戦争の終結

慶長3年10月初旬、順天・泗川・蔚山の三倭城全てにおいて明・朝鮮軍を退けていた日本軍であるが、既に8月18日には豊臣秀吉が没していた。これにより征明の意義は失われるとともに、中核を失って不安定化した豊臣政権は対外戦争を続けているような状況ではなかった。このため秀吉亡きあとの豊臣政権では出征軍を帰国させる方針が決定され、使者として徳永寿昌、宮木豊盛が派遣され、三倭城の防衛に成功した後の10月内に現地に到着している。

これを受け、朝鮮在陣中の諸将は帰国の準備を始め、東部方面の諸将はそれぞれの持ち城から順調に釜山へ撤収した。しかし、西部方面では事情が異なっていた。日本軍の帰国方針は古今島に退却していた明・朝鮮水軍も知るところとなっており、11月7日に古今島を発した明・朝鮮水軍は、11月10日には順天沖の光陽湾に再進出して海上封鎖を行い小西行長らの帰国を妨害した。

これを知った島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢正成は順天城の友軍を救出するため水軍となって順天に向かい、11月18日夜、その途上で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と露梁海峡で交戦する。この露梁海戦は激戦となり、双方に大きな損害を出すことになった。特に明・朝鮮水軍では朝鮮水軍の最高司令官李舜臣や、明水軍の副司令官の鄧子龍を始めとして多くの幹部が戦死している。順天城の日本軍は順天を海上封鎖していた明・朝鮮水軍が露梁海峡に出払った隙をみて出帆し、南海島の南を回って脱出に成功、日本側は順天の友軍を救出するという作戦目標を達成した。

続いて釜山から日本に向けて出帆が始まり、11月23日、加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が、25日には小西行長、島津義弘等が最後に釜山を発し、これを以て全軍が帰国を果たした。
 
 11月18日 露梁海戦 - 島津義弘宗義智立花宗茂高橋統増寺沢正成 対 陳璘李舜臣鄧子龍
 
 
この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。『明史・朝鮮伝』)」と総評する。文禄・慶長の役は豊臣秀吉死去による途中終了という形で終結したのである。
 
戦争が終結したときの李氏朝鮮は、戦争直前には田地総面積170万8千余結であったのが、戦後には30余万結と五分の一以下に激減し、戦前の全羅道一道にも及ばない(愛宕松男・寺田隆信 『中国の歴史6』 講談社)という著しく国力が減退した状況だった。これは即ち戦争継続能力が破滅的状況に陥っていたことを意味する。
 
また満州方面で建州女真のヌルハチが勢力を増し、暴れだしているという状況がある。慶長3年(1598年)の12月には、ヌルハチが開元・瀋陽・遼東・鴨緑以西を搶掠しようとしたため、経略邢玠は遊撃李芳春・牛伯英らの軍勢を朝鮮から引き上げて防備させなければならない事態になっている(宣祖実録・12月13日12月14日)。もはや日本との戦争に全力を注げない状況であった。
 
こうした状況での豊臣秀吉死去による日本軍の帰国と戦争の終結は、朝鮮や明にとって幸運極まりないものといえる。
 

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