論文は英語で書かれていますが、このページでは日本語で紹介します。
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「ひっかけ問題への投票」
Games and Economic Behavior (2022), Vo. 132, 380--389.
集合知という言葉がある。これは一人で物事を決めるよりも多人数で決めたほうが良い結果が得られるということを含意している。集合知がうまく働くということの理論的な根拠の一つとして、コンドルセの陪審定理( Condorcet, 1785 )が有名である。この定理の主張は次のとおりである。正解・不正解がある問題を考える。もし選択肢が「二択」で、人々が「独立に」正解に関する情報を受け取っており、その情報が正しい確率が「 1/2 」でなければ (1) 多数決の精度は一人で決めることの精度より高く、 (2) なおかつ人々が無限人いれば多数決が間違える確率は 0 に収束する。 (1)を非漸近陪審定理、 (2) を漸近陪審定理と呼ぶ。この定理はゲーム理論的な環境で様々な拡張がなされ、人々が共通の目的を持っている限り , 上の仮定が保たれていればほとんどの場合で頑健に成立することが知られている。コンドルセ陪審定理に従うならば , あらゆる二択の物事は人間をなるべく多く集めてきて多数決で決めるべきである。しかもコンドルセ定理の主張では少しでも情報が得られる限り、選ぶ人間はどんな素人でもいいのである。一方で実際の企業や科学の現場ではそんなことはなされていない。専門誌の査読も審査員は専門家である。さらに掲載の可否も審査員の情報を集めるとはいえ、実際には彼らの多数決だけで決まることはなく、最終的には編集者の判断である。この点でコンドルセ陪審定理は額面通りには受け入れがたい。
この論文では以下の設定のもとコンドルセ陪審員定理(の両方)が成立しないことを示す。概要は次のとおりである。問題は二択であるが、「素直な問題」か「ひっかけ問題」の可能性がある。素直な問題では人々が受け取る情報の正確さは1/2 を超え、ひっかけ問題では情報の正確さは 1/2 を下回る。素直な問題において受け取る情報が正解である確率とひっかけ問題において受け取る情報が間違いである確率は異なるとする。ここでは一般性を失うことなく前者の方が大きいとしよう。人々が問題のタイプを知っていれば、たとえひっかけ問題に直面していたとしても、受け取った情報の逆をいえばいいだけなのでもともとのコンドルセの想定に落ちる。しかしながらこういった問題の常として、問題が素直なものかひっかけかは通常は判別できない。一方で問題のタイプに関する情報を受け取ることは許すとする。通常のコンドルセの想定からの逸脱はこれだけである。
この想定下では、次のような戦略が均衡であると思うかもしれない。すなわち、問題が素直だと思えば受け取った情報に従って投票し、問題がひっかけだと思えば受け取った情報の逆を行く。しかしながらこれは均衡にならない。この戦略下では人々が正解に関する情報に従って投票する。すると素直な問題の時のほうが情報の精度が高いため、人々の意見は割れにくい。逆に言えばひっかけ問題の時のほうが人々の意見は割れやすい。一般に戦略的投票モデルでは人々は自身の一票が結果を左右するときのみを考えて投票する。一票が結果を左右するときとは他の人の票が半々のときである。注意していただきたいのは意見が割れやすいときの方が結果が自身の一票に左右されやすいということである。すなわち人々はひっかけ問題のときを重視して自身の投票行動を決める。つまり問題のタイプに関する情報に関係なく自身の情報が示すこととは逆に投票することが最適になる。さらにこういった逆張り投票行動は均衡になる。この均衡はひっかけ問題には最適であるが、素直な問題には最悪の行動である。したがって問題が素直な時にコンドルセ陪審定理が成立しない。特にこの結果は問題が素直である事前確率には依存しないので、ほとんどが素直な問題である場合には多数決の決定が正解である確率はほぼ 0 である。
「世代交代組織における責任回避としての隠蔽」
Journal of Law Economics and Organization (2022) Vo. 38(2) 511--538
企業は致命的な事故につながる問題を抱えていることがある。そしてその企業の労働者は多くの場合その問題に気付きながら、それを上層部に報告しない。そして、社会は重大な損害を被る。このようなことはありふれた現象である(Chernov and Sornette, 2016はそのような多くの例を挙げている。)東芝の不正会計問題を例に挙げてみよう。東芝は内部監査部門をもちながらその不正は報告されなかった。もちろん誰もそれに気づかなかったわけでない。気付きながらも報告しなかったのである。本論文はなぜそういった隠蔽が起きるのかを理論的に解析する。
本論文では世代交代型の組織を考える。簡単のため、組織は部下と上司の二人からなるとしよう。世代交代型の組織であるのである期の部下は次期の上司である。部下は問題を報告する立場にあり、上司は問題が報告されたらその問題を解決する立場にある。こういった構造は一般的である。東芝においても監査部門に配属されることは出世街道の中継地点であった。より詳細な設定を説明する。部下は確率的に問題を発見する。また、上司が問題を解決することには費用がかかるものとし、これは上司の私的情報であるとする。これは上司の問題解決能力などを表現する。本論文のモデルでは問題は唯一つ発生する。その問題は確率的に事故を引き起こし、その場合は関係者は責任を問われる。もしその問題が報告されていなければ部下と上司は責任を持つ。一方でその問題が報告されていれば部下としての責任は免除されるが、その分上司は問題解決の責任者にあったとして、より重い責任を持つ。
このモデルのもとで部下が問題を上司に報告しない誘因がある。これを説明するために、報告することのメリットとデメリットを説明する。問題を報告することのメリットは部下としての責任を回避できることである。また、上司が問題を解決してくれれば問題は消えてなくなる。デメリットは問題を「報告された」状態にすることである。もし問題を報告して当期の上司が解決しない場合、その問題は今期の部下に引き継がれる。今期の部下は来期の上司であるためである。すると彼はより重い責任のもと問題に対処しなければならない。知らないふりをしていれば責任は軽かったはずであるのでここで問題を隠蔽する誘因が発生する。
この問題隠蔽の誘因にはいくらかの非自明な効果が存在する。第一の効果は将来を重視している部下の方が問題を隠蔽しやすいということである。これは隠蔽の誘因が将来の責任回避にあることに起因する。また将来を重視するような部下は昇進の見込みが高い部下とも解釈することができる。これはエリートほど隠蔽しやすいという結果につながる。実際、東芝でも問題を報告する立場にあった監査部門の役員は出世の見込みがある人々であった。第二には問題を解決しなかったときの上司の責任を重くすると隠蔽がより起こりやすくなるというものがある。これは問題を隠蔽する誘因が問題に直面していて解決しなかったときと、知らないふりができたときの責任の差に起因することによる。第三の効果は問題解決に報酬を与えたとしても隠蔽がより発生しやすくなるというものである。報酬を与えると、部下は今問題を隠して、来期自分自身が上司になったときに問題を解決して報酬を得ようとする誘因が働くからである。この誘因は有能である確率が大きいほど効きやすい。上司が有能であれば報告すると問題を解決されてしまうので報酬を得ることができないからである。
また問題隠蔽の誘因には通時的な戦略的補完性が存在する。自分が将来上司になったときの部下が報告するのであれば、いま隠蔽をして責任を回避しようとする試みは失敗に終わるからである。一方で、自分の将来の部下もまた隠蔽しようとするのであれば自分自身の隠蔽の試みも成功する可能性が高い。それゆえ、隠蔽を行う均衡と全く隠蔽が起きない均衡の複数が存在する。この結果の(Kreps, 1990流の)解釈は隠蔽は企業風土の問題となりうるというものである。すなわち、社員全員が誰も隠蔽を行わないと思えば隠蔽は発生せず、逆に隠蔽することが風土だと思えば実際に隠蔽が均衡となるのである。
厚生的な含意としては、一定の条件下では隠蔽が発生するような均衡は長期的には非効率であるということが示される。これは隠蔽される場合、問題が解決される確率が下がり、より長期に渡って問題が残り続けるからである。一方で短期的には、つまりひとつひとつの期の部下と上司の間では隠蔽することが効率的になりうる。上司としては報告してもらいたくないし、部下としても上司が問題を解決しないような上司であれば報告したくないからである。それゆえ、隠蔽の問題はひとつの企業内では解決し得ない問題であると言える。長期的な視点を持った第三者や外部の介入が必要になるのである。
「固執と即断」
Journal of Economics and Management Strategy (2021) Vo. 30, 203--227
ある専門家が過去に表明した意見にこだわり、後々の有益な情報を無視することはよく観察される。例えば政治家の発言は言質となり、これを後で覆すことは難しい。また、経済評論家が頻繁に予測を変えていればその評論家は信頼されないであろう。それゆえ、彼らにとっては初期の発言を覆すような情報を得たとしてもその初期の発言に固執する。この行動を経済学的に説明する一つの理論として、専門家は自身の能力の評判を気にする選好を持つというものがある。この直観は次のとおりである。もし過去の表明と矛盾した意見を表明すると過去の意見と現在の意見のどちらかが間違っていることになる。能力が高い専門家ならば過去の時点から一貫して間違うことが少ないので、過去の意見と現在の意見を一貫させることで能力が高いと見せかけ、自身の能力の評判を高く保つことができるのである。
しかしながらこれまでの研究では初期に意見を必ず表明しなければならないと言う制約があった(Li, 2007; Falk and Zimmermann, 2017)。 もしこれがなければ初期には意見を表明せず、後になって言うことで意見の変遷を見せることなく、正確な意見が表明できるようになる。そうであるにも関わらず、現実では拙速な判断を早期に表明し、後にそれにこだわり、結果として事業などに失敗するという事例が見られる(例えばNutt, 2002はそういった事例をいくらか挙げている)。
本論文ではそういった拙速な意思表明とその結果としての意見の固執がなぜ併せて起きうるのかを理論的に検証する。そのために初期に意見を表明しなくてもよいという選択肢を加えた分析を行った。
より詳細なモデルを紹介する。いま、状態があるとする。この状態の詳細は事前には誰にもわからないが、専門家はそれに関する情報を受け取ることができる。具体的には、専門家は二回その状態について意見表明をすることができる。それぞれの意見表明の機会の直前に専門家は実現する状態についての情報を受け取ることができる。この情報の正確さが専門家の能力である。また、一度目の情報と二度目の情報では二度目の情報のほうがより正確になっている。専門家の評価者は専門家の行動及び意見と事後に明らかになった状態を観察して専門家の能力について推測を行う。専門家にとってはその評価者の推測そのものが効用になる。この設定のひとつの正当化としては評価者は専門家の能力に依存して将来彼を雇うときの給与を決定するというものである。
このモデルから得られる結果は以下の通りである。一度目の機会に意見を表明しなくても良いという選択肢があったとしても一定の条件下で初期に自発的に意見を表明することが均衡として現れ、それが新語耐性(neologism-proofness, Farrell, 1993)と呼ばれる自然な性質を満たす唯一の均衡となる。
この結果の直観は次のとおりである。 一度目の意思表明の機会を考える。 ここで意見を表明しなければ、二度目の機会で、より正確な情報を得たもとで意見を表明することになる。他方もしここで意見を表明すれば二度目の機会では一貫した意見を表明することになる。つまり、一度目に表明したものと全く同じ意見を表明することになる。意見が実際に正しかったときを考える。 もし一度目に意見を表明していれば、意見を首尾一貫させるのでより情報が乏しいもとで正確な意見ができていたことになる。すると専門家の能力が高く評価される。一方で意見が間違っていたときを考える。もし一度目に意見を表明せず、より正確な情報が得られる第2期に意見を表明したのであれば、正確な情報のもとですら正しい判断ができなかったことになり、専門家の能力はより低く評価される。この二重の意味で初期に意見を表明する利点がある。
本論文は早期には意見を表明しないという選択肢があったとしても上記の拙速な意見表明が行われることを示した。政策含意としては専門家に「早期には意見を言わなくても良い」と言うのではなく、「早期には意見を言ってはいけない」と要請すべきということである。例えば組織の意思決定では拙速な意思決定を諌め、熟慮を推奨する規範を形成することなどが挙げられる。政治的な文脈では政治家に対しては早期には言質を取られるような意思表明を行わせず、彼らが曖昧に濁すことを許容すべきである。
「選挙競争における極化と非効率な情報集計」
Social Choice and Welfare (2021) Vo. 56, 67--100
政治家が改革を掲げて選挙に出馬することはよく見られることであり、そういった政治家が当選することもよく見られることである。一方、選ばれた改革が失敗に終わり、多数の市民にとって好ましくない結果に陥るのもよくある話である。古典的な投票理論ではこのような結果を説明することは難しい。通常のホテリング=ダウンズ モデルでは常に中位投票者にとって望ましい政策が選択されるし、例え選択肢に不確実性があったとしてももし投票者間で選好が一致しており、政策に関する情報を独立に受け取っていれば古典的なコンドルセ陪審員定理により社会的に望ましい政策が選ばれる。この論文では、 改革における不確実性と投票者間の選好の不一致をもとに、投票均衡において選ばれる政策がもたらす帰結が多数派に好まれず、社会厚生も最小化するという結果が得られた。この結果の鍵になるのは投票者がリスク愛好的であるという仮定である。これは通常の経済学ではあまりなされない仮定であるが、選挙理論に於いてはダウンズ以降しばしばなされる仮定であり、実験や実証的なサポートも存在する。この選好のもとでは改革に対して受け取る情報が少ない投票者がリスク愛好的であるゆえに改革に投票し、たとえ現状維持が確率1で中位投票者のもたらす帰結を達成するとしても改革が選挙で勝利する。改革が社会厚生を最大化するには人々が十分にリスク選好でなければいけないが、それほどでないときであっても人々の受け取る情報が十分に乏しければ人々は改革に投票する。その結果として社会厚生が最小化される。これは改革について十分正確な事前情報があったとしても、それに対する人口が十分大きければ成り立つ結果である。
「一回だけ貢献せよ!動学的貢献ゲームにおける効率性」
Games and Economic Behavior (2020) Vo. 123, 228--239.
近年発達してきたクラウドファンディングは一定額の寄付が集まれば供給されるという離散公共財の性格を持つ。この自発的供給を扱うものとして、動学貢献ゲームがあげられる。 これはある期間内に人々から自発的な寄付を募るというものである。 過去の研究では動学貢献ゲームには効率的な均衡も存在するが、非効率なものを含む多くの均衡が存在することが証明されてきた(Marx and Matthews, 2000) たとえば誰も貢献しないという戦略組も均衡であるし、供給されるにしても締め切り間際にようやく達成されるというものも均衡になる。 このような非効率な均衡の存在を証明するために前提とされてきたものが「人々は何回でも公共財への貢献ができる」という仮定である。 この研究ではこの点に着目する。つまり「人々が一回きりしか貢献できない」という制約の下でどのような均衡が実現するかを分析する。 一回きりしか貢献できないという制約は次の点で現実的である。一般にこういった寄付は払込用紙によって支払うことが多く、その払込用紙は多くの場合一つしかない。
この研究で得られた結果は次のとおりである。Marx and Matthews等による基本的な動学貢献ゲームに、「各プレイヤーの貢献できる回数が一回きりである」という仮定を加える。既存研究との主要な違いはこの仮定のみである。
このとき、次の結果が得られた。(1) 動学ゲームの期数がプレイヤーの数より多いとき、 またはその時のみすべての部分ゲーム完全均衡において社会厚生は最大化する帰結のみが実現する。(2)すべての貢献はゲームの開始直後になされる。(3) さらにこの結果は人々の割引率の大きさに依存しない。
この結果の直観は次のとおりである。上記の結果は一般的に成立するが、簡単のためプレイヤーの数はAとBの二人、動学ゲームの期数は2であるとしよう。いま、Xだけの寄付金が集まれば、そしてそのときのみ公共財が1単位供給されるものとする。またプレイヤーAとBは公共財が供給されればVだけの利得があるとし、2V>X>Vを仮定する。まずなぜ必ず供給されるかを説明するために背理法として、公共財が供給されない均衡があるとしよう。この均衡のもとでは両プレイヤーは一切貢献しないはずである。今、プレイヤーAの逸脱として、プレイヤーBが一人で貢献したくなるギリギリ(つまりX-V+ε<V)まで第1期に貢献してみたとする。そうするとプレイヤーAは一回きりの貢献制約より第2期では貢献ができない。このときプレイヤーBの立場からすれば、ちょうどV-εだけ貢献すれば公共財が供給され、そうでなければ供給されないという状態になる。このときプレイヤーBは供給されるだけの貢献を選ぶほかない。結果としてプレイヤーAは逸脱することで得をするので部分ゲーム完全均衡の定義に反する。したがって誰も貢献しない均衡は存在しない。
供給が第2期以降に行われることもない。背理法として第二期に供給が行われる均衡があったとしよう。例えばプレイヤーAが第1期に貢献、Bが第2期に貢献するというものである。この場合プレイヤーBは第1期に貢献することで早く利益を得られ、時間割引の分だけ得をする。したがってそんな均衡があるのならばプレイヤーAもBも第2期に貢献するはずである。ではそのような均衡を考えてみよう。このとき、どちらかのプレイヤーがX/2以上貢献しているはずである。いまそのプレイヤーがAであるとし、彼がX-V+ε<X/2<Vだけ貢献したとしよう。2V>Xであるのでこの不等式を満たすような貢献量は存在する。そうすると先程の議論と同様にプレイヤーBは第2期で供給を完了するような貢献をする。すると、プレイヤーAにとっては完了する期が同じであるのにも関わらず、貢献する量が減ったことになる。これにより、プレイヤーAが逸脱によって得をすることになり、やはり部分ゲーム完全均衡の定義に反する。したがって供給が第2期以降に行われるような均衡も存在しない。
残るのは第1期に供給を完了させるという均衡のみである。実際、プレイヤーAとBがそれぞれちょうどX/2だけ貢献するという戦略組を考える。これをすれば供給が第1期に完了する。ここから貢献量を減らす、あるいは貢献する期を遅らせたとすれば、供給されなくなってしまうか供給されるタイミングが遅くなるかのいずれかとなり、プレイヤーたちが得をすることにはならない。したがってここからプレイヤーたちが逸脱する誘因はないので均衡となる。
この結果はKamadar et al. (2015) によるフィールド実験の結果とも関連する。 Kamadar たちの論文では「一度寄付すれば二度と寄付を頼まない」という文言を寄付の募集の際に付け加えてその効果を見た。 この文言は一回きりの寄付を含意するものであるという意味で本研究と関連する。この実験の結果、全体の寄付は増加し、特に初期における寄付金額は二倍になった。これは寄付が基本的に第1期にのみ行われるという本研究の結果と類似している。
「財の数が多いときの一様価格オークションの操作不可能性」
International Journal of Game Theory (2019) Vo. 48, 543–-569
数村友也氏と共著:
入札者が複数の財を需要するとき、一般的には一様価格オークションは戦略的操作に対する耐性がないことが知られており、その結果非効率的な配分をもたらすことがある。本稿では多数の同質財が入札者に配分される状況を考える。入札者の効用関数は準線形であり、その財の評価関数の差分は正であり、また財の数に対して逓減すると仮定する。この設定において一様価格オークションにおける入札者の戦略的操作の誘因を考える。こういった設定は国債オークションなどに応用できる。
多くの先行研究では入札者の数が十分に大きい場合が考えられてきた。 しかしながらカナダなどの国債オークションでは入札者の数は10数人でそこまで大きくない一方、財の数としては非常に大きい。そこでこのような財の数が非常に大きいような状況を想定して分析する。
本稿では実現しうる入札者の評価関数の組における重要な仮定として, "no monopoly" という仮定を導入した。この仮定は次のような意味で, 任意の評価関数の組において独占的な入札者が存在しないことを要求する. ある評価関数の組においてある入札者Aが独占的であるとは、入札者Aが十分大きい数の財を受け取っているときの評価関数の差分が他のすべての入札者が十分大きい数の財を多く受け取っているときの評価値の差分の値を上回ることである。本稿ではもし no monopoly が満たされるならばその範囲において配分する財の数が十分大きいときには一様価格オークションとヴィッカリーオークションの支払額の差が0に収束することを示した。ヴィッカリーオークションには戦略的操作の誘因が存在しないことが知られており、それにより財の個数を増やせば一様価格オークションにおいても戦略的操作の誘因をいくらでも小さくできる。
「日本政府と功利主義的行動」
Journal of the Japanese and International Economies (2015) Vo.36, 90--107
日本の中央政府は過疎地域などの地方部を重視して都市部を軽視していると言われている。実際に、過疎部への一人当たりの補助金の額は都市部へのものよりも多額である。しかしながらこのことは過疎部を都市部よりも重視していることを意味しない。なぜならば通常都市部のほうが過疎部よりも所得の額が大きく、 厚生を測ると都市部の住民の厚生のほうが高い可能性がある。このように厚生を基礎として日本の中央政府がどの地域を重視しているのかという研究は入谷・玉岡(2005)を除きほとんどなされてこなかった。
本稿では日本の中央政府の地方政府に対する社会厚生関数を 1955年度から2010年度までのうち9年分の社会厚生関数を推定した。本稿では中央政府が社会厚生関数を最大化するように地方政府への補助金の分配を決定し、また社会厚生関数は各都道府県の代表的個人の効用の加重和であると仮定する。 この仮定の下で入谷・玉岡(2005)によって考案された手法を用い、 各都道府県におけるウェイトを推定した。 回帰分析を用いるとそのウェイトが各都道府県の人口とほぼ一致することが示された。 ウェイトと人口の相関係数は0.969である。 このことは社会厚生関数がほぼ国民全体を都市部の住民か否かなどについてのウェイト付せずに足し合わせたもの、つまり全ての個人に等しいウェイトを置いた功利主義的社会厚生関数であることを意味している。
また入谷・玉岡(2005)のモデルでは都道府県間の交易が考えられていなかった。本稿では都道府県間の交易を考慮に入れた上で、 入谷・玉岡(2005)のモデルを拡張した。その結果、 多くの年度では同様の結果が得られたが、 2005年からウェイトに財政収支が正の影響を及ぼすことを確認できた。つまり財政収支の大きい都道府県により多くのウェイトを置いている結果になる。これらの年度は地方財政改革による地方分権化が推し進められた時期と一致している。 つまり、地方分権化を推し進めることで財政力の大きい都道府県に有利になったということを実証的に明らかにできたことになる。