慶長の役戦略

講和交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられ、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始される。

  赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。

  右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。

  自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も、大軍ニて罷出、於陣取者、各令談合、無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果大明国迄可被仰付事、案之内候之條、於由断者、可爲越度事。

慶長二年二月二十一日 朱印

    羽柴柳川侍従とのへ                               (立花文書)

出征諸将に発せられた2月21日付朱印状(立花文書他)によると、ここでも最終的な目標としているのは「大明国迄可被仰付事」とあるように、文禄の役と同様に明の征服である。秀吉が明征服の固い意志を持っていたことは宣祖実録8月7日の、日本武将豊茂守が発した朝鮮王朝への警告に「大明四百州, 亦欲呑倂, 何況於朝鮮八道乎? 此乃關白約誓諸將之言也。」とあることからも確認出来る。ただし、その前に「自然大明国者共、(中略)、即時被討果」と、明の野戦軍主力を朝鮮南部において撃滅してから、明本国に進撃する計画が書かれている。
 
最終的な目標とは別に、当座の作戦目標は、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもで、これを達成した後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(九州の大名)を定めて、「帰朝之衆」と呼ばれる他の諸将(四国・中国の大名及び一門衆の小早川秀秋)は帰国するという計画であった。

 

倭城の築城は(宣祖実録614)に記された日本武将豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先擊慶、全羅等道後, 還駐沿海」や、文禄2年卯月17日付、加藤清正宛朱印状)に示された「赤国(全羅道)白国(慶尚道)令成敗、海手ニ付て取続、御仕置之城々相拵、御人数・兵糧・鉄砲・玉薬、丈夫ニ入置、年中ニ二度計宛、梁東川(鴨緑江)切ニ押詰、働き被仰付候者、高麗人令退屈、御手ニ随候ハてハ不叶候という沿海地への築城方針と、この方針に沿って実施された晋州城戦役から、その後の沿海地へ倭城群築城に至った経緯の先例から沿海地に戻って行うことが予定されていたのは間違いない。 

当座の作戦目標となった全羅道は文禄の役で未征服に終わった地であり、朝鮮の水軍の他、義兵、官軍の出撃根拠地となった地であった。忠清道も釜山・漢城間の要路周辺以外は未征服地が多く、同様の役割を果たしていた。明本国へ進もうと思うならば、進行経路を側背から脅かすこれらの地を成敗し、反撃の芽を断っておく必要が生じる。全羅道成敗は既に文禄2年の晋州城戦役の際に懸案事項として上がっており、日本軍としては何としても成敗しなければならない場所といえる。

慶長に役の目的を南部四道の占領にあるとする説もあるが、そうした説を裏付ける文献を見つけることは出来ない。むしろ慶長2年から3年にかけて発せられた書状を見る限り、文禄の役のように土地の占領に拘るのではなく、2.3年に一度大軍を派遣し、進攻しては引き上げるといったヒット・アンド・アウェイ戦略を長期にわたり繰り返すことで、敵に戦略的打撃を与えて屈服させるのが目的であったのではないか。
 
進攻して行われるのは、敵の将兵や軍事施設といった直接的軍事能力を打破することに加えて、田畑の刈り取り(刈り田働き)や、諸施設の破壊・焼き払い(焼き働き)、人的資源(一般労働力及び特別技能者)や物品の奪取といったものである。朝鮮の南部は朝鮮王朝の土台を支える豊かな土地で、ここを繰り返し荒らされたならば、朝鮮王朝は確実に疲弊し、やがては耐えることが出来なくなり、屈服するか、破滅するかの二者択一を迫られることになるだろう。
つまり慶長の役の朝鮮に対する戦略方針は、進攻先の朝鮮領土を広域的に占領支配するものではなく、朝鮮王朝の軍事力や政治体制を根本から支えている産業基盤や社会基盤を破壊して沿岸部に引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略を反復するにより、朝鮮の抗戦能力と抗戦意志を喪失させるというものである。慶長2年(1597年)の進攻作戦はその第一弾となる進攻である。
 
文禄2年(1593年)の戦役(第二次晋州城の戦い)は、釜山周辺域から出撃し、晋州城を落として破壊すると、続いて慶尚道西南部から全羅道東南部を掃討して撤収している。この経緯を見ると、限定的ながらも既にそういったヒット・アンド・アウェイ戦略の性質がある。この戦役はプレ慶長の役的なものと言えるかもしれない。

朝鮮に対する意義とは別に、日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略の明に対する意義は、「自然大明国者共、朝鮮都より、五日路も六日路も、大軍ニて罷出、於陣取者、各令談合、無用捨可令註進、御馬廻迄にて、一騎かけニ被成御渡海、即時被討果、大明国迄可被仰付事」とあるように、その野戦軍の朝鮮南部出撃を誘い殲滅することで抗戦能力を奪い、その後、進撃して征服するか、もしくは屈服させようという戦略であったと考えられる。

日本軍にとり朝鮮南部とは、兵站線の延伸を来さないため補給は容易であり、また兵力の集中運用も可能で、良好な状態で明との決戦に望む事ができる戦域といえる。冊封国である朝鮮に対し日本軍が進攻を繰り返したならば、宗主国たる明としては放置出来ず、日本軍を朝鮮から駆逐するため、本格的に派兵して戦いを望まざるを得ない。つまり、慶長の役における日本軍のヒット・アンド・アウェイ戦略は、明の大軍誘引のための戦略的挑発としての側面を持つのである。

慶長の役では日本軍の戦略の一つ一つが文禄の役の反省に立脚するものとなっている。

  • まず、慶長の役では朝鮮水軍を最初に殲滅し、その後に地上軍の進撃を開始した。これは文禄の役で朝鮮水軍に苦汁をなめさせられた反省に立脚する。
  • 次に、進攻方向は漢城を目指すのではなく、水陸から全羅道を目指した。これは文禄の役では漢城を目指して真っ直ぐに北上したために、全羅道が未入地として残り朝鮮側が水陸から反撃する策源地となった反省に立脚する。全羅道への進攻は朝鮮水軍の根拠地の破壊をも意味する。
  • もう一つ、慶長の役では土地の占領に拘るのではなく進攻して敵に打撃を与えては引き上げるヒット・アンド・アウェイ戦略をとる。文禄の役では土地の占領に拘ったため、兵站線が伸びて補給に苦しみ、また広い占領地に兵力が分散してしまい力を発揮できなくなった。こうした反省に立脚するものである。
  • 進撃開始時期が文禄の役の春とは違い秋の収穫期を前にした時期というのは、その年の収穫を敵に収穫させず、自軍が入手するという目的も考えられる。実際に、日本軍の撤収後、当方面に再展開した李舜臣は極度の兵糧不足にに苦しみ、通航する船や海上に避難した住民から食料を徴収して窮状をしのがざるを得なかった。
 

慶長の役の目的は“「唐入り」ではなく朝鮮南四道の領有”という虚構

慶長の役の目的は「“唐入り”ではなく朝鮮南四道の領有化」という説が存在するが、全くの過ちであり、慶長の役の真実を知る上で大きな阻害要因となっている。

この説は講和交渉時に豊臣秀吉が要求した七条件の一つに朝鮮南四道の割譲が含まれていたことを無理やり慶長の役の目的にこじつけただけで、史料を無視した憶測説にすぎない。

講和交渉の決裂後は朝鮮南四道の領有化案は消え去った。『慶長二年二月二十一日付朱印状』を始め、慶長の役における指令に朝鮮南四道の領有化などは全く指示されていないし、朝鮮へ派遣された諸将も朝鮮南四道領有化のための行動など全くとっていない。

実際の慶長の役における指令では、最終的な目的が明の征服であることが明記されている。このための下準備として、明軍主力の朝鮮南部への誘引して戦力を削ぎ取ることと、朝鮮王朝の国力を衰退させ戦争遂行能力と抗戦意志を弱体化するためのヒット・アンド・アウェイを反復する戦略が採用された。さしあたって慶長二年進攻作戦の目標として全羅道や忠清道などの“成敗”と出撃拠点となる城郭(倭城)群の構築が指示され、進攻開始後、諸将は指示どおりの行動し、全羅道・忠清道“成敗”任務と城郭群構築任務を達成しているのである。

 
 

ヒット・アンド・アウェイ戦略は既に文禄2年初期には発想されていた

文禄2年卯月17日付、加藤清正宛朱印状)に「赤国(全羅道)白国(慶尚道)令成敗、海手ニ付て取続、御仕置之城々相拵、御人数・兵糧・鉄砲・玉薬、丈夫ニ入置、年中ニ二度計宛、梁東川(鴨緑江)切ニ押詰、働き被仰付候者、高麗人令退屈、御手ニ随候ハてハ不叶候」と、沿岸部に城(倭城)を築いて、奥地に侵攻を繰り返すことで、朝鮮人を屈服させるというヒット・アンド・アウェイ戦略がこの時期既に発想されていたことがわかる。
 
この指令が発せられて、まもなくヒット・アンド・アウェイ戦略は実施に移された。それが晋州城攻略戦と、攻略後に行われた慶尚道南西部から全羅道の一部に至る周辺域の掃討である。そして任務完了後、沿岸部に移り築城を行っている。講和交渉の始まりにより、期間的、地域的に小規模で限定的なものになったが、講和交渉期を挟んで実施された慶長2年の戦役では全羅道・忠清道に対し大規模な掃討を行った。
 
もっとも、さすがに“年中に二度ばかり”というのは頻度が高すぎるためか慶長の役では2・3年に一度の侵攻予定が公表されている慶長3年3月13日付朱印状『立花文書』
 

朝鮮側記録からも確認できるヒット・アンド・アウェイ戦略

宣祖実録6月14日
  • 豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先擊慶尙、全羅等道後, 還駐沿海, 欲奪濟州。
  • 豊臣秀吉の諸将への命令「汝等爲先鋒, 躪踏慶尙、全羅、濟州等地後, 退兵宜寧、慶州等處屯據, 召募朝鮮散卒遺民, 合我軍, 大作農事, 積峙兵糧, 明年又明年, 漸次奪據, 則朝鮮地方將爲日本之地。
済州島への言及がある点など日本側の記録と細部において相違があるものの、奥地に侵攻しては沿海地に引き上げ、それを反復するヒット・アンド・アウェイが日本側の戦略であることが宣祖実録からも確認できる。
 

講和交渉<<      >> 全羅道への進撃