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“真相”文禄・慶長の役

豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役は16世紀における世界史上の大戦争であるにも関わらず無視に近い扱いを受けることが多い。それでも、ときどきは書籍やテレビ等のメディアで取り上げられている。だが、その内容は大きく偏っており、とても歴史の真実を伝えているとは言い難い。日本に内在する反戦主義的な立場や、隣国との友好を唱える立場から、この戦争について否定的イメージを植え付けることが目的化してしまい、それは韓国側の民族主義的な歴史観に呼応しながら歴史的事実を大きく捻じ曲げ続けている。その大まかな筋書きは、豊臣秀吉が無謀な戦争を開始するが、朝鮮の抵抗や明の援軍によって敗退したという内容であるが、このような筋書きは歴史の真実に反するものだ。よく使われる手法は、日本側の勝利の隠蔽や、日本側に少しでも苦境シーンがあれば徹底的に強調するといったものが多くみられる。文禄の役についても著しい偏りが見られるが、特に慶長の役については根本的に歪曲されていると言わざるを得ない。このような状況により、一般の人々が文禄・慶長の役について真実を伝える良質な情報に接することが困難となっている。そこで、文禄・慶長の役の歴史的真相を伝える必要からこのホームページを開設した。
 
ブログ(tokugawaブログ)も開設しており、ブログは日々思いついた事を書き綴る場とし、当ホームページは纏め用として使い分けすることにしている。
 
文禄の役・・・文禄の役の記述は現在未完成であり、不十分な内容となっているが、暫定的に公開中。
慶長の役・・・慶長の役は管理人が特に重点を置いて記述しているので是非とも一読していただきたい。
 

2分で読める
<簡易版>文禄・慶長の役(詳細と論拠はリンク先の各ページを)


文禄の役

 明の征服を目指し、文禄元年4月、朝鮮への出兵が開始される。日本軍は緒戦から快進撃を続け朝鮮領土の大部分を占領するに至る。

 こうした日本軍の占領地拡大は兵力の分散により戦闘力の低下を招くとともに、補給線の延伸から補給不全を生じていた。また全羅道方面は未入地として残っており、朝鮮側が水陸から反抗する主要地域となった。各地では義兵を名乗る武装勢力が跋扈したため、その対応に追われ、前方では明軍の南下に備えなければならない状況が生じた。このような中、年を越した文禄2年1月、漢城目指して進撃中の明軍を撃破して南下を阻止する。

 4月、いよいよ補給不足が深刻化し、講和交渉開始の目途が立つと、補給可能な釜山周辺まで兵を引いて補給問題を解消するとともに、兵力の集中を図った。続いて6月に全羅道への関門となる晋州城を兵力の集中投入によって攻略した後、釜山周辺の沿岸部に倭城群を構築して本格的に講和交渉に入った。


慶長の役

 講和交渉には3年以上が費やされたが結局決裂し再征が決せられた。今回も最終的な目標は明の征服に置きながらも、占領地拡大を図った文禄の役で戦力分散や補給線の延伸によって生じた問題点を戦訓とし、進攻地の領域支配を目指すのではなく、進攻して打撃を与えては留まることなく撤収し、これを反復して敵を疲弊させ、然る後に明本国まで進撃するという長期戦略が採用されることになった。

 慶長2年7月から本格的に戦闘が開始され、明・朝鮮軍を破って文禄の役の未入地であった全羅道と忠清道に進攻して討伐作戦を実施、これを成功裏に終結させると予定通り10月中には沿岸部に撤収して新たな倭城群の構築を開始した。

 12月下旬、築城中の蔚山城に対して明・朝鮮軍による反攻が行われる。年が明けた慶長3年1月初めまで続いたこの戦闘は日本軍の大勝利となった。続いて倭城群の防禦体制が整うと、守備担当の大名が配置につき、それ以外の大名は予定通り帰国して翌年以降の再派遣に備えた。

 9月から10月初め、倭城群に対して明・朝鮮軍による大規模な攻勢が行われたが全方面で撃退する。しかし、豊臣秀吉が死去したため11月に全軍帰国して戦争は終結する。
 
 

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Masayuki Tokugawa,
2012/05/23 8:30