吉田寮小史

 参照:吉田寮小史

吉田寮小史

                          吉田寮自治会執行委員会

 


「吉田寮の在寮期限を昭和61年(ママ)3月31日とする」

1982年12月14日、京都大学の最高意思決定機関とされる評議会がこのような決定を下しました。つまり、1986年3月31日をもって吉田寮を廃寮にしようとしたのです。この廃寮化攻撃との闘いは、「在寮期限」設定にいたる過程も含めるとほぼ10年にも及ぶものであり、現在の吉田寮のあり方を大きく規定しています。そこで、「在寮期限」問題を軸に、今年で築102年を迎える吉田寮の歩みを振り返ってみたいと思います。

 

1.「在寮期限に至るまで」

 京都大学は1897年創立ですが、その当時から学生寄宿舎は設けられていました。翌年、1889年竣工の第三高等学校の学生寄宿舎が譲り受けられます。そして1913年、その材木を再利用して建設されたのが現在の吉田寮です。1959・60年には民間の労働者寄宿舎が京都大学の学生寄宿舎に転用され、従来からの建物が吉田東寮、転用された建物が吉田西寮と呼ばれるようになりました。

 京都大学においては、学寮の運営は早くから学生の自治に委ねられ、入寮選考も基本的には寮生が行ってきました。1971年には吉田寮・熊野寮自治会と浅井学生部長(当時)との間で、「入退寮権は一切寮委員会が保持・行使すべきだと考える」「新入寮生全員の名前を選考概評とともに『京大新聞』紙上に発表する」といった確認書が結ばれています。学寮の運営は寮生の自治によってなされ、大学当局との間で問題が生じた場合には、公開の場で話し合って解決を図るという「団交(団体交渉)確約体制」が1978年まで続きました。

2.「在寮期限」の強行

 1978年、沢田敏男学生部長(当時)が団交拒否・確約破棄を打ち出します。そして1982年、「在寮期限」決定がなされました。決定当日、会議場のあった時計台二階に寮生らは抗議に駆けつけましたが、職員に阻まれ、階段から突き落とされて重症を負う者も出ました。評議員には「在寮期限」の目的は老朽化の解決のためである、と説明されましたが、翌日、沢田総長(当時)は記者会見で、その目的を老朽化の解決に加えて「寮運営の正常化」のためであると説明し、寮自治を否定する本心を明らかにしました。1983年4月15日に時計台の二階に上がって寮生らが抗議文を提出しようとしたことをもって「建造物侵入罪」として、5月18日に大学当局が警察に4名を逮捕させました。さらに、これへの抗議行動に対しても、「公務執行妨害」として1名、「建造物侵入罪」として3名を逮捕させたのです。

 1984年には、「正常化」の一環として、これまで不要であった水光熱費の支払いに各寮自治会は応じさせられました。1986年2月15日、「在寮期限」を理由として学生部委員会は1986年度入寮募集停止を決定し、「在寮期限」が到来しました。4月1日には炊フ2名の配置転換による吉田寮食堂休業、吉田寮守衛1名の配置転換を強行しました。

これらは当事者である寮生の立場を無視し、それまでの寮自治会と大学当局との関係(確約体制、確約自体)を無視する、一方的な権力の行使でした。そしてそれに抗議する声を、警察を使って圧殺しようとしたのです。

 

 

3.文部省の学寮政策

 以上に見られる廃寮化攻撃の背景には、文部省(当時)の学寮政策があります。

 文部省の学寮政策の内容は、1984年の通達、「学寮における経費の負担区分について(通称2・18通達)」をはじめ、寮生の経済的負担の強化=国費負担の軽減や寮自治に対する管理強化を狙ったものでした。1971年、全国的な学生運動の昂揚を前にして、文部省は学寮を「さまざまな紛争の根拠地」と規定し、これを解体していく方針を打ち出します。

 ところで、国立大学の学生寮は建築年度や規格によって「旧寮」「新寮」「新規格寮(新々寮)」の3つに分類されます。京都大学においては、吉田寮・女子寮・室町寮が旧寮、熊野寮が新寮、国際交流会館が新々寮です。この新々寮の建築が、1975年より開始されています。そしてそれ以後、文部省は新規格の寮しか建築を認めようとしないのです。

 新々寮4条件は以下の通りです。

(1)大学当局の入退寮権掌握

(2)全室個室

(3)2・18通達の完全適用(負担区分の納入)

(4)寮食堂なし

このうち(1)は、寮生による自治を否定していく延長線上にあるもので、当局にとって都合の悪い者を排除することを可能にします。また、寮生資格(「男子学部生のみ」など)の設定により本当に経済的に困窮している者が事務的に切り捨てられることがあります。(2)は、寮生を分断して自治の基盤となる共同性を解体しようとするものです。また、一部の新々寮では集会室・大部屋も設置されていません。(3)水光熱費の寮生負担分を増額されることにより、寮生の経済的負担の強化をもたらします。(4)は、経済的負担の強化に加え、全寮生が集まれる場をなくすことにもなります。その他、ガードマンが勝手に寮生の居室に出入りしたり、寮生が廊下に集まることすらできないように廊下を曲げたりしきりを設けたりしている寮もあります。1979年には、京都大学を訪れた会計検査院の役人が、寮について、文部省の方針通りに運営されていないとして不正常指摘を行いました。これを受けて大学当局は、新々寮に作り替えようとして廃寮化攻撃を行い、そして新寮建設のめども立たないのに「決めたことだから」として吉田寮の廃寮を強行しようとしてきたのです。

 

4.「在寮期限」との闘い

 このような攻撃に対して吉田寮自治会は、「在寮期限」設定直後から学内の学部自治会や学生有志とともに、その不当性を暴露し、寮自治や共同生活の意義をアピールすることによって、吉田寮の維持・発展を訴えていきました。「在寮期限」到来直前には、「『在寮期限』が到来したからといってただちに寮生を追い出すべきではない」という旨の確約をひきだしました。そして、新自治寮を建設させ、それへの全寮生の移行によって「在寮期限」を無効化するという方針を掲げ、1986年度以降も自主入寮選考を貫徹し、寮を必要とする多くの学生を受け入れつつ、闘いを継続してきました。

 これに対して大学当局はついに吉田寮の完全廃寮をあきらめ、1988年11月7日、5年9ヶ月ぶりに行われた団体交渉の場で河合隼雄学生部長(当時)は妥協案を提示します。それは、吉田西寮の撤去と寮生名簿・寄宿料の提出に寮生が応じれば、吉田東寮を補修して寮の存続を認めるというものでした。吉田寮自治会は1989年1月22日の寮生大会においてこの妥協案の受け入れを決定しました。また、交渉の過程において西寮の定員分を代替する施設を要求しましたが、その過程で荷物部屋としてプレハブが建設されました。これを受けて4月14日の評議会において「在寮期限設定に伴う一連の措置の執行を完了した」ことが確認され、長きにわたった「在寮期限」闘争は終結したのです。

 「在寮期限」問題は吉田寮生だけの問題ではありませんでした。吉田寮は京都大学に在籍する全てのひとの共有財産であったし、文部省の自治寮つぶしの政策は、学生の自治・自主的活動の否定につながっていたからです。もちろん、この問題には吉田寮生が中心となって取り組んできましたが、署名、集会・討論会への参加、決議等の形で寮外生や教職員、そして京都大学以外からも多くの人々の注目・支援・連帯を勝ち得てきました。こうした世論こそが、吉田寮が廃寮化攻撃を打ち破る大きな力となっていたのです。

 

5.「在寮期限」以降の吉田寮

もともと吉田寮は男子学部学生の寮とされていましたが、1985年から女子の受け入れを開始していました。1990年7月からは留学生の受け入れ、1991年度からは院生・聴講生・研究生・医療技術短期大学生を含めた全京大生を入寮募集の対象とするようになりました。さらに1994年度より、「京都大学学生との同居の切実な必要性」が認められる者も入寮募集の対象となっています。これらは入退寮権を有する寮自治会として、厚生施設である学寮が誰のための施設であるべきかを議論した結果です。また、入寮資格枠の拡大に伴って、入寮希望者は増加し、最近では寮生数は当局の定めた定員147名を大きく上回ることもあります。そのため、居室はほとんど相部屋となっています。

寮自治会は、「在寮期限」以降も歴代の学生部長と団体交渉を行い、寮自治の尊重、補修の継続などを内容とする確約を引き継がせてきました。1996年5月16日には、益川学生部長(当時)との団体交渉において、「新寮の運営についても寮生の自治とする」という確約を獲得するなど新寮建設に向けて歩を進めたように見えました。ところが、新寮のより具体的な内容についての合意を求めて行った同年12月6日の益川学生部長(当時)との団体交渉においては、学内寮を求める我々と学外寮を主張する当局との交渉は物別れにおわってしまいました。

 

1998年度から、京都大学の組織再編の一環として、学生部(その下に寮務係がある)の事務局編入、副学長制の導入などが行なわれ、これに対しても寮自治会は、当事者を欠いた一方的な決定であるとして抗議を行ってきました。そして1999年6月には、新寮を現在の場所に建てること、水光熱費の負担区分の値上げをしないことなどの進展した確約を副学長と交わしました。これで新寮建設に関する条件はほぼそろったということになります。しかし新寮建設か吉田寮の保存かという議論は現在でも行われており、決着をみていません。

また2000年度からは国立大学法人化の問題が挙がり、寮自治会はこれに対し反対の立場をとっていました。端的に言えば法人化は、「市場原理」と監視・評価システムの導入により、学生の権利・自治空間の減少、管理強化をもたらすと共に大学の自治そのものを脅かすものであると判断できたためです。しかしその甲斐むなしく、2004年度から国立大学の法人化が始まりました。その後の京都大学の状況を見てみると2005年に事務本部再編と学生部予算削減がなされました。前者に関しては、事務の簡素化・合理化を主な目的に効率重視の人員配置、業務の分散が行なわれ、今後きめ細かで柔軟な学生対応が損なわれかねないと懸念されます。また後者に関しては、このことが学生の課外活動の縮小や吉田寮に関する予算の削減につながる可能性もあります。当局のこのような動きは今後も続いていくと思われるので、動向には注意していく必要があります。

 

また吉田寮自治会は90年代においても文部省の学寮政策に反対するために、他大学の学寮支援も行ってきました。

東京大学駒場寮は当局により一方的に「1995年度入寮募集停止、1996年3月廃寮」を決定され、裁判闘争にまで至り廃寮となりました。吉田寮自治会は10年間にわたり駒場寮自治会を支援してきました。

さらに山形大学学寮では1999年大学当局により入寮募集停止が行われ、事実上の廃寮処分が決定されました。そんな折、大学の指示を受けた寮内清掃員によるスパイ活動が発覚しましたが当局はこのことを否定し、逆に、寮生が清掃員を監禁し署名を強要したと警察に訴え、結果四名が逮捕されました(後に釈放、不起訴処分)。このスパイ行為、虚偽告発等に対し寮生は国家に賠償請求訴訟を起こしました(これを「泥ウソ」国賠という)。これに対し高裁では大学の窃盗が事実として認められ寮生側の一部勝訴となりましたが、寮生側は告発の違法性が認められなかったことを不服としさらに上告しました。最高裁では書面却下の判決が下され、ここに高裁での判決が確定しました。吉田寮自治会はこの間山形に行き裁判を傍聴するなど支援を行ってきました。

そして1999年に一方的に廃寮を通達された東北大学有朋寮でも裁判闘争が行なわれてきましたが、20069月に最高裁で有朋寮「明け渡し」裁判の上告棄却がなされ、これにより高裁での有朋寮「明け渡し」の判決が確定となり、その後完全に廃寮されてしまいました。

 

6.どうなる未来の吉田寮!?

06年、大学当局から新寮に建て替えないかという提案があり、10月23日に吉田寮自治会は新寮建て替えに関して学生の福利厚生を担当する副学長と団交を行いました。しかし、結局大学当局と吉田寮自治会の間で、どういう新寮にしようかという条件のすり合わせができず、決裂という結果に終りました。

この問題;吉田寮をどう残していくかという問題に関して吉田寮はどのように捉えているのか、今までの歴史や経緯をふりかえってみたいと思います。

吉田寮は「在寮期限」を経て、建物の「老朽化」という問題をなんとしようと取り組んできました。当時、その解決策として挙げられたのが、新寮建て替えです。それから何年もの間、吉田寮は大学当局に対して新寮を要求してきました。しかし、寮生の自治による運営を重視する私たち吉田寮自治会の要求する新寮と、文部省の学寮に関する方針とのすれ違いが有り、新寮建設はなかなか難しそうだ、という流れの中、大規模な補修を行い老朽化を当面解決する、という新たな方向性が02年ごろ検討され始めました。

それまでにも雨漏りを直す、窓を治すなどの日常的な小さな補修は行われてきたのですが、建物を長く使っていくためにそれとは違う補修は必要かを独自に調べるため、補修特別委員会が設置されました。そして、耐震強度などの面で骨組みから補修するという、大規模補修の必要があるという事が認識され、大学当局への要求をし始めました。そして05年には大規模補修に向けた耐震調査と、耐震補強の設計に関する予算がつき、大規模補修の設計までは行われたものの、06年夏から秋にかけての概算請求[1]の学内選考において、吉田寮の大規模補修案は廃案となってしまいます。そしてそれまでの交渉内容と一転して、0610月に学生センターから、「京都大学重点研究アクションプラン(以下アクションプラン)という予算枠で、吉田寮を建て替えよう。1023日までに返答をくれたらすぐにでも実行に移る」という話が持ちかけられます。このアクションプランとは、各部局の経費を節約して浮かせた予算をプールしたもので、総長及び理事の裁量によって柔軟な運用が可能な予算枠である、とのことでした。

 それまで大規模補修方針で当局と合意に至り、設計まで行われたにもかかわらず、突然全く別の提案が出されたことで、自治会は少なからず混乱します。「今建替えるべき」か「今は見送るべき」かで大きく寮内は割れ、さらに細かい意見の相違、その他諸々の意思決定に関わる問題から議論は錯綜し、連日連夜の議論を経ても合意には至りませんでした。

 建て替えるか否か、自治会としての合意を見ないまま、回答期限の1023日に、吉田寮自治会は東山副学長(厚生補導担当、当時)と、「もし建て替えを行うのであれば、このような条件であれば合意可能である」という趣旨の確約を結ぶための団交を行います。ですがこの団交は当局側から設けられた時間制限により、一つ一つの項目について話し合うことができず、交渉の体をなさないものでした。

 団交は決裂に終わりましたが、山下学生センター長は「今後も建替えに関する交渉には応じる」と発言し、また寮内でも速やかに議論を進める必要が認識され、議論を行う試みが執行委員会や老朽化対策特別委員会によって行われます。また寮内での議論にとどまらず、学内に広く協力を呼びかけて吉田寮の要求に支持を集める運動が、老朽化対策特別委員会を中心に画策されました。しかしながら、寮内での議論は大きくは進展せず、学内で協力を集める運動も大きな成果は見られませんでした。やがて寮内でも、いつ何時0610月のような提案が持ちかけられないともしれないという危機感は薄れていきます。

0810月には、尾池総長(当時)及び東山副学長(当時)が退任し、松本総長及び西村副学長が新たに就任しました。

副学長交代に伴い、吉田寮はそれまで引き継がれてきた確約を新副学長に確認させる「引継ぎ団交」に向けた準備を進めます。しかし、それに先立つ第三小委員会との予備折衝の段階で、交渉は難航しています。

当局側の当初の主張は、「寮は第一義的には大学のものであり、話し合いには応じるが寮生が最終的な決定権を持つという状況は不正常である」というものでした。しかし長期に渡る交渉の中で徐々に態度を軟化させ、現在では大幅に寮生の自主権を認める形になりつつあります。

 

7.西村・赤松間の確約引き継ぎと、予算の性質に関する変化

201010月、西村副学長の任期満了に伴い、赤松新副学長が就任しました。副学長の交代に伴い、吉田寮自治会は改めて確約の引継ぎを当局に求めました。当局は新棟建設及び現吉田寮の老朽化対策についての議論の再開を強く求めてきており、また自治会としてもその再開は望ましく、むしろこちら側から求めていくべきものではありますが、そのためには、当局が「一方的な決定を行わない」ことを約束する引継ぎ確約の締結が大前提となります。確約は、その文面だけでなく結ばれた経緯まで確認できて初めて意味を為します。西村副学長との確約における「メモ書き」(註:本パンフレット「引き継ぎ団交について」参照)の存在は、文面だけを見れば「新棟建設の話合いに吉田寮自治会が不誠実であることを理由に、当局が確約を破棄する」ことを正当化するものに見えてしまいます。そのため、メモ書きが付された経緯を明確にし、また確約自体についても破棄がなされないような保証を吉田寮自治会は求めました。この自治会の主張に対して、当局は「大学当局としてメモ書きをそのように使用するつもりは無い」と答えました。そのため、「メモ書きは、吉田寮自治会が誠実な交渉主体であるということを、吉田寮自治会に懐疑的な学内の人々に対して説明するために、赤松副学長が個人的に使うものである」と確認した上で、メモ付の確約が20113月に締結されました。

 その後、吉田寮の新棟の条件についての議論がすみやかに始まるかと思われました。しかし、吉田寮の老朽化対策のために西村前副学長が申請した予算の性質が、当時西村前副学長と確認したものと赤松副学長が言うものとで大きく異なることが、20114月の再開後初めての新棟交渉で発覚しました。西村前副学長との確認では、予算は吉田寮の老朽化対策以外に転用可能なもの吉田寮自治会と大学当局との合意までとっておけるもの とされていました。しかし、赤松副学長によれば、予算は老朽化対策以外に転用不可能なもの期限が来たら国に返還しなければならないもの だというのです。吉田寮自治会にとって、この予算の性質の変化は見過ごせないものでした。なぜなら、予算の消費を口実に、新棟建設・現寮建て替えを大学当局が強行してくる恐れがあるからです。これは他大学の自治寮で似たような例が実際にあったことであるため、吉田寮自治会として非常に警戒しています。

 このような予算の性質の変化に対して、吉田寮自治会は「西村前副学長と確認した時と話が違う」と当局を追及し、「予算の変化を吉田寮自治会にすぐに伝えなかったことを謝罪すること」「吉田寮建て替えを強行しないこと」等を当局に求めました。これに対して当局は、「予算の性質の変化を吉田寮自治会にすぐに伝えなかったことは謝罪する」「予算の消化を口実に吉田寮建て替え強行はしない」と発言しました。しかし、当局の話す予算の性質は二転三転を繰り返しており、20152月現在、予算の全容は未だ明らかになっていません。

 

8.現寮補修の打ち出し、新棟建設合意

予算の性質の話し合いと並行して、新棟の条件や現寮の老朽化対策についても寮内や当局との間で議論が行われてきました。その途中、20124月には、大学当局より寮食堂の取壊・新築の決定とこれに関する交渉の拒否が通達されるという強行が行われましたが、食堂の利用者等を含む自治会側の強い抗議により、これを撤回させることが出来ました。またこの時同時に、寮自治会より現吉田寮寮舎を補修することが公式に主張されました。

その後も議論が重ねられ、遂に2012年918日、赤松副学長と吉田寮自治会は現寮の処遇は補修の意義を踏まえた上で継続協議していくこと、新棟を木造と鉄筋コンクリートの混構造で建設すること、寮食堂を補修すること、の3点を主に盛り込んだ確約を締結しました。新棟の規模や食堂の補修については当局が認める形になりましたが、自治会の当初の理念として、新棟の条件を全て決めてからその建設に合意するということを掲げていたので、構造や経済負担に関して継続協議としたまま新棟建設に合意した点は自治会の妥協であったといえます。

 その後20136月に新棟や食堂の構造について合意し、実際に工事が始まりました。食堂補修に際しては、代替スペースとしてのプレハブも設置されました。

 他方大学当局との交渉は、現棟補修と新棟の寮費に争点が移りました。この内新棟の寮費については、長期に渡り議論が続けられています。大学当局は一貫として新棟の寮費値上げを迫っていますが、合理的な理由は何ら示されていません。これに対して吉田寮自治会は、福利厚生施設の寮費は原則的に無償であるべきとの考えから寮費値上げに反対しています。20152月現在、議論は決着をみていません。

 

9.「全学委員会」の強行設立

20139月、赤松副学長は、本来寮との交渉に当たるべき第三小委員会が機能していないことや副学長の権限を分散することを理由に、吉田寮に関する「全学委員会」を設立する提起を行いました。この組織は責任者や所掌範囲が曖昧で、現在の交渉確約体制を形骸化する恐れがあったため、吉田寮は全学委員会の設立を強く批判し、結局副学長は提起を撤回します。

 一方11月頃から吉田寮自治会は現寮の補修方法について大学当局と交渉することを要求していました。約3ヶ月の間「副学長の多忙」により交渉が拒否された後、ようやく20141月末に副学長不在で交渉がもたれ、その場で自治会は現寮の補修案(京都市の条例を適用し出来る限り現在の姿で補修する案)を主張しました。

 ところが20142月頭、赤松副学長は自治会に対して一切の相談なく、一方的に「吉田寮の現棟補修に関する全学委員会を設置する」ことを部局長会議で提起し、「全学委員会」設置を強行したのです。赤松副学長は「自治会の主張した条例適用は副学長の一存では決められない」などと説明しました(もっとも設立理由は二転三転しています)が、何であれ最大の当事者である吉田寮自治会の合意を抜きに、そのような組織再編を行なうことは到底認められません。当然自治会は強く抗議しましたが、一度成立した委員会の撤回は困難でした。やむなく、差し当たっては問題のある「全学委員会規程」を改定させることで、委員会の活動を厳しく制限することを要求しました。赤松副学長は4月に規程改定案に合意し、規程改定を提起する第一回全学委員会には吉田寮自治会が参加できることも約束しました。

 しかし、副学長の都合により「全学委員会」開催は延期。その上で赤松副学長は「委員らが、自治会が全学委員会に参加することやそれを副学長が独断で決定したことに反対している」として、当分の間全学委員会の開催を見送ることを通告してきました。結局赤松副学長の任期間近となっても全学委員会は開催されず、自治会は設置した副学長の責任を以て、「全学委員会」を白紙撤回することを要求しました。赤松副学長はこれに合意し、委員会は9月の部局長会議で廃止となりました。約半年もの間吉田寮自治会を振り回し、その間現寮補修の議論をペンディングさせた「全学委員会」問題は、こうして白紙に戻ったのです。

 

10.杉万副学長への引き継ぎ

201410月、松本総長・赤松副学長が退陣し、山極総長・杉万副学長に交替しました。吉田寮自治会は杉万副学長との間で6回に渡る確約引き継ぎ団体交渉を行い、212日、確約を締結しました。この団交の中では、西村確約時に後退した確約の問題箇所(「メモ書き」など)をほぼすべて回復するに至っています。またその過程で、新棟の寮費(月々400円の寄宿料と水光熱費の負担区分)に関しては合意に至るまで現行の方式を適用することを確認しています。

 今後は、未だ継続協議中の新棟の寮費や、現寮の補修方法を決めるための交渉を行う予定でした(上の確約では、20163月までの補修工事着工に向けて誠意をもって協議することを確認しています)。

 

11.通告文問題、募集停止問題、突然の杉万副学長辞任、川添新副学長の就任

20152月に杉万副学長と吉田寮自治会は確約を締結しましたが、その後39日団交を最後に団交が行われることはありませんでした。その主な原因として『通告文問題』があります。201539日に鍵の受け渡しが行われ、西寮(新棟)の運営が正式に始まりました。運営後すぐに食堂壁に描かれた絵や西寮の一部破損などが大学当局の目に触れ、吉田寮自治会に対し「原因の究明と今後の対策」の文章回答を求める『通告文』が出されました。吉田寮自治会側はこの通告文に対し、「文章の形ではなく、既存の団体交渉の中で説明していく」と返答しました。その後数回にわたり文章で上記の議論がなされましたが、議論は平行線をたどりました。また自治会側は「補修の議論は別問題であり、『通告文』の問題と並行して議論できる」と主張しましたが結局杉万副学長と交渉することはできませんでした。

20157月末以降に事態は急変します。まず2015728日に吉田寮自治会に杉万副学長名義で『1吉田寮の新規入寮者の募集については、平成27年度の秋季募集から行わないこと』『2吉田寮の退寮に伴う、欠員補充を目的とした募集を行わないこと』という文章が渡されました。またその翌日729日には同内容の文面が京都大学公式HP上の「お知らせ」に山極総長名義で掲載され、その後多くのネットメディア、新聞に掲載されてしまいました。

 このようなメディアの動きを利用した極めて悪質で一方的な決定に対し、吉田寮自治会側は猛抗議し、公開質問状や杉万副学長との団交、山極総長との団交を要求しました。その結果729日、30日に杉万副学長と交渉し、『吉田寮自治会と一切の合意なく決定したことは確約違反であった事を認める』『入寮募集停止の通告は決定ではなく提案に過ぎない』『今後は入寮募集停止提案の撤回を目指した団体交渉を行う』等の確約が結ばました。その結果、京大公式HP上でも一部説明の変更がなされましたが、提案自体の撤回及びHP上での訂正をさせることはできませんでした。

 

 その後の8月、9月には交渉はもたれず、さらに101日付で自身の体調を理由に辞任してしまいました。そして111日付で新学生担当理事・副学長として川添信介(かわぞえ・しんすけ 前文学部部長)が就任しました。杉万副学長の辞任が突然だったこともあり、後任の副学長への引き継ぎもできないまま新副学長が就任したことになります。

 さらに、20161月に開かれた予備折衝の場に川添副学長は出席せず、第三小委員会を通じて、当事者誰もが参加できる団体交渉にて話し合いを進めていくという従来継続されてきた体制をも破棄し、少人数の寮生代表者としか話し合わない、という姿勢を打ち出しました。寮自治会は話し合いに一方的な条件を付けるのは確約にも違反するとして抗議を重ねましたが、その後も川添副学長の姿勢は変わることなく、交渉の場に姿を見せていません。そのため、肝心の現棟補修に関する議論も進まないまま、2016年春期以降、春秋の入寮募集の度に入寮募集停止要請が繰り返される事態となっています。寮自治会としては、入寮募集停止は寮自治会がもつ入寮選考権の侵害であり、また、現棟老朽化の根本的解決にならないばかりか、福利厚生施設としての寮の機能を阻害するうえ、廃寮化につながるものであると考えています。したがって、十分な話し合いもないままに入寮募集停止を受け入れることはできないため、現在まで通常通りの入寮選考を実施しています。

 

最終改定2017325

 

 

 

 



[1] 国立大学法人の予算のうち、文科省に大まかな使途と金額を算出して請求する予算。学内予算に対して、国から下りる予算という意味で使われる。