私は10人兄弟の末っ子ですから、物心ついてからは将来は親の元を離れ自立しなければならない、それには学問以外にも、何か身に付げておかれはならないといつも思っていました。幸いにも早稲田大学に学び、政治経済学のみならず、当時はまだ珍しい自動車の全てを身に付けて卒業出来たことは全て親のお陰と感謝を忘れる事はありません。
子供の頃から機械が好きで、模型製作をしていたので、すんなり自動車部門に進んでしまったと思っています。
所が我々の卒業期は北満州ソ連との国境紛争、いわゆるノモンハン事件があった頃で卒業と同時に軍隊に入隊させられ、一歩兵として自動車に関係ない部隊に配属きせられました。これではあまり役には立てないといささかがっかりしておりましたが、戦況は我に利非ず、五日後に総攻撃をする旨の通達があった、総攻撃それは名ばかり、玉砕覚悟のとのことである、せっかく自動車の全てを習得して身に付けて居りながら、一兵卒のまま鉄砲一挺で戦うのかと、夜は蛸壺のような一人用の穴に身を隠し、キラキラ輝く星を見て、人生に別れを告げる、親兄弟よ、さようなら、人生よさようならと不覚の涙を拭っていた。しかし天は我を見捨てなかった、本部からの緊急電話で自動車免許所有者は申し出よとの事である。どうせ死ぬなら自動車と共にと早速手を挙げた。歩兵2000名中所有者はたったの2名、10両の車を二名で運転しろとの命令である。
当時私は新兵で陸軍歩兵一等兵でもう一人は古参兵だったが、幸いにも私は修理も出来ると云うことで、部隊長(陸軍大佐であった)の車の運転をすることになった。
戦場では多くの戦死者や捕虜になった者なども多く、総退却となり、私は部隊長を守って、いち早く戦線を離脱、死を免れた。自動車が、あのハヤ大ポンコツ哲学が私の命を救ってくれたのだ。何の因縁だろうか、感謝の一話に尽きるものがある。
<完>