことがない。なぜわれわれの分野だけ、精読よりスキスキが本筋であるかのような珍妙なことになっているのか不思議である。

メインアイデア把握が大切だと考えていた頃

 8年前、私は高校3年生を相手に、Reader's Choice (Michigan University Press)というESL教材を使ってリーディングを教えていた。A4判に近い大きさと約2cmの厚さ、中身はほとんどauthentic materials、という代物だった。それを持ち前のDrill sergeantスタイルで、がんがん進んだ。1学期の中間試験の範囲が何と120ページを超えたのを今でも覚えている。文字どおり泣いて抗議する生徒もいたが、信念を持ってブルドーザーのように進んだ。 

 このようなスパルタ授業を1年間続けた結果は決して悪くなかったと思う。かなりの生徒が高校生として第1級の英語力を身につけて卒業してくれた(と信じている...)。さて卒業式の前日の謝恩会でのこと。謝恩会では生徒たちがクラスごとに高校生活を総括するような出し物をすることになっている。くだんのクラスは私の真似をしたのだが、その中に、私役の生徒が「ペラペラペラ」と、意味不明のことを超早口でまくしたてたと思うと間髪を入れず、生徒役の生徒を指名し"What's the main idea!"とこれまた高圧的な口調で詰問する、という場面があった。嗚呼、ああいう風に見えていたのか、と一気に酔いも醒めた。

 このReader's Choice はリーディングスキルを重視していて、ひとつのセクションがメインアイデアをつかませるために設けられていた。200語くらいのパラグラフがいくつかあり、それぞれのメインアイデアを選択肢から選ぶのである。何が失敗だったかというと、このセクションの英文が、全編を通じて最も難解で抽象的であったのである。つまり、丁寧に精読してやっと理解できるレベルの題材を、英語による質問と解説、そしてメインアイデアの選択、という方法で進んだものだから、生徒は消化不良を起こしたのである。

 あのセクションで生徒がメインアイデアをつかむのが難しかったのは、「概要をつかむ技能」に問題があったのではない。そんなものは母語でも訓練されているし、仮にあの題材を日本語訳で読めば、正しいメインアイデアを全員が選択しただろう。問題があったのは、語彙、そして構文が難解だったのである。逆に言えば、細部まで正確に理解できれば、メインアイデアなどは自動的にわかるはずであった。英語教育業界の動向などに惑わされず、きちっと構文を解説し、語彙に注意をはらわせる、地に足のついた授業をすべきだった。

辞書を引くより推測を、と力説していた頃

 当時は今思えば本当に極端な指導が多かった。たとえば生徒が単語帳を作っていると嫌な顔をした。つまり単語は文脈のなかで覚えねばならない、と思っていたのである。

「単語は文脈の中でこそ意味がある。単語自体には意味はないのだ。やはり野におけ英単語、と言う。英単語という花は、野山に咲いているからこそ美しいのだ。野山に咲いていれば、その花がどんな地形のところに多いか、とか、どんな季節に観察されるか、というようなことまでわかる。それをひとたび摘んで持って帰ってきて標本にしてしまうともうダメだ。標本にして家に飾っておく必要はないのだ。花の色を忘れたなら、またすぐ裏山に出かけていって、実際に自然の中の姿を見ればいいだろ!」
 文章を読むとき、しらない単語があると最初からしらみつぶしに辞書を引きたがる生徒には、「全部の単語がわかる必要はない。要点がわかればよいのだから。」という指導をしていた。明らかにFrank Smithあたりのトップダウン理論の影響を受けている。いや、率直に言って、影響というより単なる盲信である。

 3年ほど前のある日、授業中、Mini-Worldを教材にして各自読ませていた時、やはり記事の中の未知語に全部印をつけ、それをひとつひとつ辞書で引いている学生がいた。いつも通り、「概要が分かればよいのだから、そんなに全部単語を引かなくてもいいんだよ。」とアドバイスした時に、「でも気になりますから。」という答えが返ってきた。なぜか、このやりとりをひとつのきっかけに、「辞書を引き過ぎるのは、リーデイング力養成にとってはむしろマイナスだ」などと思っていた私の気持ちに変化が現れたのである。

 彼女の英語力はクラスでも上位の方であった。意味の見当をつけずにむやみに辞書を引いて見当はずれの語義を書くような学生ではない。文脈からある程度語義を推測することも知っている。しかし、自分が読んでいる英文の未知語の意味は気になる、というのである。考えてみれば当たり前であった。

 ボトムアップ処理効率化のためには語彙のサイズは決定的な意味を持つ。GoodmanやSmithに代表されるトップダウン重視のリーディング観は誤りであったことが今では実証されている(Rayner & Pollatsek 1989; Stanovich 1991; Eysenck & Keane 1995 など)

ではどうすれば?

 結局、私は昔ながら文法訳読式の授業でよいと言っているのか?つい昨日、ある学生が訴えた。「○○先生の授業は、毎日、読んで訳して、読んで訳して...それだけでした...。クラスのみんなはほとんど誰も聞いていませんでした...。」これを聞くとはやり訳読式の授業は、と思いがちかもしれない。しかしおそらく問題は「英語」教授法ではなく、この教師の生徒掌握力、授業運営法、人間力、そしてその根本の「どんな手段を用いても実力をつけてやる!」という命がけの愛情、の欠如にある。これさえあれば、英語教育に難しい理屈などいらない。単語を教えて、文法を教えて、あとはどんどん使わせるだけ。他に何かありますか?

(しずか・てつひと/福島工業高等専門学校助教授)

参考文献

Alderson, J. C. 1984. "Reading in a foreign language: a reading problem or a language problem?" In Alderson, J. C & Urquhart, A. H. (Eds.) _Reading in a Foreign Language._  Harlow: Longman.

Eysenck, M. W. & Keane, M. T. 1995. _Cognitive Psychology_ 3rd Edition. Hove, East Sussex: Psychology Press.

Masson, M. E., Carpenter, P. A., & Just, M. A. 1982. "Comprehension of gist and details by speed-readers, skimmers, and normal readers." Unpublished manusucript, Carnegie-Mellon University. 

Rayner, K. & Pollatsek, A. 1989. _The Psychology of Reading._ Hillsdale, NJ: Lawrence Earlbaum. 

Stanovich, K. E. 1991. "Changing models of reading and readign acquisition." In Rieben, L. & Perfetti, C. A. (Eds.). _Learning to Read: Basic Research and Its Implications._ HIllsdale, NJ: Lawrence Erlbaum.

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