若松の佐藤倶楽部


序文

「佐藤倶楽部」、この名前を聞いてそれが何であったのかを知る若松の人は少なくなった。倶楽部と言っても特別に何かの団体や組織でもなく存在や実態も不明である。しかし、戦前から高度成長期の時代に若松に住んでいる住民であれば誰もが聞いたことがあり、知っていたようである。また、その名を呼ぶ時には何か親近感を感じるようであったという。

その名で使われていた木造2階建ての建物は実在していた。その建物は高塔山の麓にある佐藤公園の隣の分譲マンションの敷地に建っていた。

建物は集会場や結婚式場など、若松の住民であれば誰でも低料金で利用することができた。マンションの前は、若松西鉄ホテルの建物があり、旧西日本鉄道株式会社が所有していた所である。

もとの所有は旧若松市であったが、高塔山展望センター(1958年完成)を建設して譲渡することを交換に所有が移転された。

建物は取り壊され、1965年(昭和40)にホテルに生まれ変わったのだ。正確には佐藤公園内の建物のあった土地の一部が切り離されてのことである。市は、市の予算を使うことなく高塔山公園に展望センターを所有することができた。

「佐藤倶楽部」はいったい何であったのか。それには、名の由来の鍵を握る人物、佐藤の「志」が大きく関係していた。

同じ時代に生きた若松の人たちや、関係のあった人たちの心に佐藤の「志」が大きく響いたため、自然に呼ばれるようになったのではないだろうか。

少なくとも、佐藤の胸像の制作者で、彫塑家朝倉文(1883‐1964)は、それを深く感じながら胸像の石膏を制作していたのであった。









1.生い立ち
佐藤慶太郎は1868年(明治元)、父孔作と母なをの長男として、筑前国遠賀郡陣原村(現八幡西区)に生まれた。生家は折尾本城にあった庄屋の家系ではあったが、両親の商売が順調ではなかったため貧しい家庭で育った。幼少より向学心が強く、父孔作は学費のかからない福岡師範学校に入学を勧めたが、親に黙って英語専修修猷館(現修猷館高等学校)を受験、合格したものの父孔作は学費のかかる修猷館の入学には猛反対した。慶太郎は、親戚に学資の援助を申し入れ、どうにか1886年(明治19)入学する事ができた。

入学当時はアルファベットも知らず、英米の教科書を使った授業であったため成績は下位にあったが、必死で勉学に励んだことで2年目には上位の成績を修めることができた。文部大臣森有礼が学校視察した際には、学校を代表して数学の問題を英語で解いて見せた。森は、留学経験もあり英米文化にも精通していたため、慶太郎が話す英語はいささか不安を感じていた。その年の夏、東京から帰省中の従兄弟から、東京の勉学の様子を聞く機会があり、それに衝撃を感じた。地方で勉学しているだけでは必ず遅れを取る。

その年の秋、再び親戚から援助を受けて修猷館を中退し、中央で法律家を目指すため明治法律専門学校(現明治大学)に進んだ。もともと慶太郎は、幼少の頃から病弱体質にあったことが災いした。昼夜問わず、運動もせずに勉学だけに努めたていたことで脚気を患った。なんとか学校は卒業できたものの、失意のうちに帰郷せざるを得なかったのである。


2.挫折と転機
帰郷後は体力的な自信もなく、仕事の無い日々を過ごしていた。しかし、 1892年(明治25)転機が訪れることになった。若松一の石炭商、山本周太郎が営む山本商店で番頭を募集する話しが持ち込まれたのである。目指していた法律家に未練は残るものの、2年も定職につかないまま過ごしていたことで、その仕事の誘いを受けざる他に24才の慶太郎に選択の余地はなかった。法律家をあきらめ、若松の海岸通り沿いの山本商店に入店することになった。周太郎が探していたのは、23才になった義妹俊子の婿養子の相手であり、そこに慶太郎がやって来たのだ。周太郎は、慶太郎に養子縁組を申し入れ、めでたく俊子と結婚する運びになったのである。

慶太郎は、1才違いの俊子に、

 一、身に楽をたくまないこと
 二、居宅に望みを云わないこと
 三、報酬を目当てに働かないこと

この三つを守ってくれるなら、私はこの信念に従って、商売に励む。お前さえ俺を信じてくれるなら、俺は必ず大成して見せるよ」と約束した。義兄で店主の周太郎には、「給料は生活費のみでいい。仕事を通じて、経験もできる。知己も増える。信用という無形の財産を得て独立したい」と告げた。


慣れない石炭の商いであり、法律を少しかじった半人前の慶太郎であったが、俊子は幼少の頃より店を手伝っていたため、伝票の書き方、帳簿付、ソロバン、取引先との交渉など商いに精通していた。妻が師として側にいることは心強い。持ち前の勤勉さも乗じて人一倍早く仕事を覚えることができた。
慶太郎の商いに対する信念は、「正直を以って一貫する」であった。商売を続けていくうちに、石炭の品質、採炭技術、物流、経営学に至るまで、幅広い知識を得ることになり、仕舞には採掘現場の炭鉱内に入ってまで石炭を調査し、研究するに及んだ。後に「石炭の神様」と呼ばれる所以である。

3.信用
商売の手法も新たに考案した。五平太舟に積まれた石炭は、目分量により取引されるのが一般にあったが、その取引に大きな疑念を感じていた慶太郎は、周囲の反発をよそに、計量による取引を推奨し続けたのである。結果、正当のある取引だと認められるようになり、信用できる人物として佐藤の名は広く知られるようになった。また、大型船への石炭の積込みは若松から小型船で門司港岸壁に積み下ろし、再び、停泊する大型汽船に積み替えていたが、風と海流(潮の流れ)を研究することにより、小型船から大型船に直接に積み込む「海上直積み」にすることで作業効率を上げたり、石炭の種類によって、火力の特性や持続性が違うことに着目し、燃料となる石炭の種類に応じた利用先を見つけて提供するなど、経営の努力を重ねていった。

その頃、東京から若松に戻った周太郎の長男で、義理の甥にあたる山本魯一郎から土産で、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの伝記『立志の師表 成功の模範 カー子(ね)ギー』を貰って読んだ。カーネギーが、木綿会社の糸巻き小僧であった時代、得た収入の十分の一を慈善事業に寄付していることを知ったのである。慶太郎はカーネギーの生き方に深い感銘を受けることになり、生涯を決定づける本との出会いになったのである。


4.独立
甥の魯一郎が山本商店を継ぐことになったことを機に1900年(明治33)、慶太郎 32才の時に山本商店隣の三坪程の借家を店に構え、独立することになった。店の名も佐藤の姓に戻して「佐藤商店」にした。義兄の周太郎はお祝いに100株の明治鉱業株を贈った。慶太郎は、その株の6割を売却し、奨学金に使うことを決意したのだ。当時の金額で3,600円相当である。慶太郎の奉仕人生のスタートであった。

20世紀を迎えた頃の若松は、洞海湾をところ狭しと石炭積み出し船が往来し、その様子は「出船千艘入船千艘」とうたわれ、活気のある賑やかな港として、大きく期待されていた時代であった。独立して石炭(山)に詳しく、信用のできる佐藤商店の石炭取引は順調であった。困ったことに、生まれながら胃弱体質であり、静養が必要なことと病院には定期的に通う必要があった。1907年
(明治40)春のこと公立若松病院に新任の外科医長に野口雄三郎(1881-1842)25才が赴任してきた。歓迎会が料亭緑屋で開かれ、慶太郎も出席した。慶太郎は雄三郎の威風堂々とした態度と、竹を割ったような性格に共感した。この日の二人の出会いにより、慶太郎の主治医として、友人として、交流は生涯続くことになった。

1908 年(明治41)若松に商店を持っていた筑豊石炭御三家の一つ、貝島家から緑炭鉱の採掘を引き受けることになった。炭鉱を所有しようと考えてはおらず、成り行きでのことであった。これを契機に高江炭鉱(緑炭鉱と大辻第四炭鉱)を所有することになった。慶太郎40才にして、石炭商から、炭鉱経営者へと実業家の道を着実に歩んでいた。

1910年(明治43)慶太郎は
雄三郎に留学費用の全てを援助するので、医療の先進国であるドイツに留学するよう奨めた。憧れであった留学であり、公立若松病院の許可も得られた。その年に雄三郎は渡独し、ベルリン大学で2年間学んだ後、1914年(大正3)再び院長として若松公立病院に戻ってきた。慶太郎は病院での研究費にと5千円を寄付し、公立若松病院に研究室が設けられた。

5.天から地へ
事業の方は、慶太郎の比類のない先見の明と果敢な決断力、石橋を叩いても渡るという実行力も備えていため、第一次世界大戦の石炭需要の増加も手伝って、ますます順調であった。石炭の販路を開拓するため上海に出店したり、いくつもの有数な炭鉱を所有するなど、全国に「石炭の神様」、「若松の佐藤なら」とうたわれるまでの人物に成長していた。また、1918年(大正7)6月には政治家として若松市議会議長(在任4年)に就任することになった。

しかし、幾つもの要職を兼任し、業界の第一線での活動を続けた結果、胃腸病が深刻な状態になっていた。主治医の野口雄三郎から「一切の事業から手をひいて静養しなければ生命の保証はできない。」と宣告されたのである。その年から3年連続して流感から肺炎になりかけた事も決定的であった。自分が育ててきた事業の全てから退くことを余儀なくされてしまったのである。

慶太郎と妻俊子には子供がいなかった。養子に与助を向かえてはいたが、慶太郎の商売にはまったく関心がなく、師となり学問を通じて天下国家への奉仕をすることを「志」とし、それを実現するために海外留学中にあった。慶太郎は晩年に「学者でも政治家でもない私に出来る事は、真面目に働いて得た浄財を世のため人のために捧げるという金銭奉仕が、私の描く最高理想でありました。」と
この頃の心情を語っていた。今までの全ての事業を整理して、次の人生の道に歩む決断をしたのであった。1920年(大正9)慶太郎52才の年である。

6.新たなる挑戦
その頃の石炭取引は、第一次世界大戦の終結で日本の景気は長らく冷え込み、需要が低迷していた。その影響により炭価が急落し、石炭荷役(ごんぞう)は失業という不安を感じていた。このことを危機的に感じた慶太郎は、石炭の流通価格を安定させるためには、送炭を調節して供給する方式を広く普及させて、これを石炭業界の制度にしようと考えたのである。それには、石炭業界をまとめる連合会組織を創設して、それをコントロールする必要がある。慶太郎は連合会創設に意欲を燃やし、その意義を三井、三菱、古河などの財閥をはじめとし、有力者たちに設立構想を熱心に説いてまわったのであった。

創設に奔走中の1921年(大正10)3月14日、上京していた折のことである。木挽町水明館で「時事新報」の社説を目にした。東京府美術館の建設計画が資金難から頓挫しそうにあることが書かれていた。慶太郎は、*近代国家の日本に美術館が存在しないのは、日本の文化や優れた芸術作品のあることを世界に対して、誇ることができないことを知っていた。ためらう間もなく、以前に面識があった東京府知事阿部浩に*美術館の建設費用、百万円の寄付を申し入れた。全額を現金で納めるには手持ちの金が少し不足していたため、借金することで同年11月に全納したのである。

連合会組織の設立も周りからは、絶対に不可能だと言われていたが、慶太郎の意見に共鳴した業界の有力者達がついに動き、1921年(大正10)10月11 日、石炭鉱業者で貴族議員の麻生太吉(1857-1933)が初代会長に就任し「石炭鉱業連合会」の名で設立が決まった。

1922年(大正11)三菱鉱業の監査役に就任したのを契機に慶太郎は、佐藤商店は人に任せ、20を超える要職を捨て、この仕事のみを継続することにした。自分の体の弱さに落胆せざるを得なかった慶太郎は、医療の発展の望みに託すべく、友人の野口雄三郎に、医療の研究に専念できるよう、野口病院の建設費25万円の資金援助を申し出たのである。慶太郎は、雄三郎の長男が、体の弱い体質にあったため、気候が良く温泉のある別府の地で開院することを勧め、同年7月、別府に野口病院は開院された。


7.地域への奉仕
慶太郎は地元若松に対しての奉仕も忘れてはいなかった。1924年(大正13)に慶太郎は、10万円を投じて財団法人若松救療会を設立した。日雇いの石炭荷役(ごんぞう)や海上生活者などの貧しい人達は、医療費の支払いが困難であり、そのような患者を救済することを目的に設立されたのである。また、若松は、半島状の地形のために水の確保が困難で、慢性的な水不足に陥っていた上に、急激な人口の増加と洞海湾に出入りする船の増加などで更に深刻な状況が続いていた。そのため衛生状態が悪く、伝染病に悩まされたり、防火用の水の確保もままならない地域であった。市議会議長を務めていた慶太郎は10万円を上下水道の整備のために市に寄付していた。市はこれを解消するため、1920年(大正9)から21年(大正10)にかけて菖蒲谷に貯水池を建設していたが、予算超過に陥り、工事は中断されていた。1925年(大正14)市はこの寄付金をこの工事に流用することを決めて工事は再開された。

慶太郎の百万円の寄付によって建てられることになった東京府美術館の建設は、1923年9月1日に起きた関東大震災の影響で大幅に遅れた。幸いなことに遅れた期間、寄付した金の利息は30万円に増え、東京府は一円も支払わずに1926年(大正15)5月1日、日本初の常設美術館が開館したのである。喜んだのは東京府だけではなかった。美術館の完成を心待ちにしていたのは芸術界の人たちであった。慶太郎への感謝の気持ちを込めて多くの美術、工芸作品が芸術家から送られたのである。

8.死別からの脱却

慶太郎の胃腸病は完全には回復していなかったが、妻俊子が腎臓を患い 1929年(昭和4)に片方の腎臓摘出の大手術を受けた。一時は退院して安静にしていたが、1933年(昭和8)に再び入院を余儀なくされてしまった。慶太郎は、終の住家に温泉付きの新居を別府の野口病院の前に建設中であった。完成を心待ちにしていたその矢先の1934年(昭和9)1月、妻俊子が新居の完成を待たずして他界してしまったのである。享年66歳であった。慶太郎はその時の心情を、知人に「小生は此から二人分働かねば」と綴っていた。

若松は、妻俊子が育った地であり、この地に入ってから42年の歳月とともに佐藤商店を二人で築いて行った。慶太郎は、誠実に働き「若松の佐藤なら」、と言われるまでになっていた。商売を続けることにより得られたのは「信用」という無形の財産であった。しかし、妻俊子との死別によりこの地に残る理由が全てなくなってしまったのだ。

慶太郎は、住みなれた若松と離別するかのように同年6月12日、自邸とともに30万円を若松市に寄付し、別府へと旅立って行った。
同月16日に開かれた市議会で、
寄贈された150坪の自邸を「佐藤倶楽部」に、3,211坪余りの土地を「佐藤記念公園」として、若松の市民に解放することを議決した。その翌月の7月、若松授産所が慶太郎の寄付で設置された。妻俊子が、若松の婦人会の幹部であり無料産院、医薬を得ることのできぬ人々のための基金を募り、提供していたからである。

9.最後の奉仕

別府に移り住んでも、慶太郎の社会への奉仕に終わりはなかった。人生最後と言える社会奉仕事業を着々と準備していたのである。

その内容は、大阪毎日新聞 1935.10.4(昭和10)の記事に紹介されていた。「寄附金150万円で財団法人佐藤新興生活館を設立、衣食住、家庭経済、風俗習慣などの改善研究をやり実験設備として生活訓練所、児童研究所、模範部落建設、教育機関 を通じて新生活指導者を養成するほか新興生活実行組合を全国に作ろうという大掛りなものであった。」

話が前後になるが、1935年(昭和 10)3月1日に設立の準備の整った佐藤新興生活館は、丸ビルの仮事務所で旗揚げ式を行った。1937年(昭和12)4月2日には、丸ビルから完成したばかりの生活館に移転した。生活館に設けられた生活訓練所には全国から17名の子女達が入所式に集まり、事業が本格的にスタートしたのであった。それから数年後に慶太郎は、芸術家たちから贈られた作品の展示を加え、別府にも美術館を作りたいと願った。別府市に準備金として10万円を寄贈していたが、1940 年(昭和15)1月13日、急性肺炎のため別府にて永眠した。享年73歳の人生であった。

若い頃、カーネギーの言葉「富んだまま死ぬのは不名誉なことだ」を信条にしていた。
慶太郎の残した*遺言書には、遺産188万円(有価証券時価相当)のすべてを社会事業のために寄付すると書かれていた。慶太郎の死から11年後の1951年(昭和)10月10日~20日まで、慶太郎が所蔵していた美術作品と他の作品とともに別府市立美術館(別府市公会堂内)で一般公開されたのである。


ここでは、慶太郎の主な社会奉仕を取り上げて紹介したが、他にも育英、教育事業を柱にした多数の奉仕活動を行っていた。進学への希望が金銭の問題によって、閉ざされてはならない。少しでもそれに応えられるように手助けしたい。その気持ちが根底にあったのは、慶太郎自身が身を持って体験したためである。かつて「佐藤倶楽部」と呼ばれた建物は、確かに存在した。しかし、実体のない組織であるにも関わらず、その建物の名前を「佐藤倶楽部」と呼んでいたのは、やはり不自然である。それは、慶太郎が若松から別府に移り住み、残された建物が慶太郎の数々の奉仕の精神を象徴している礼拝堂のようなものとして、人々から自然に「佐藤倶楽部」と呼ばれていたのではないだろうか。
佐藤公園内の佐藤慶太郎胸像
佐藤公園の記念碑
昭和13年3月 田中無言生若松市長 選
高塔山展望センター
佐藤倶楽部」に利用された佐藤慶太郎邸

父孔作・母なを 1889(明治22)
修猷館在学時(19才の頃)
明治末ごろの若松
慶太郎
俊子
 

筑豊石炭鉱業会 1896年(明治29)
南海岸通り(昭和初期)

公立若松病院 1933年11月竣工
 設計:設計:大沢源之助
 施工:
 ※開院は1898年(明治31)4月

先山・後山(石炭掘削)
昭和初期に女性の入鉱は禁止された。
若松港に積まれた石炭の山
石炭の山が多いと、若松の住民は景気の不安を感じていた時代にあった。








若松市公会堂竣工記念写真
 前列写真右:佐藤慶太郎
      (3代市議会議長)

 後列写真右:石井良一(初代市長)

若松市公会堂 1920年(大正9)12月
 設計・施工:笠
北九州市若松区浜町1丁目 現存しない
若松石炭商同業組合、筑豊石炭鉱業組合
 が若松市に寄贈(建設費16万円)




麻生商店若松出張所 1936年竣工
 設計:不明
 施工:清水組

東京府美術館 1926年(大正15)5月
 設計:岡田信一郎
 施工:大林組
 東京都台東区上野公園 現存しない

*慶太郎の野口雄三郎への相談
「国家に些かばかり、貢献すべき事業に百万円程度の金を寄付したいが何がよいだろうか、教育事業が良いかと悩んでいたため、教育事業は国家の力に依るべきもので、個人での事業は国民の品性を高めるような事業に寄付された方が良いと意見を述べておいた。」
*慶太郎への陳情
東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、若松中学の美術の教師として若松に戻った志賀寛治から美術館建設の必要性を聞いていた。


別府 野口病院 1922年(大正11)7月
 登録有形文化財(2004年4月)
 設計・施工:不明
 別府市野口中町6-33 現存













佐藤慶太郎邸 1922年(大正11)7月
 設計・施工:不明
 別府市天神町 現存しない

別府市公会堂 1928年(昭和3)3月
 設計:吉田鉄郎
 施工:
 大分県別府市上田の湯町6−37 現存






晩年の佐藤慶太郎

佐藤新興生活館 1937年(昭和22)4月
 設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
 施工:清水組
 東京都千代田区神田駿河台1-1 現存

現山の上ホテル(2011年撮影)