「終戦の詔書」に想う

平成19年8月15日   平井秀信

〔鳥類観察人間学研究所-峠道〕


上原英憲氏の清書による「終戦の詔書」を拝見し、またその玉音放送の録音を聴いていると、当時のことが今更のように思い出されます。昭和20815日、それは暑い夏の日でした。その数日前の6日広島に、さらに9日に長崎に原子爆弾が投下されていました。

 

  当時、私は陸軍主計下士官として鉄道司令部に所属し、兵員、糧秣、軍事物資の輸送業務に携わっていました。司令官の陸軍少将は、「戦況を考えるに、この戦略的基地広島が、早晩大きな攻撃を受けるだろう」と判断、取るものもとりあえずといったあわただしさで、広島市宇品にあった司令部を廿日市町(現・廿日市市)に、原爆投下の一週間前に移転していました。司令部の指揮下にあった鉄道部隊兵員は約3000人ほどでしたが、なお広島に駐屯していたため、原爆の被害を諸に受け壊滅的打撃を被ってしまいました。

 

  廿日市は広島の西、宮島口の山間の町で、そこにある小学校を行動の拠点としておりました。その講堂で“玉音”放送を聞きました。ラジオは旧式のもので、よくは聞き取れなかったのですが、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」のところがなぜかはっきり聞き取れ、いつまでも印象に残りました.

  爆心地から離れている地でも、次々と運び込まれてくる被爆者の姿とその人数をみて、原爆被害のすさまじさ悲惨さについて想像がつきました。私はたまたま広島を離れていたため被爆を免れました。そのため何か後ろめたい思いがないとはいえず、他の人に多くを語る気持ちにはなれず、今に至っております。

 原爆を投下された広島、長崎では毎年厳かに慰霊祭が行われ、市長による“平和宣言”もなされています。日本は世界で唯一の原爆被爆国である以上、未来永劫に原爆投下の悲惨さを訴え続けて行かなければならないと言えるでしょう。

 

  思い起こせば、大東亜戦争の終盤に至っても、ときの最高指導部は、「一億総決起」、「本土決戦」、「撃ちてし止まん」と唱えて、国民にはモンペを履かせて防空頭巾、手には武器としての竹槍を持たせ、火消し道具の藁縄で作ったボンデンを持たせ、ひたすら士気を鼓舞していたのです。

 戦後62年の現在、戦争を知らない二世、三世の、その歴史認識にも疑問の持たれる政治家たちが、政府の要職に就いています。先ごろはパンタロンスーツの女性防衛大臣が、艶然と閲兵する姿もありました。平和ボケともいわれて久しい当今、緊張感のない、そのとき限りの、付け焼刃的対応に追われる政治の在りようです。この現状で「美しい国」を目指す日本の将来はどうなって行くのでしょうか。私ひとりの杞憂であればそれに越したことはありません。