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160428_2015年熊野寮祭企画ストームにおけるセクシュアル・ハラスメントに対する声明文

以下は2015年熊野寮祭にて行われた、吉田寮との合同企画『ストーム』をきっかけにして起きたセクシャルハラスメントに対する声明である。ダウンロード版→ PDF ODT

2016428

2015年熊野寮祭企画ストームにおけるセクシュアル・ハラスメントに対する声明

吉田寮自治会

目次

A問題の概要

 ・経緯

 ・この問題の当事者は誰か

 ・寮のもつ「男性」性

B提起

C各論

 1、当問題がセクシュアル・ハラスメントであること

 2、SNS使用の問題点

 3、セカンドレイプの問題

 4、「祭り」の場における同調圧力と無関心の問題

 5、ストームそのもののもつ危うさについて


A 問題の概要

経緯

2015年12月5日未明、吉田寮受付周辺にてストームが開催された。熊野寮生、吉田寮生、寮外生、あわせて約50名程度が参加した。また、ストーム終了後には吉田寮食堂にて交流会が開催され、盛況であったという。

 しかし、このストームが終了してから数時間後、次のような発言がtwitter で発信された。


今日のストームはどさくさに紛れて吉田寮の女の子にボディタッチするという目標を大いに達成できたので良かった” (アカウント:わたなべゆうすけ @14youuuu


 5日午前4時頃、そのツイートを発見した吉田寮生が食堂に残っていた熊野寮生、それから吉田寮側のストームの企画者にこれを報告し、問題が明らかになった。その翌日からこのツイートをめぐり様々な人々が様々な反応を示した。ここではその一つ一つを逐一書き連ねることはせず、大まかにどのような動きが出たかを述べよう。


・熊野寮生有志が当該ツイートをした本人(以下、加害者)と話し合いをした

・吉田寮側のストーム企画者、吉田寮生有志がそれぞれ熊野寮生有志に事情を聴きに行った

・吉田寮生有志がこの問題について吉田寮内で情報収集を行った

・熊野寮の関係者から、『加害者本人が「直接寮に来て謝罪したい」』と言っていることが伝えられた。しかしここでは「加害者が自身の行為の問題点についてどのように考えており、誰に何を謝罪したいのか」といったことが何ら説明されておらず、吉田寮有志としては、「謝罪の場」で加害者が自身の行為を正当化したり曖昧にするような言説を繰り返したり、それを擁護するような言説が生じるといった二次加害行為が発生することが懸念された。吉田寮有志は、二次加害を避けるため、また問題認識を疎かにしたまま形ばかりの「謝罪」によって問題の幕引きが図られることを警戒して突然の来寮と安易な「謝罪」を断り、懸念する点を説明した上で、「何を問題視しており、何を、誰に対して謝罪するのかということを事前に明らかにするべきだ」と加害者に伝えた。

・しかしその後結局加害者本人からは、上記のような問いかけに対して、何ら応答がなかった。

・このツイートに対して批判する人もいたが、多くの者は無関心あるいは加害者を擁護する態度を取った

・熊野寮祭実行委員会は、この件について十分な総括をしないまま解散した

・熊野寮、吉田寮双方のストーム企画者は、今日に至るまでこの件について一切の総括をしていない


 吉田寮自治会は、この現状を深刻に受け止めている。これだけあからさまに行われた性暴力に対して、いまだに何も総括されていないからだ。我々は特に熊野寮祭実行委員会やストーム企画者、そして何より加害者から、本件に関する自己批判があるものと期待していたが、そのような動きは一切なかった。事件発生から4ヶ月以上が経過したが、この問題は今もなお解決しないままである。今回、本声明において吉田寮自治会としての見解をできるだけ詳細に述べた。今後、寮における性暴力事件を防ぐためにも、この問題に対して真摯に取り組んでいただきたい。


この問題の当事者は誰か

 SNSで投稿した本人以外にも多くの人間がこの問題の当事者である。なぜなら、問題のツイートは不特定多数の人間を相手にしたものであるし、ストームにしても大勢の人間が関わっているからだ。ましてや、問題となったツイートに関連して、それを擁護したり、セカンドレイプとなるツイートも多くみられている現状では、ツイートした本人だけがこの問題の当事者ということはあり得ない。

 とはいえ、もちろん問題の中心にいる当事者は明らかにツイートを投稿した加害者である。この問題は第一に、加害者が様々な人々に対してハラスメントをはたらいたという、セクシズムの問題である。そして、その加害行為の被害者として、吉田寮生や熊野寮生、そしてストームに参加した寮外生も現れる。特に寮外生は一番ケアしにくい立ち位置にいるので、我々は登場人物としてしっかり認識する必要がある。それから、加害行為を企画全体に対する攻撃とみれば、寮祭実やストームの担当者も被害者といえる。しかし、同時にかれらは、ハラスメントが起こったときの対応などが十分に想定されていたかなど、運営者としての責任も果たさねばならない立場である。その他にも、加害者の加害行為を娯楽的に消費したり、セカンドレイプ発言を繰り返す人々もいる。彼らの存在はこの問題が単に加害者個人の言動にとどまらないことを象徴している。我々はこうしたセカンドレイプについても看過することはできない。


寮のもつ「男性」性

 セクシュアル・ハラスメントとは、何らかの権力構造を背景にして行われる性的な嫌がらせのことであり、「男性」から「女性」に対して行われることが多い。「何らかの権力構造」とは、例えば上司と部下、教授と学生といったものが挙げられる。あるいは、既に存在する「男性」にとって都合のいい社会規範なども権力構造の一つである。社会においては「男性」と「女性」の不平等が既に存在しており、その不平等を利用してセクシュアル・ハラスメントは起こり、またセクシュアル・ハラスメントが起こることにより、この悪しき構造が強化されるという側面もあるだろう。

 さて、熊野寮や吉田寮において「男性」と「女性」は平等だろうか。熊野寮も吉田寮も性別によって入寮資格を制限することはしていない。とはいえ、そのことをもって熊野寮や吉田寮では男女平等が実現している、とは言えない。寮生の男女比で言えば現在でも多数なのは男性である。ここで「男性」と呼んでいるのはどういう人々のことか。例えば戸籍制度の枠組み内で「男性」に割り振られた人々かもしれない。あるいは生物学的に「男性」と分類された人々だったり、各人の性自認による「男性」だったりするかもしれない。いずれにせよ男性は多数派である。そして、そのことは「男性」性を共有した者たちが多勢を占めることにつながっている。

 「男性」性を共有するということは一体どのようにして確認されるか。それは一言で言えば、「女性」を性的なモノとして扱うことによってである。「女性」を遠巻きに見て品定めをする。ライブに出演した「女性」を本人の許可もなく至近距離で撮影する。既存の「男性」特権を発揮する仕方で様々な「女性」をとっかえひっかえ食い散らかす「男性」に対して、羨望の眼差しを向ける。その一方で、ポリアモリー1に基づき複数のパートナーと交際する「女性」2を、それが「女性」であるというだけで蔑視する。こうした行為はまさに「男性」が「女性」をモノとして見ているがゆえの行為といえよう。そして、今回問題となっているSNSでの投稿や言動も、まさにその一例である。

 「女性」あるいは「男性でない者」をモノ化できることが「男性」性の定義であり、それができない者は、その性自認に関わらず、「男性」であることを許されない。このように、特定の行動様式を共有しない者を排除して構築された場をホモソーシャルな場と呼ぶ。上述のように、熊野寮や吉田寮では「男性」が多数派を占める。このことは、「男性」性に基づくホモソーシャルな場が幅を利かせる一因となっているだろう。同時に、こうしたホモソーシャルな場が「女性」あるいは「男性ではない者」を排除しているなら、これが原因となって男女比の偏りが起こっているともいえる。このようにしてホモソーシャルな場は絶えず「他者」を排除することによって強化されていく。

 今回のSNSでの一連の発言の根底には、寮を支配する「男性」的なノリが確かに読みとれる。自らの痴漢行為を告白するあの投稿は、自分が属している共同体、ホモソーシャルな場の構成員に対してなされたものとも言える。痴漢行為を誇示するということは、自分はちゃんと「女性」を消費できるということを仲間に対して証明するということである。「男性」性を共有した構成員はこれに賛辞を投げかける一方で、こうした一連の言動に対して異議を唱える者には強烈な拒絶反応を示す。これは具体的には、セカンドレイプや加害者擁護のかたちであらわれる。

 寮では様々な価値観を持った者たちが生活空間を共有する。しかし、そこにひとたびホモソーシャルな場が登場すれば、寮に住まう者たちは常に「男かそうでないか」と監視され続けることになる。そしてその中で「男性」でいられない者たちは、「男性」にモノとして消費されるほかない。「男性」が「男性」であることを謳歌する、そのすぐ足もとには「女性」あるいは「男性ではない者」として排除され、蹂躙された人間が倒れていることを自覚すべきである。そこから目をそむけていては、この問題を根本から解決することはできないだろう。

B 提起

 以上の問題意識および現状分析のもとで、吉田寮自治会は次の4点について提起する。

1.加害者および加害者を擁護したりセカンドレイプをした者は、自身の問題性について自己批判すること

2.熊野寮祭実行委員会およびストームの企画者は本件に関して十分な総括をすること

3.熊野寮及び吉田寮の寮自治会、寮祭実、寮生らは、本件の経緯および問題意識を不断に共有していくこと

4.熊野寮生および吉田寮生各人は、それぞれの寮で起こりうる性暴力への対応を真摯に検討し、これまでの自らのありようを総括すること



C 各論

 以下に、当問題に関する個別の論点について、記述する。

1、この問題がセクシュアル・ハラスメントであること

2、SNS使用の問題点

3、セカンドレイプの問題

4、「祭り」の場における同調圧力と無関心の問題

5、ストームそのものの持つ危うさについて


1、この問題がセクシュアル・ハラスメントであること

ツイート

わたなべゆうすけ @14youuuu

今日のストームはどさくさに紛れて吉田寮の女の子にボディタッチするという目標を大いに達成できたので良かった”


 このツイートは、セクシュアル・ハラスメントである。

「どさくさに紛れて吉田寮の女の子にボディタッチする」ってどういうことだろう。ストームという企画は、その性質上、どうしても参加者間の身体接触(ぶつかり合い、押し押され)が起こることが前提とされている。ストームでは全ての参加者が、女とか男とかの別け隔てなく、相互に「ボディタッチ」が行われ合っているようなもの。なのに、なぜわざわざ「吉田寮の【女の子に】ボディタッチする」ことを取り立てて書いたのか。それは、【女性に触る】ことを特別扱いし、示威し、ネタにするためである。


 当人の許可や合意なく勝手に身体に触ることは、暴力である。当人の許可や合意なく勝手に身体に触ること、とりわけ女性の身体に触ることについて、された側の嫌だという声が上がり続けているにも関わらず、起こり続けている。それは、教室で、飲み会で、通学・通勤車両で、路上で、起こり続けている。そしてこの暴力とは、既存の権力関係すなわち女性は舐めても良いという社会的風潮に乗った形で働かれている、不当な暴力である。

 そしてこの不当な暴力は、それ自体がネタとして色付けされ消費されている現状がある。それに留まらず、その暴力を告発する声ですら、戯画化され、馬鹿にされ、軽んじられている。例えば今回起こったことを批判も総括もできないままでいつづけている寮は、まさに上述した文化に染まった形で存在している。このような場所では、女性の身体を触ることやそれを示威することが、面白いネタとして機能する。件のツイートはそういった受け手の反応を狙って、【吉田寮の女の子(及び、実際のストームの場で誰が吉田寮生か厳密に見分けられたとは考えにくいので、その場に存在したツイート主が女性として眼差した存在全員)】を生け贄に、仲間内にネタを提供しようとして発信されたものではないだろうか。


ストームに参加する人達は、基本的にストームという企画の性質を理解し合意した上で参加していたはずである。女性の参加者達も、身体接触が起こること自体は他の参加者達と同様に了解して参加していたはずであるが、自分のあずかり知らぬところで「女性である」という点に意味を見出され、勝手にネタとしての意味合いを付与されて消費されてしまった。今回のストームの呼び掛けにおいて、「女性が参加する場合は、あなたのジェンダーと身体に性的意味合いを見出し、性的なものとして扱うことを自明視しますので、それに合意の上で参加してください」などとは宣伝されていなかった。当人達が合意していないのに、ジェンダーや身体に性的意味合いを見出されそれを自明視されて扱われるという経験は、この社会で生きる女性達の多くが持っている。あまりに多くの人が経験しているが、あまりに「当たり前」の「日常」の風景となり過ぎていて、それが人格への侵害であるということに気付きにくくされている。


 私達の多くは(全ての人では無いかもしれないが)自分の身体に、他者の身体に、性的な意味合いを見出してしまうことがある。それ自体は止めようも咎めようもないかもしれないが、他者に対して当人の合意なく、勝手に付与した性的意味合いを、自明視し公表する行為は、セクシュアル・ハラスメントである。


 そしてこの発言は、ツイッター上の公開アカウントで行われたものである。たとえ本人にそのつもりがなかったとしても全世界に向けて発信されたものであり、公共の場で行われたことである。本人にそのつもりがなく、恐らくは「いつもの冗談が通じる友人同士」の関係を想定して為された言葉であろうが、この点こそが、このツイートの悪質さを物語っている。「吉田寮の女の子へのボディタッチ」をネタ化したこのツイートは、決して「吉田寮の女の子」に向けて発された言葉ではないのだろう。つまり、「いつもの冗談が通じる友人同士」に向かって、その輪の関係性には不在であろう「吉田寮の女の子」を自分達のネタの客体として消費したのである。


 今回のように公共の場でセクシュアル・ハラスメントとセカンドレイプ発言が行われてしまった原因として考えられるのは、「当人の許可や合意なく勝手に身体に触る不当な暴力」や「女性に触ること」が面白いネタとして機能する文化にどっぷり浸かっていたために、その文化によって抑圧され迫害される他者の存在への意識が疎かになってしまった点である。差別的な文化とは往々にして、あまりに猛威をふるってそこから排除される他者を蹴散らしながら我が物顔で公共空間を闊歩する為、自分達の感覚が「普通」であるとか「普遍」であるという勘違いを起こしやすい。しかし、私達が社会で共に暮らす様々な存在は、そんなにも同質ではなく、誰も彼もが差別的な文化で生きていける訳ではない。このような差別的な文化を疑問に思い、排除を自明視する場所にしたくないのであれば、まずはこのセクシュアル・ハラスメントの告発の声に向き合い、自分達がネタの客体として消費し、排除した存在への真摯な向き合いが求められるだろう。



2、SNS使用の問題点

 当事件は、SNS発信を契機として発覚し、なおかつSNS発信の内容を通して問題化されたものである。セクシュアルハラスメントというと、実際の身体接触や発言が問題視されることが多く、SNSでのセクハラについてはあまり知名度が無いのが現状である。よって本章では、SNS発信におけるセクハラの問題点および、当事件におけるSNS使用の問題点について指摘する。

 当該ツイートについて、問題であるのは以下の2点である。

 まず、参加者の女性(寮外生や熊野寮生も含まれるが、ツイート内では「吉田寮女子」)を「ボディタッチ」の対象として、つまり性的な暴力対象として見なしていることである。この点については前項で既に分析した通りである。

 二つ目の問題点は 、上記の内容をツイートとして明文化することで、加害の再生産が起きていることである。ツイートとして可視化されているうえに、他の人々からのリツイート、メンションが発生している。これらの多くは、当該ツイートを問題視するものではなく、むしろ面白がるものであった。twitter内で「ネタ」として消費されることで、当該ツイートの内容や、実際のストーム現場での身体接触の被害も「ネタ」として矮小化され、声を上げることは「無粋」と見なされ、ストーム参加者が声を上げにくい状況が形成されてしまう。この土壌・雰囲気が蔓延することで、参加者による被害申告が「ネタに水を差す」ものとして受け取られかねない。これは二次被害にもつながりうる点で重大である。

 以上の点で、ストームに参加した女性は、ストーム中の身体接触について声を上げにくい状況となる。それだけでなく、「ネタ」としての特性ゆえ、身体接触の内実について疑うことが「自意識過剰」として受け取られる恐れもある。ストームに参加した女性は、他の参加者を疑ってしまうことの心理的負担に加え、自意識過剰とみなされるのではという恐れとの、ダブルバインドに立たされることとなる。

 しかし一方で、SNSの性質上、セクハラが成立し得るのかという問いもあるかもしれない。インターネットという仮想空間の特性上、現実世界で主に適用されるセクハラと同列に論じてもよいのか、もしセクハラであっても加害性が薄いのではないか、といった反論もあるかもしれない。しかし、ネットは閉じた空間ではないし、善悪の問題からは逃れられない。そのうえ誰でも閲覧可能であり、再確認することも可能である。当該ツイートのみならず、SNSでの発言は、いくらセキュリティに配慮していても基本的に流出の恐れは避けられない。

 また、当該ツイートでは「ボディタッチ」の宣言は行われているが、実際に体を触っているか確定できない。この点で、当該ツイートは典型的なセクハラ像からは外れている。しかし、その発言内容そのものがセクハラであり、さらに周囲の反応によって、武勇伝や肝試しなどの「ネタ」的要素を付与され、消費されている点で悪質である。

 最後に、当該ツイートは、特定の相手に向けられていない。このため、当該ツイートの加害の矛先は曖昧であると考える人が多いかもしれない。しかし、ある属性を持つ人々を言及対象とし、さらに示威行為を行っている点でその加害性は明らかである。また、ローカルに「吉田寮女子」を矛先とするだけでなく、「女性はボディタッチの対象である」、「しかもこのメッセージはネタとして面白半分で発することができる」という、広く性差別的なメッセージを発している。

SNSでの発信といえども、「ボディタッチを遂行した」と女性を性的な加害対象と見なしている点で、当該ツイートはセクハラとして成立している。また当該発言が、ネット特有の加害性をもっていることの影響を踏まえる必要がある。


3、セカンドレイプの問題

セカンドレイプとは、性犯罪・性被害の被害者が被害を公にすることで周囲の人から好奇や誤解の目に晒され、二次的に精神的な苦痛や不利益を被ることである。具体的には、レイプや性犯罪・性暴力被害者を診察する産婦人科医や事情聴取をする警察官が、「あなたにも隙があったんですよ」などと被害者にも責任があるという発言をすること、あるいは好奇心的な目で見ることなどによる。性犯罪・性被害にあったことを告白し助けを求めることは、それ自体被害者に辛い体験を思い起こさせるものであるばかりか、このようなセカンドレイプの存在によっていっそうハードルの高いものになっている。


 当事件においても、セカンドレイプの問題は避けて通ることができない。twitterに投稿された当該ツイートそのものの加害性だけでなく、当該ツイートに対するメンションやリツイートの中には、その内容を擁護したり、ネタとして消費するものもあった。

 セカンドレイプはtwitterで明文化された加害だけにとどまらない。事件発生後、当該事件に直接関わっていない人々たちが、加害を擁護する発言をしたり、被害者を特定しようとするなどの行為も見られた。これらの行為は、特定の被害者のみならず、(主に女性の)ストーム参加者を潜在的被害者として対象化し侮蔑する点で、セカンドレイプである。


 このようなセカンドレイプが横行した一因に、吉田寮・熊野寮・そして京都大学がホモソーシャリティの強い集団であることが挙げられる。

 ホモソーシャルな場では、セカンドレイプが発生しやすい。なぜなら、ホモソーシャルはしばしば女性を性的対象として自明視しており、さらに被害者である女性を侮辱することで連帯が強化されるためである。

 ホモソーシャルな場において、性加害をネタにしたり、顕在的/潜在的な被害者を貶めることは、ホモソーシャルな場を再生産する。なぜなら、セカンドレイプが表明される時、そのノリに順応する「男(ここでいう男とは、女性を性的に対象とするという、自明視された男像である)」と、異議をとなえる「男でない/男を理解できない者」が差異化され、悪循環的に後者に対する加害が行われるからである。この背後には、ミソジニー(女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛嫌悪)をはじめとする、性別にかかわらずヘテロ男性でないものを嫌悪し加害する、ホモソーシャルな場の特有性がある。

 ホモソーシャルな場と、セカンドレイプによる場の再生産の悪循環は、男性の比率の高い学生寮であればなおさらのことである。ホモソーシャリティと加害性をめぐる問題は、熊野寮のみならず、吉田寮にとっても課題であり、何らかの対策を行う必要がある。


4、「祭り」の場における同調圧力と無関心の問題

 既に繰り返し述べてきたように、社会における男性中心主義や性のあり方に関する不自由な考え方が、性暴力を支えている。コンパや寮祭など参加者相互の交歓の場における安易な性暴力の発動は、あまりに日常化されてしまっている性差別意識を基にしている。

 また同時に、寮祭をはじめ吉田寮や熊野寮で頻繁に行われる場全体としての一体感を強め、高揚し、盛り上がるといった性質をもつ「祭り」において注意しなければならないのは、その場で起こった問題に対する”一部の”抵抗や告発を「「祭り」に対する妨害行為」と見なして排除することに繋がりやすいということだ。「その場の雰囲気を壊したくない/壊されたくない」という圧力が、被害者に対して泣き寝入りを迫ったり、仮に告発に至っても、「折角みんな楽しんでいるのに、そんなことで水を差すな」と、被害者の主張よりもその問題に無関心でいられるマジョリティの「気持ちよさ」を優先する=不快要素は排除するという二次加害行為が発生したりする。日常に通底する差別意識と、「祭り」を滞り無く行いたい/行わなければという圧力が相まって、「祭り」の場における性暴力の発生と告発の無化につながるのである3

 今回の問題にしても、性差別発言が発言者を含めストームの直後に発覚しているにも関わらず、このことで何らかの継続的な対応や主催による意思表明、最低限の問題共有すらも行われないまま、翌日以降も熊野寮祭が”滞り無く”実行された。「祭りに水を差すべきでない」という無言の圧力が、問題への対応を遅延させたのではないだろうか。

 これは、性のあり方や年齢や国籍や学歴や職業等に関する差別意識が蔓延し、多くの場合その場の個々人に自己決定権がなく権力的な支配非支配の関係にある、社会全般において見られることだろう(例えば教授や先輩が采配をふるう研究室の飲み会を想起しよう)。寧ろ、自治自主管理空間で行われる「祭り」とは、本来このような状況に対置されるはずだ。即ち、その場の抑圧に対する個々の問題提起に真摯に応答し、問題解決を考え、より良い場のあり方とはなにかを皆で深めていくこと。それを通じて、押し付けられた社会規範を内面化した自己や抑圧された自己と周囲の関係性を見なおしていくこと(しばしば見られる「表現の自由」を盾にして自らが内面化する社会主流の規範を無批判に正当化することとは、真逆であることに注意したい)。これは自治そのものに通じることでもあるだろう。こうした目的意識を見失った「祭り」の場は、ただただ社会規範を再生産しマイノリティを排除することで場の一体感を高めるというものになりやすい。


 場のあり方を問われるとき、その場を構成する一人ひとりが応答する立場にある。例え性暴力を積極的に肯定することはなくても、起きてしまった/起こることが懸念される性暴力に対して何らの態度表明も行われない場は、現状(性暴力が日常的に発生している)を追認することに繋がるだろう。とりわけ場の「主催者」とされる人々は、事実上、場に対するより大きな影響力をもっているため、注意しなければならない。 

寮祭企画「ストーム」は、他人との身体的接触を伴い、場の高揚感が高まりやすいイベントで、過去に性暴力が起きた経緯がある程に「男性的ノリ」との親和性が高いイベントだ(ストームという企画自体の持つ危うさについては後述する)。現状では性暴力に対する問題認識が十分に浸透しているとは言い難い寮や大学キャンパスといった男性中心的な環境で、こうしたイベントを行うのであれば、その場のあり方について予め問題意識を表明・共有しておくことが重要だろう。しかし今回、企画主催者がハラスメントに関して、事前に何らかの意思表示を行ったり注意喚起をすることはなく、当日参加者から補足されることもなかったと思われる。

 そして実際に今回のストームで性差別発言やそれを擁護する言説が発生しても尚、それに対しストームや寮祭の主催者を始めいかなる主体も、約半年に渡り何らの態度表明をあらわしていない。繰り返しになるが、これはストーム・寮祭における性暴力を、無言の内に容認することを意味する。問題に対する無関心は、それ自体が問題を「大した問題ではない」と矮小化する一つの態度表明となることを、認識するべきである。


5、ストームそのもののもつ危うさについて

 寮祭期間中にしばしば行われてきたストームは、多くの寮生・寮外生が参加し、その後に行われる飲み会などとあわせて、吉田寮・熊野寮に関わる人々の交流のきっかけとなってきたということは、一面では事実である。そうした交流は、寮自治の基盤となる共同性や、吉田寮・熊野寮間の連携を強めていくうえで、いくらかプラスになってきたことは事実だろう。しかし、ストームが一定程度そうした肯定的な意味を持つ反面、その危うさについては――少なくとも近年においては――ほとんど顧みられることがなかった。

 もとより、寮祭をはじめとする、寮で行われるイベントの盛り上がりそのものが、その場でマイノリティの立場にある人々を抑圧する危険性とつねに背中合わせであるということは、すでに述べてきたとおりである。このことは、多くの人が参加するイベントにおいてつねに念頭に置かれなければならない。ストームは、そうしたイベントのなかでも、とりわけ性暴力を生み出す危険性を伴ったものだと言える。

 混乱状態のなかで多くの人が身体的に接触しあうストームでは、大勢の人間がおたがいに身体をつかみ合い、揉み合い、参加者はもはや誰に何をされたのかさえわからないような状況になる。ストームはこの意味おいて、「どさくさに紛れて」(加害者ツイートより引用)性暴力を振るおうとする人間の悪意に付け入る余地を与えてしまうことになる。

だが、ストームはそのような悪意に対してたんに無防備であるだけではなく、ストームそれ自体が性暴力と親和的な一面を持っているということもまた、見逃されてはならない。すでに繰り返し述べているように、もともと吉田寮・熊野寮は男性が多数を占める空間であるが、肉体的な衝突が大々的に展開されるストームは特に吉田寮・熊野寮の男性的なノリが強く発揮されるイベントだと言える。しかも、ストームが寮祭のただなかで行われるということもあいまって、高揚した非日常的な雰囲気が、男性的な性格の強い場のなかで醸成されることになる。そうした男性主体の非日常性は、「この場では羽目を外してもよいだろう」と考え、セクハラにおよぶ人間をも呼び込んでしまう危険性を持っている。「非日常的な祝祭においては性暴力が許されてよい」などという道理を私たちは断じて認めないが、そうした場において通常は許されない性暴力が許されるという思い違いを犯す人間はこれまでも少なからず存在してきた。

 実際、寮の歴史を振り返っても、ストームにおいてセクハラは幾度となく行われており、それに対する告発の声もまた繰り返し上げられてきた経緯がある。過去に大きく問題化され、その後の寮のあり方にも影響をおよぼしたものとしては、1972年、泥酔した吉田寮生がストームと称して看護学校の女子寮「瑞穂寮」に乱入した事件がある。京大や他大学の女子寮に対する同様のストームはそれ以前にもしばしば行われていたこともあり、この事件はストームそれ自体への批判のみならず、京大の学生寮の男性中心主義そのものを告発する大きな抗議の声を呼び起こすこととなった。この事件を受けて、それまで男子学生のみによって構成されていた吉田寮・熊野寮では、それまでの寮のあり方を問い直すべく、女子の入寮について議論することになる4

 以上は、過去の事件であるが、吉田寮・熊野寮が男性中心の空間であったこと、またそうした空間のなかで行われるストームがセクハラに結びつくことを顕著に示す事例である。男性主体の場所である寮やストームに対するこのような批判が現在の吉田寮・熊野寮のいわゆる「男女混住寮」というあり方の出発点のひとつであったことは忘却されてはならない。

 にもかかわらず、瑞穂寮の事件以降もストームにおけるセクハラはなくならず、しかも現在ではストームに対する批判的意識すらほとんど風化している状態である。ストームが寮祭を盛り上げ、あるいは諸個人の交流を促進するという性格を一面では持つとしても、今回のようなセクハラが起こった後でさえもストームの問題性を無視しつづけるということは、決して許されてはならない。こうしたストームの問題性が真摯に問われないかぎり、ストームにおいて今後もセクハラは起こることになるだろう。

1恋愛スタンスや関係性の在り方として、ポリアモリー(複数愛/多数愛)と呼ばれるものがある。ポリアモリーは、交際相手を単数に絞らない在り方で、全てのパートナーの同意のもと成立している。現在の日本社会ではモノアモリー(単数愛)のスタンスが支配的なため、ポリアモリーはモノアモリーのマジョリティ感覚に基づく誤解や中傷を受けやすい。

  一方で、本文で例に挙げたような「女性」をモノとして消費していく「男性」は、その行動の背景に男性特権の発露および強化が存在している。それは、具体的には、複数のパートナーを持ちつつ、そのことについてパートナー全員に合意を取らない、等のかたちで表れる。こちらについては上述のポリアモリーとは正反対の思考様式に基づいており、明確に批判対象となる。


2また、ここではポリアモリーを実践する者として「女性」を例に挙げたが、もちろん「女性」ではない人々の中にもポリアモリーを実践する者はいる。

3当然、こうした同調圧力は「祭り」の場のみでなく日常生活の場でも生じている。個々の人間関係にヒビを入れるのではないかという恐れ(実際、コミュニティ内で異質な主張が「空気を読まない」として拒まれたり無視されることはまま見られるだろう)が、マジョリティの主張に対する批判を思いとどまらせる要因の一つとなっている。そうして場の主流的な在り方(無自覚な性暴力)による苦痛を耐え忍んだり、問題に感じても無関心な素振りをするような状況を生んでいる。

4ただし、熊野寮が74年に女子の入寮を開始したのに対し、吉田寮で女子が入寮したのは、ようやく85年になってからであった。