第3回口頭弁論後の報告集会は、午後5時から地裁近くの札幌市教育文化会館で開かれた。 はじめに「植村裁判を支える市民の会」共同代表の上田文雄・前札幌市長があいさつしたあと、小野寺信勝弁護士による裁判報告があった。小野寺さんは、「裁判は非常に重要な局面にさしかかった」と述べ、名誉棄損訴訟における「名誉」の定義、その判断の枠組み、「事実の摘示」と「論評」の区別について、パワーポイントを使って詳しい説明をした。そのあと、植村隆さんがソウルの「少女像」をめぐる韓国内の動きを紹介し、韓国政府が設立した「慰安婦財団」が抱える問題点についてコメントした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野田正彰さん講演(要約収録) 日本軍の性暴力 慰安婦問題を考えるということは、私たちの社会のゆがみを見つめ、私たちの人間性を振り返っていくということです 慰安婦問題との関わりを振り返りますと、1990年ごろだったと思いますが、鑑定を依頼されたことがあります。私は天邪鬼なところがあって、韓国の慰安婦については多くのマスコミが報道していて、同じことはしたくないので、私は中国の慰安婦の鑑定を引き受け、台湾、フィリピンのおばあさんたちを診ました。そこで一つの視点を、みなさんに提起したい。マスコミや社会的な評判になっていることに関して、フォーカス効果といわれることがある。光がある一つのところに当たると、その周りが見えなくなることを言うのですが、慰安婦問題もそうではなかったか。 日本軍はひどいことをいろいろなところで行ったのですが、韓国の慰安婦問題が90年代にああいう形で提起されると、多くの日本人は慰安婦問題は韓国の女性問題と焦点化し、理知的にはそうではないとしても、感覚としてはそのように捉えたのではないか。今回の日韓の合意に関して、政府は今回の交渉は台湾、中国などに広げるものではないと、とすぐに言いました。多くの女性が性奴隷にされたことが忘れられています。これが私たちの政府の姿であり、私たちの意識の反映であることを忘れてはならない。 ■日本軍の特異性――性的暴力に加え、虐待、暴行の限りを尽くす 私は海南島、中国とベトナムの間の大きな島ですが、東京高裁の鑑定で2度訪ね、10数人を診ました。また中国の太原も訪ね、台湾では当時確認されていた40数人のうち10数人を診察し、その後も相談に乗ってきました。東京高裁に提出した事例のいくつかはみすず書房から出した「虜囚の記憶」にサンプルとして紹介している。 中国・山西省のあるケースでは、日本軍はある村の役場を占拠してから、近くの若い女性をさらいに行く。当時の敵の八路軍に男を出しているのではないかといった口実を一応付けるが、実は若い女性がいる情報を事前に集めておいてから行くわけです。そして八路軍に家族を出しているとか口実をつけて、若い女性を縛って、担いで駐屯地へ設けた慰安所へ連れていく。3畳ほどの、窓もない部屋が並ぶ長屋のようなところに4、5人の女性を放り込んで、男たちが順々に強姦していく。人により違うが、昼間は3、4人、夜は将校のクラスが来る。 日本軍の特異性というのは、こうした性的暴行の対象としたうえで、さらに慰安婦たちを日中連れ出して、村で何が行われているか言えと責めて、暴行を加えているということです。軍靴で蹴とばし、銃座で殴る。それで骨が砕ける。3、4カ月もすると衰弱し、使い物にならなくなる。すると、駐屯地の近くにむしろで包んで捨てる。それを村の人が助け出す。しかし、多くの人は死んでいく。そんななか奇跡的に命を救われた一人は、両大腿骨と腰椎が砕けて、身長が数センチも縮んでいた。こうした状況はほとんどのところで聞かれました。 さて皆さんの想像力ですが、私の今の話を聞いて、どう思われたでしょうか。私たちはいま、韓国の女性のことを聞きながら、日本軍が中国はじめ東南アジアの各地の戦線で、何をしてきたのか考えたでしょうか。これまで想像できたでしょうか。もう一つ質問したい。(日本軍から捨てられた)16、17歳の女性がその後、どう生きていくことができたか。どんなに大変だったか。メタメタにされた体で、多くの人は乞食をしながら生きていく。その場所は黄土高原の穀物もほとんど獲れないところです。もう一つ想像してください。では簡単に乞食ができただろうか。多くの人からは〝日本の女〟として差別され、排除され続けました。 ■彼女たちの思いが届かない日本社会の鈍感さ、醜さ 彼女たちがその後、生きていくことが、いかに大変だったか、日本のマスコミは問題にしたでしょうか。報道したでしょうか。彼女たちがなぜここまで名誉の回復を求めるのか。その言葉の裏には、戦後の60-70年を生きていくことがいかに困難だったかがあるわけですが、それを想像できるでしょうか。一人一人が受けた困難を日本政府が認めることによって、自分が生きてきたことに意味があったことを確認し、そして自分の地域社会に認めてもらいたいという思いがあったからです。裁判を起こしたのはそういう思いがあったからです。しかし、それは日本の社会、市民に届いていない。まして、いつまでも何を言ってんだという声が出てくる。これは人間の鈍感さ、醜さの表れです。 裁判は精神的外傷の認定を求めるものですが、それは当たり前のこと。私はPTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)は米軍が戦争遂行のため、保険を通すために作った誤った概念と思っている。加害も被害も一緒くたにして、殺したこと、死ぬということを一定期間のインターバルで思い出す、フラッシュバックするなんてありえない。私はベトナムに派遣された韓国兵にインタビューし、生き残ったドイツ兵を診断したが、すべての人に苦しみはずーっと続いていました。忘れた期間があるなんてありえない。 慰安婦の人たちも一瞬たりとも忘れられない。60数年たっていても、村の道を歩いていて竹林がざわざわ揺れると、日本兵が飛び出してくるのではないかと足がすくんでしまう。夜中に扉が風で揺れると、中にいたおばちゃんがキャーっといって家を飛び出して震えている。孫が「戦争は終わったのよ」と抱きしめ続けても、おばあちゃんは日本軍が雨戸を破って入ってきて連れ出していく感覚の中に連れ戻されている。 PTSDの症状はこうして全員に続いているわけだが、私は「破局的体験後の人格障害」という概念を東京高裁に提出した。それは持続的に人格が変わってしまうということです。どんなに変わるかというと、望まれるままに素晴らしく成長した女性も、(ああいう経験をすると)、人格が硬直してしまう。基本的に世間に対して疑い深く、周りに警戒的、家族も信じられない。引きこもり―積極性がなくなる。何事にも無力感があり、生きていることに空虚感を持つ。常に危機に瀕している慢性的な感情、人に対するよそよそしい態度…人間としての尊厳が徹底的に、かつ持続的に壊されると、人の性格はこうも変わってしまう。 ■破局的な体験の後に人格障害で苦しむ被害者たち 海南島のおばあさんの1人は人格的に変わっているし、村も(変わってしまった彼女を)受け入れる力がない。そこでおばあさんは小さな掘っ立て小屋を建ててもらって、牛だけと鼻をくっつけるようにして生きてきた。子宮筋腫だと思うが、年老いて大量の出血と貧血に苦しむようになった。それを若いときの性の乱れ―決して本人の責任ではないが―と苦しみながら、日本に謝罪を求めて、村落の名誉回復のために裁判を起こした。 東京高裁では私の鑑定書が全面的に採用されました。判決文は「破局的な体験後の人格障害」にいずれの女性も苦しんでいるとし、軍の威圧のもとで自己の性的満足を得ようとする本件の凌辱行為は陸軍刑法や海軍刑法でも強姦罪という重大な犯罪行為というべきで、最も卑劣な行為と厳しい批判を受けなければならない。本件女性たちの被害は重大で、癒されたとか、償われたとも言えない、とした。しかし、1972年の日中の平和条約締結で請求権は消滅したとして、最終決定はおばあさんたちの訴えを棄却した。このように判決は鑑定内容を全面的に認めているが、私たちはこうしたことをほとんど理解していない。 ところで、韓国では日本は女性たちをさらっていった。外地に行けば看護助手の仕事があるとか、食事の世話をするとかいってだまし、明らかに軍が関与する船でシンガポールやミャンマーなどに送りだした。 しかし、これらと中国や南方の人の扱いは明らかに違いがある印象だ。中国の女性たちは性的暴行の対象にされたうえ、暴行で殺されている。これは日本人の、日本の男の精神性がどうだったのかを示している。つまらん比較をするなとも言われるが、私は考え込まざるを得ない。日本軍の兵士は暴行した女性を殺しただけでなく、妊娠していた女性の腹まで割いている。こうした事例は枚挙にいとまない。なんで、ここまでするのか。軍の教育に希望がない。男たちは生きて帰る希望のない戦争を強いられた。何をしてもおしまいだという戦争を強いられていた。 (講演要約と文責・山本) |


