全羅道・忠清道掃討

 
8月19日の全州占領後、日本軍は北進して忠清道に入ると、右軍の内、加藤・黒田・毛利の軍、40000余を更に北に向かわせ、忠清道掃討を受け持つとともに、明・朝鮮軍への備えとし、左軍は、右軍から鍋島・長宗我部・池田・中川の諸勢を加え、主目標であった全羅道を北から南へとローラー作戦方式で掃討してゆく。また、陸に上がって戦っていた水軍部隊は海に戻り、東から西へと全羅道南岸域の掃討を進めた。

忠清道に進んだ北進隊では9月7日、黒田軍の先鋒隊が稷山において明軍と接触し交戦状態に入ると、黒田長政本体が駆けつけ戦闘に加わる。明軍にも援軍が加わったが、この時の明軍部隊は少数にすぎず、毛利秀元軍が赴援に駆けつけると衆寡敵せず水原方面に退却した。稷山での戦闘後、北進隊は京畿道に入り安城・竹山へと進む。

一方、陸海からの全羅道掃討作戦の最終段階で起こったのが鳴梁海戦である。漆川梁海戦で壊滅的打撃を被っていた朝鮮水軍は、三道水軍統制使に李舜臣を復職させたが、僅か13隻の戦船を残すのみであり、劣勢は明らかであった。9月16日、李舜臣は鳴梁海峡で数的優勢な日本水軍を迎え撃ち、関船のみで編成された日本水軍の選抜部隊を痛打したが、陸海から大軍で迫る日本軍を前ににこれ以上踏み留まることは不可能であり鳴梁海峡から退却する。これにより日本水軍は全羅右水営、珍島を占領し、鳴梁海峡を抜けて全羅道西岸に進出し、海上の島々までも掃討した(『宣祖実録』10月13日)。また南下していた陸軍も海南に達し、ここに作戦目標であった全羅道全域の掃討を達成する。
 
目的を達成した各日本軍は計画通りにそれぞれ反転し、次の目標として定められていた築城を、蔚山から順天の間で開始する。朝鮮側では、この日本軍の反転理由を掴むことができず、日本軍の罠ではないかと疑うほどであった。

稷山の戦いについて

稷山の戦いについて、この戦いで日本軍が破れ、半島南岸まで退却したなどという言説が存在するが、これは全く歴史的事実に反する。

この戦いに関する日本側の史料が日本軍の勝利と記録されていることはいうまでもない。(12月8日付、黒田長政宛・四奉行連署状『黒田家譜』

一方の明・朝鮮側の記録で明軍の大勝利となっているのは、後に編纂された史料のみで、信頼性の高い一次史料によるならば、明軍の勝利とはなっていない。たとえば、『宣祖実録』においても、戦果を強調しているのは倭軍の先鋒(黒田軍内の先鋒隊)に対してのみで、「天安 大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵 等四將, 去夜發 稷山 前來, 唐兵亦多死者云。(宣祖実録9月9日)」とあるように、戦場に黒田軍本体、さらには毛利軍が駆けつけるに及び、明軍は数的劣勢に陥ったため退却し、また多くの死者を出したことも記録されている。このころの明・朝鮮軍の防衛体制は崩壊しており、稷山に進出した明軍も2千から4千程度の少数に過ぎず、有力な日本軍と正面対決して勝利できるような存在ではなかった。

因みに、この時日本軍主力は遠く離れた全羅道の掃討を実施しており、何ら損害を受ける状況にはなく、稷山の戦いの影響で撤退するなどあり得ない。

この戦いの後、北進した加藤・黒田・毛利等は「賊於初十日, 搶掠 安城 , 進犯 竹山 境。(宣祖実録9月14日)」とあるように、京畿道内の安城・竹山方面に前進した後反転し、全羅道の掃討を完了した日本軍主力も移陣し、全軍をもって半島南岸に築城を開始する。これは慶長の役発動前から予定されていた行動であり、8月の全州会議においてもこの方針が再確認され、ここでより具体的行動が定められ、定められた通りに行動した。

このころの明・朝鮮軍は、「賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。 安危、成敗, 決於江上, 而但令 崔遠 守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。(宣祖実録9月9日)」とあるように、主防衛線を漢江のラインに設定し、ここをなんとか死守しようとしていたが、極めて危機的状況にあった。しかし日本軍が自主的に反転したため命拾いしたのが実状である。

日本軍が反転した理由について、「今無故忽爲退遁。 萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術,(宣祖実録9月16日)」と、朝鮮側では理解できておらず、日本軍が仕掛けた罠ではないかと疑い、明軍がその術中に陥らないか心配している。

 

鳴梁海戦について

※鳴梁海戦は朝鮮水軍が日本水軍を撃退し、全羅道侵攻を頓挫させた戦いと言われることがあるが事実ではない。実際のところ戦闘後、前進したのは日本水軍であり、後退したのは朝鮮水軍である。そして全羅道西岸海上に進出した日本水軍は海上の島々に至るまで掃討している。このことは朝鮮王朝の記録である宣祖実録でも確認することができる。
(詳細は以下をを参照のこと)
tokugawaブログ: 鳴梁海戦日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』

 
Battle of Myeongnyang
 
※鳴梁海戦後、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍の補給を断ったといわれることがるが、そのようなことはない。戦争の終結まで朝鮮水軍が対馬と釜山を結ぶ日本軍の海上補給路を攻撃することは一度もなく、それどころか近づくことさえもなかった。(詳細はtokugawaブログ: 李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという虚構(慶長の役編)を参照のこと。)
 
 

稷山・鳴梁で日本軍が敗退したという主張と相容れない掃討作戦の状況

現在、韓国で語られる歴史では、多くの場合、進入した倭軍が稷山の戦いで明軍に敗れ、鳴梁海戦で朝鮮水軍敗れ制海権を失い補給を絶たれて敗走したなどと主張されている。

また一方で、慶長の役における全羅道・忠清道方面の掃討作戦で日本軍が戦功の証として敵の鼻を切り取って送致したこと、朝鮮人を捕虜として日本に移送したこと、物品の略奪について、しばしば悪事告発的に強調されている。

しかし、実のところ、これは稷山・鳴梁で日本軍が敗退したという主張と矛盾しており相容れないものだ。

これらの行為は、稷山の戦い(9月7日)や鳴梁海戦(9月16日)の後も止むことはなく、水陸共に継続して行われている。

<左軍の状況>吉川隊及び鍋島隊からの鼻受け取り状(【 天下統一期年譜 1597年 】
9月 7日 早川長政、吉川広家より358の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐718〕
9月 9日 早川長政、吉川広家より641の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐719〕
9月11日 早川長政、吉川広家より437の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐720〕
9月13日 早川長政、鍋島勝茂から敵軍の鼻1551を受け取る。〔「鍋島家文書」‐118〕
9月17日 早川長政、吉川広家より1245の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐721〕
9月21日 早川長政・垣見一直・熊谷直盛、吉川広家より珍原郡において870の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐138〕
9月26日 早川長政・熊谷直盛・垣見一直、吉川広家より朝鮮の珍原郡・霊光郡において討ち取った、10040の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐722〕
10月 1日 垣見一直、金溝郡・金堤郡で討ち取った敵軍の鼻3369を受け取る。〔「鍋島家文書」‐121〕
10月 9日 熊谷直盛、吉川広家より3487の鼻を受け取る。〔「吉川家文書」①‐139〕
<水軍の状況>9月23日に姜沆、9月27日に鄭希得が全羅道西岸の霊光沖付近で日本水軍の捕虜となる(姜沆『看羊録』・鄭希得『月峯海上録』全羅道西岸の3朝鮮人の動向@1597年9月-10月)。『宣祖実録』でも霊光以南の諸島で日本水軍が掃討を行っていたことが記されている(『宣祖実録』に見る鳴梁海戦後、日本水軍が全羅道西岸に進出していた証拠)。
 
<右軍の状況>太田一吉に属した僧侶慶念が記した『朝鮮日々記』11月19日では、「人あきない」をする商人が朝鮮の男女老若を買い取って縄で括り軍勢の後に従っていたという。太田一吉の家臣大河内秀元の『朝鮮記』では、各種略奪品を牛2匹に載せて、蔚山まで恙なく運んだという。
 
こうした行為が敗走する軍隊で起こり得ることだろうか?
 
稷山の戦いや鳴梁海戦で敗れて敗走しているはずの倭軍が、悠長に朝鮮人の鼻削ぎを行い、身柄を捕縛して捕虜として連れ去り、さらには李舜臣率いる朝鮮水軍が制海権を握っているはずの海を渡って、日本に大量移送するなどワープ装置を開発していない限り起こり得るはずもない。

そもそも、稷山の戦いや鳴梁海戦で敗れた倭軍は敗走したなどということが全く事実に反することは既述の通り日本側・朝鮮側双方の戦闘や戦闘後の経緯を記した一次史料から明らかだ。稷山の戦いや鳴梁海戦で後退したのは、それぞれ明軍と朝鮮水軍であり、日本軍は陸でも海でも前進を続け掃討作戦を実施している。


 
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