池田徳太郎

池田徳太郎は、幕末、明治維新に活躍した偉人です。

維新の志士 池田徳太郎

池田徳太郎 いけだとくたろう(池田種徳・池田快堂)

『初め徳太郎と称し、種徳と改名し、快堂と号す。

忠海村医元琳の長子なり。

天保二年生まる。

幼にして神童の評あり、学を郡の宿儒清田塾に受け、

十一才豊前中津に赴き常藤頼母、亀井道載等の門に入り、

貧苦を忍び克く刻苦勉励倦(う)むことを知らず、十八歳帰郷す。

先師元吉翁既に逝き其老親尚宅に有り故に種徳は先師に代りて門下生を教授し、

夜に常に老親を按摩して慰め、真に子の生母に対するが如し、

居ること五年老親歿して江戸に遊び名門を叩き、到る処に経書を授く。』

ー維新の志士 青森県権令池田徳太郎先生ー

「忠海案内」忠海商工會昭和10年発刊

天保2年(1831年)生。忠海町医池田元琳の子。

天保7年(1836年)8歳。

天保12年(1841年)11歳。入野村 清田塾に入門。

弘化2年(1846年)15歳。豊後 広瀬塾、筑前 亀井塾で学ぶ。

嘉永2年(1849年)19歳。忠海に帰郷。清田塾で指導。須波 能満寺で修養。

嘉永6年(1853年)ペリー来航。

安政元年(1854年)24歳。江戸、昌平黌に入門。

安政4年(1858年)27歳。江戸麹町に塾を開く。清川八郎と交流。

『偶々(たまたま)志士清川八郎と志を同じくし、相提携して尊王攘夷を主張す。

又種徳は井伊直弼を斬りし、水戸浪士中にも相談者あり。

種徳は尚平清明、山岡鉄太郎等と八郎宅に会し九月の交を以て愈々(いよいよ)尊攘の挙に決せり。』

ー維新の志士 青森県権令池田徳太郎先生ー

「忠海案内」忠海商工會昭和10年発刊

安政7年(1860年)3月3日 桜田門外の変。

万延元年(1860年)

5月 勝海舟邸の密談(公武合体案、和宮降嫁)

勝海舟、池田徳太郎

清川八郎、雲井龍雄、近藤勇、土方歳三、

小野憲太郎、小野鐡太郎、關口良輔、高橋泥舟 他

文久元年(1861年)31歳。

清川八郎、山岡鉄太郎と「虎尾の会」を結成。

清川八郎が無礼討事件。これを口実に投獄。

『偶同年五月柳橋の萬八楼の書畫会の帰途八郎が一無頼漢を斬るや、

幕府之を機会に志士を補へんとす。

翌日捕吏(ほり)将に至らんとするや同士相議し、

暫時難をさけて物情を窺(うかが)ふに決し、種徳は同士中豪胆を以て聞え、

独り留まりて変に処せんとす。

捕吏(ほり)至り捕へられて獄裡の人となり、

文久二年山岡鉄太郎等の尽力により、

種徳出獄三年幕府主税介を以て浪人取扱役とし、

種徳を以て其周施の事に当てらしむ。』

ー維新の志士 青森県権令池田徳太郎先生ー

「忠海案内」忠海商工會昭和10年発刊

文久2年(1862年)和宮降嫁。坂下門外の変。

国事犯人赦免がなされ、徳太郎も放免。

浪士募集に清川八郎、山岡鉄太郎とともに尽力。

この浪士の組織がのちに新撰組となる。

同志と袂を分かち帰省。

『時に家茂将軍の召に応じ京師に朝せんとす。

種徳閣老の命に依り、武蔵、上野、信濃等に浪士を募り新調組と名づけ、

浪士取扱役鵜殿靤級鳩翁に従ひ京都に着し、学習院に至り書を上り、

尊王攘夷の赤心の陳ぜんとするに当り、種徳衆と合はず、

同志と袂を分ちて帰郷す。

新調組は種徳の脱後改組新選組となり、

かの人口に膾灸(かいしゃく)せらるゝ幕末剣聖の士、近藤勇を輩出し、

京師の勤王の士を戦慄(せんりつ)せしめたるが、

此近藤勇こそ種徳の募兵に応じて、其輩下となりし者の一人なり。』

ー維新の志士 青森県権令池田徳太郎先生ー

「忠海案内」忠海商工會昭和10年発刊

元治元年(1864年)34歳。芸藩の密使となる。

勘定奉行 服部権右衛門、徳太郎を小鷹狩介之丞に託す。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一 五人扶持 浪人 池田徳太郎

御勘定所支配

右年來學事厚心掛候付格別を以生涯被下之

一 浪人 池田徳太郎

右内密御用向相勤候事

御自分儀自今拙者支配被仰付候條可被得其意候以上

九月廿六日 熊谷平司

服部権右衛門

薬師寺小兵衛

村越孫六

池田徳太郎 殿

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

慶応元年(1885年)35歳。京摂海防兵組織計画を立案。

慶応2年(1886年)36歳。第二次長州征伐の停戦交渉。

慶応3年(1867年)37歳。

3月中旬 桃観の会。四者会談。(御手洗)

船越衛(藝州)大久保市造(薩州)

木戸純一郎(長州)坂本龍馬(土州)が会談。

3月某日 新谷道太郎、四者会談内容を池田徳太郎に伝う。

三藩(薩長藝)の説得依頼を諾。

池田徳太郎、薩長両藩主に密々に会う。

四藩聯合(れんごう)の誓約を固める。

10月14日 大政奉還。

11月 3日 薩長藝土の会盟(御手洗)

藝洲 池田徳太郎、加藤喜一、高橋大義、船越洋之助、星野文平

薩州 大久保一蔵、大山格之助、山田一之丞

長州 桂準一郎、大村益次郎、山県京介

土州 坂本龍馬、後藤象二郎

11月 7日 薩長藝土の会盟(池田徳太郎宅)

11月15日 寺田屋事件。坂本龍馬暗殺。

12月 9日 王政復古の大号礼。

12月15日 二条城の重大会議

中川宮、有栖川宮、伏見宮、山階宮、仁和寺宮、

摂政二條斎敬、三條實美、岩倉具視、西郷隆盛、木戸孝充、福岡壮治、池田徳太郎

『顔觸が揃ふと中川宮は池田の席を進めんとせられ、

他の人々も賛成したが池田先生は固辞された。

すると中川宮は

「然らばこの會議に於ては凡て上下を廢し、悉く平等と定めては如何」

と諮られ一同承服した。宮は又

「池田は朝臣でもなく、幕臣でもない、

不變不黨の人物であるから、萬事顧問としてはどうか」

と問はれ一同賛意を表した。』

ー「維新秘話」新谷道太郎 談ー

昭和11年発刊

藝藩の神機隊を指揮。

明治元年(1868年)鳥羽伏見の戦。

戊辰戦争終了後、知事として下総、常陸の管轄。

若森県権知事、新治県権令、島根県権令、岩手県参事、青森県権令を歴任。

明治7年(1874年)44歳。病没。

『慶応二年始めて浅野藩に仕へ、

明治元年王師東征の人材を諸藩に徴するや、

七月に徴士に挙げられ軍務官権判事を拝し、東北遊撃軍副参謀となり、

有栖川宮より直垂一領及烏帽子一頭を賜はり、

諸所に転戦東京に凱旋し金弐萬匹を賜はり、

県知事に任ぜられ、下総常陸両国の管轄を命ぜられ、

二年前年の軍功に依り金五百両を賜はり、永生禄を定め、中士に班し、

青森権令に任ぜられ、

赴任の年九月年四十四才東京に於て病歿す。

東京谷中天王寺に葬り、

十六年追吊(ついちゅう)の恩命に浴し祭粢料(さいしりょう)金三百五十円を賜はり、

大正八年贈正五位に除せられ、

其遺徳を永遠に記念する目的を以て在郷の有志相謀、

遺徳顕彰会を組織し、忠海町八幡神社境内を卜し、

目下彰徳碑建立中にて、昭和十年には完成の予定成り。』

ー維新の志士 青森県権令池田徳太郎先生ー

「忠海案内」忠海商工會昭和10年発刊

いとわしな 捨る命は 君が為め 世の為め人の 為と思へば

誠をば 神や知るらめ ぬれ絹は 人にはきせじ 身は重くとも

雨に思ひ 風に心を くだくかな 民安かれと 思ふばかりに

わたつみと 共に此の身は 沈むとも 濁しはせしな 萬民草

つぼみぬる 誠の道の 時を得て 花は都で 咲くぞうれしき

池田徳太郎

忠海開発八幡神社 境内に記念碑があります。

昭和11年5月31日に除幕式が行われました。

「池田は雪中の筍(たけのこ)であって、

其の學徳を隠さるれば隠さるゝ程顕(あらは)れて來る。

私も池田氏に頗(すこぶ)る私淑して止まない。」

山岡鉄舟

参考資料

「忠海案内」忠海商工會 昭和10年発刊

「維新志士 池田徳太郎」澤井常四郎 著 昭和9年発刊

「維新秘話」昭和11年発刊

山本呉服店 amazon店

山本呉服店 ヤフー店

山本呉服店 Yahoo!オークション店

山本呉服店 楽天オークション店

http://buyee.jp/item/search/yahoo/shopping?query=山本呉服店
http://buyee.jp/item/seller?id=yamamotogofukuten