川崎・三菱造船所争議映像

川崎・三菱造船所労働争議 「映像フィルム」 1921年

 1921(大正10)年夏、神戸の川崎・三菱造船所で一大労働争議がくりひろげられました。わが国の産業が、第一次世界大戦の影響による好景気から、終戦後一転深刻な経済不況に見舞われる中で各地で労働組合の承認や労働条件の改善を求めて労使紛争が起きますが、この川崎・三菱争議は参加人員三万人というかつてない規模により戦前期最大の労働争議といわれています。
 戦術において、争議団の結成、大デモンストレーションの展開、「工場管理」という先鋭的な提案、活動資金づくりのための行商隊の活動など多彩な活動が展開され、労働運動史上特筆される争議でした。それゆえ会社側とそれを助ける国家権力も必死で、暴力団の動員、第二組合的裏切り団体を駆使しての切り崩し、官憲や軍隊を大量動員しての徹底的な弾圧など総力戦を展開します。
 争議は、1919年に「大日本労働総同盟友愛会」と改称し、従来の労使協調団体から独自の労働組合として脱皮を図りつつあった「友愛会」が全面的にバックアップします。争議の指導メンバーの中心には神戸を中心に活動していたキリスト教社会主義者の賀川豊彦もいました。高野岩三郎は争議の最中7月30日に前日検束された賀川の夫人ハルを慰問しています。一方憲兵隊の中には、2年後の1923年、関東大震災後に大杉栄らを虐殺した甘粕大尉もいたということです。
 炎天下40余日激しく闘われた争議は労働者側の敗北宣言で終了します。争議後わが国の労働組合員数は一時的に減少します。しかし、この争議で解雇され失業を余儀なくされた千人を超える職工たちは新に職を求め移住し、工場に入って労働組合を組織したり、ある者は帰農して農民組合の活動に参加するなど再び社会運動は大きく展開します。
 神戸をわが国労働運動発祥の地とする運動史の見解はこの争議によります。
 この実写フィルムは、わずか9分、無声ですが、争議がもっとも高揚した7月10日の大デモンストレーションの模様をたんたんと伝えます。撮影は、大原社会問題研究所からの依頼により日活の撮影隊によって行われました。
 兵庫県労働部では労働運動史編纂の過程でこのフィルムの存在を知り、1958年に『灯をともした人々』としてリメークします。
 研究所は実写フィルム、および『灯をともした人々』、ともにビデオにコピーしているので映写会等で利用できます。また、NHKアーカイブより依頼されてコピーを提供しました。大正時代の労働運動の動きや、大正デモクラシー期の時代背景としてテレビ番組で時々利用されています。
 まさにお宝映像といえましょう。
 この8月、大学図書館問題研究会の全国大会が神戸で開催されたので、ご当地関連の自主企画としてこのビデオを持っていって上映しました。別の自主企画として「和みの部屋」というのも同時進行で行われていて、およそ和みとは正反対のこのビデオ上映は、参加者数ではとてもかないませんでしたが、それでも何人かの方が観に来てくれました。その前日せっかく神戸に来たので、当時の争議の舞台となった神戸の街、造船所のあたり、湊川神社、新開地、抜刀事件がおきた七宮神社あたりをずっと歩いてみました。賀川豊彦が灯篭に上って労働歌のタクトを振ったという生田神社も行きました。今は藤原紀香と陣内智則の結婚式ですっかり有名になってますが、ここはさすがにけっこう大きな神社でした。神社参拝は官憲から街頭でのデモを禁止された争議団が考え出した苦肉の策でした。争議は、両会社の断固としたゼロ回答、切り崩しによる争議団の弱体化、官憲の弾圧、争議指導者の相次ぐ解雇により争議団としては八方ふさがり、まさに神頼みの心境でもあったのでしょう。
 今神戸の街はとてもきれいで明るく、歩く人たちも華やいでいます。この道を今から80余年前にかんかん帽をかぶった職工たちが連日生活をかけて駆け歩いたことなど想像も及びません。
 途中神戸港で意外なものを発見しました。ハーバーランドというところですが、ここにはタワーやおしゃれな観光施設があり、港をめぐる遊覧船も出ています。その一角に「八時間労働発祥の地」という碑がありました。大争議の前年大正9年の川崎造船所での争議で、会社側は労働者の要求に応え、労働時間をそれまでの9時間から8時間へと短縮したのです。これが日本で8時間労働を制度化した最初のことなのだそうです。その記念の碑ですね。当時の川崎造船所の社長は松方コレクションで有名な松方幸次郎でした。松方は友愛会には寛容的だったこともあって、当時川崎造船にはほかの職場と比べ多くの友愛会員がいて神戸の労働組合活動の中心的存在でした。松方は、1921年の争議の時は海外出張中で、交渉いっさいは残留の重役があたったのです。役員たちは社長不在を理由にいっさいの回答を拒否したのでした。それが労働者にとってみれば争議が泥沼化した要因のひとつでした。歴史に「たられば」は無意味かもしれませんが、もし松方が日本にいたらあるいはこの争議はもうすこし違った展開をしていたのかもしれません。(2007年9月記)

<参考文献>
『炬火をかかげて--大正10年、三菱・川崎造船所大争議の闘争記』(森脇甚一著、文化団体半どんの会出版部、1969)
『熱い港--大正10年・川崎三菱大争議』(武田芳一著、太陽出版、1979)


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