マッカーサーの恨み


マッカーサーは彼自身が持つ航空兵力により、日本軍はフィリピンを制圧する事が出来ないと思っていました。
ところがいざ戦闘が始まると、日本軍はあっという間にフィリピンマニラを占領、「これは危ない」と思ったマッカーサーは味方のアメリカ兵10000名以上を置き去りにし、自分はとっととオーストラリアへと逃げてしまいました。
置き去りにされたアメリカ兵は孤立し飢えと病気に苛まれてしまい、ついに日本軍へ投降します。
その後日本軍は自分達より何倍もの人数のアメリカ兵捕虜とフィリピン人捕虜を、約120km離れたバターン半島の施設まで連れて行くのですが、日本軍にはトラックや自動車は無く、やむを得ず徒歩で連れて行く事となります。
その道中に体力の限界が来たフィリピン人やアメリカ兵は次々と死に絶えていきました。
これがバターン死の行軍と言われるものです。

歩く米兵捕虜と警備する日本兵

日本軍は捕虜を助ける為に施設へ連れて行こうとしたのですが、結果飢えとマラリアなどによりその多数を死なせてしまいます。
マッカーサー自身は部下を見殺しにしていながら、命を助けようとして仕方なく徒歩での移動により、飢えや病気で次々と死んだアメリカ人捕虜の仇のように、彼は日本軍を逆恨みし戦後裁判により仕返ししようとしたのです。(日本軍は捕虜に水筒を持たせています。まさに「助ける」目的での移動であったと言えます)
「バターン死の行軍」では、反乱を起こした捕虜を日本兵が虐待したりする事があったとして、実際に戦後裁判では日本人が処刑されています。
また、捕虜輸送手段と食糧補給手段を持たずに行軍させたとして、東京裁判では日本側が有罪となっています。