道元『正法眼蔵』の現成公案の巻の参究

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

正法眼蔵において現成公案の巻は古来よりもっとも有名であり、且つ重要視されているものである。正法眼蔵の他の巻は現成公案の巻の多面的展開といえるだろう。道元の仏道は現成公案の巻に尽きると言っても過言ではないかと思う。というのは現成公案の巻には道元の基本的考え方がすべて網羅されているからである。だからこの現成公案の巻をしっかりと呑み込めば正法眼蔵に通底している道元禅の要所を掴むことができる。
参究に入るまえに表題の「現成公案」とはいかなる意味なのかを考えてみたい。この現成公案はもちろん道元の造語である。まず現成公案の「公案」の語であるが、これは少しでも禅をかじった人ならば「公案」と聞くと臨済禅の修行で用いられているものを想起するだろう。臨済禅の修行で用いられている公案とは論理では割り切れない問題のことである。たとえば比較的ポピュラーなものに「隻手音声」という公案がある。その内容はどういうものかというと「両手を叩くとパチンと鳴る。では片手ならばいかなる音が鳴るのか? その音を持って来い」というのが「隻手音声」の公案の意味である。臨済禅ではこのような問題で修行者を大疑団におとしいれて、大悟させようとする。つまり公案とは、いいかえれば問題ということであり、それは一般的な意味の問題ではなく、これを解けば悟りを開くことになる問題なわけである。しかし道元のいわれている現成公案の「公案」の意味するところは、そのような意味がないことはないが(それは現成公案の巻を注意して読んでいればわかるのだが)、臨済禅の公案とは異なる意味を持っている。公案の語源は「公府の安牘」に由来している。公府とは政府のことであり、安牘とは法令のことである。政府の法令とは住民にとっては、動かさず、改めず、ただただ厳守すべきものとされていたわけである。それは住民にとって絶対である。それが翻って道元においては絶対(仏)を意味するものとして援用している。すなわち現成公案の公案は絶対(仏)の異名である。そして現成公案の現成とは、いまここで現われて成就しているということである。なにが成就しているのか? もちろん仏である。以上から「現成公案」に意味することが鮮明に浮かび上がってくる。仏は世界とあらわれていまここに永遠に生きている。仏は永遠に実存している生きものである。すなわち「現成公案」とは、全宇宙はそのままにして仏のあらわれである。不変なる仏は変化する世界とあらわれていまここに生きているというのである。ここに生命は「一」という自覚があると思う。普通は変化する世界にはさまざまな生命があり、それらは別々だと思われている。しかし別々とみえるものは不変のただ一つである生命のあらわれである。この一つである生命こそは仏の正体となる。すべては一つであるこの生命のあらわれゆえに、その生命はわたしたちとは別ではない。わたしたちもまた生命のあらわれであり、生命がわたしたちとあらわれて生きている。この仏のあらわれにおいて、あらゆるものは別々でありながら一如である。全宇宙は一大生命体のあらわれであり、あらわれているものをおいて一大生命体はない。ゆえにあらわれているもの以外に仏を求めるのは間違いとなるわけである。たとえば『永平広録』の上堂語において道元は以下のように説かれている、すなわち、

「上堂、山僧(道元のこと)叢林を歴ること多からず、只是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞せられず、便ち空手にして郷に還る、所以に一毫も仏法無く任運に且く時を延ぶ、朝々日は東より出て夜々月は西に沈む、雲収って山骨露はれ雨過ぎて四山低し、畢竟如何、良久して曰く、三年には一閏に遇ひ、鶏は五更に向って啼く、久立下座」

ここで「一毫も仏法無く」といい、どこにも仏法なぞない、と道元は述べている。これは従来わたしたちが考えている仏法というものを否定しているのである。道元の説く仏とは、朝は日は東より出て、夜は月は西に沈む、朝は鶏がコケコッコーと啼く、三年後とに閏が訪れる……。それがそのまま仏のあらわれというのである。すなわち仏は世界と現成しており、現成している世界をおいて仏はない。これが「現成公案」の語の意味するところである。それは現成公案の巻をはっきりとあらわれている。ところがわたしたちは仏というものをこの現実世界の外に求めている。現実世界の外に仏や悟りはあると思っている。このような考えとまったく一線を画しているところに道元の特色があると思う。この現実世界がそのままで一つである生命(仏)のあらわれであり、あらわれている現実世界の外に仏を求めることの誤りを道元は強調して説かれているのが、この現成公案の巻である。それは文章を追って進んでゆくことでますますはっきりしてくる。道元はさらにわたしたちが現成公案を体現して生きてゆくには、すなわち仏と合一して生きるにはどのような生活態度をとればいいのか詳細に説いているところなどは、道を求めているひとたちにとって非常に参考になる巻ではないだろうか。 

ここで私はまず一つの立言をして現成公案の巻を提唱しよう。
「この世界は一つの大生命体であり、この世界はそのままに完璧である」
更にいうと大生命体が世界を現して、その世界を展開させている。しかしその創造主である大生命体と創造物である世界は別ではない。大生命体は世界を現して展開させることにより自らを展開させている。それ故に世界は大生命体の展開である。われわれも大生命体に生かされ、大生命体のあらわれとして、大生命体の中に存在しているのである。われわれが悩むのも悟るのも大生命体がそうさせているのであり、即ちあらゆるもの、一切の諸現象、あらゆる営為は好む好まぬに関係なく、この大生命体に生かされているものである。だから大生命体は絶対である。この絶対である大活動体、これを道元禅師は仏性ないし仏と称する。まず「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」から参究することとする。
この段は四つのパートに分かれる、すなわち(一)諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。(二)万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。(三)仏道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。(四)しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり、となる。以上を簡潔にまとめると(一)は世界の差別相をあらわし、(二)は世界の平等相をあらわし、(三)は世界は差別相と平等相の一如のものであることをあらわし、(四)はその差別相と平等相が一如である、そのもの自体とわれわれの生活と一如であることをあらわしている。そこでわたしがここで強調しておきたいのは(一)から(四)まではいずれも正しいということである。これらはすべて現成公案であるということを指摘しておきたい。この四つのうちのどれかが現成公案であり、どれかが現成公案でない、というものではないのである。これがとても重要である。それ故に現成公案は到底分別知では理解できないものであることは想像がつく。すなわち頭の中で現成公案とはこのようなものであろうと、現成公案を観念的に構築して、そこで知的納得を得るというわけにはいかないのであるし、またできない。卑近な言葉でいうと体得が必要であるのはいうまでもない。
まず「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」からみる。「諸法の仏法なる時節」とは「すべてを仏法の眼から見ると」というほどの意味である。諸法とは一切の諸現象、そして一切の存在のことである。そこで仏法の立場からこの世界を見てみるとということであるが、さてわたしたちが仏法の立場からすべてを見てみると「迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、仏あり、衆生あり」であり、そこには迷いと悟りがあり、修行があり(ここは修行ではなく修証であろう。修証すなわち修行と悟りであろう。というのもこの一文は対句により構成されているからである)、生と死があり、諸仏(悟りを開いている人)と衆生(未だ悟りを開かずに迷える人)があると説かれる。さて道元はなにをいわんとしているのだろう。迷悟、修証、生死、衆生、諸仏などは仏法の立場に立って世界を見るとき、あらわれてくるものなのである。いいかえると仏法は迷悟、修証、生死、衆生、諸仏をもってあらわれているのである。そうなると奇妙なことかもしれぬが、たとえばわたしたちが迷っている、わたしたちが死ぬ、それは既にわたしたちが仏法の中にいる証拠なのである、ないし既にわたしたちが仏法の眼でみている証拠なのである。以上のような考えは通俗的仏教と相当に異なるものであることがわかるだろう。えてして、わたしたちは仏法の世界すなわち涅槃の世界においては迷いはなく悟りのみであり、ないしは修行はなく悟りのみであり、衆生はなく諸仏のみであると思う。あるいは迷いもなく悟りもなく、修行もなく証りもなく、生もなく死もなく、衆生もなく諸仏もなく、そういったあらゆる二元対立的なものは超越してしまい、そこには二元性はなくなると考えるのである。しかしこれを道元は否定される。すなわち真の仏法はこの世界を超越するものではない。真の仏法はこの世界を超越した別のところにあるものではない。あくまで迷悟、修証、生死、衆生諸仏として顕現しているものであると説かれるのである。この世界は仏法のあらわれであるというのが真の仏法の立場なのである。
次に「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」。「万法ともにわれにあらざる時節」とはあらゆるものがそれぞれ我すなわち個的自己を立てないことである。通常われわれが自己と考えているものは妄想にすぎない。その妄想を払拭してみれば森羅万象には生死、迷悟などはないというのである。世界そのもの、即ち仏そのものには生死、迷悟、修証、諸仏衆生はない。仏そのものは空なのである。個的自己の立場に立ってみると仏そのものには生死、迷悟、修証、諸仏衆生があると見えるくるのであって、そうなると生死、迷悟、修証、諸仏衆生は仮象なのである。仏は個的自己に対しては生死、迷悟、修証、諸仏衆生と仮象的に現れるのである。その仮象的あらわれによって仏は個的自己に対して自らをあらわしている。仏は自らをそのようにあらわして、そのあらわしにより個的自己に対して説法しているのである。
これを理解するには生命というものが個々別々にあるものという常識を払拭しなければならない。良寛は辞世の句として「散るさくら、のこるさくらも散るさくら」と詠んだが、まさしくその通りであり、生死によってすべてのものがすべてのものとして存在している。たとえば桜は咲いたり散ったりすることにより桜は桜としてある。生命は生死により自らをあらわしているのである。すなわち生命そのものは生死するものではない。生命そのものは不生不滅である。そこで生死はなにかというと、それは不生不滅の生命のあらわる形式である。不生不滅の生命は生死の形式をもってあらわれているのである。奇妙なことと思えるかもしれないが、わたしたちが生死する、それこそがわたしたちが不生不滅の生命であることの決定的な証拠なのである。
これはわたしたちの常識と相当異なる。わたしたちは死ぬということは生命が死することと思っている。しかし事実をありのままにみればそうではない。生命は生じたものでもない。はじめからあるのである。生じたものでないがゆえに滅することもない。生じたり滅することのないということは生命は個々別々のものではない。生命はただ一つのものである。それは一つ、二つ、三つの一つではない。ただ一つのものなのである。すなわちこの世界はただ一つの不生不滅の生命そのものなのである。この生命のあらわれとしてすべてがある。つまり不生不滅の生命が生滅の形式をとってみずからをあらわしているのである。ちょうど海が生滅する波浪をあらわして、その生滅する波浪をもってして不生不滅の海は不生不滅の海としての自らをあらわしているようなものなのである。波浪の立場すなわち個的自己の立場からすると、すべてのものは不生不滅の生命により生かされているものであり、同時に不生不滅の生命そのもののあらわれなのである。
仏教的世界観からいうと「諸法の仏法なる時節」は般若心経でいう色のことであり、哲学的にいうと世界の差別相のことである。「万法ともにわれにあらざる時節」は空のことであり、哲学的にいうと世界の平等相のことである。ある一つのものがある。それを個的自己を立ててみると色(差別相)とみえるのであり、個的自己を立てなければ空(平等相)である。すなわち色と空は一つである。いわゆる色即是空、空即是色である。色空は同時に現成しているのである。その色空同時現成しているものが諸法(万法)である。すなわちこの現実世界である。色空同時現成とはどういうことか。先に述べたように、ある一つのもの、それは空であるが、しかし空は空のみにとどまらず、その空は時々刻々と色としてあらわれている生きものである。空には時間も空間も物も持っている。だから一切空きりとみなすのは誤りである。さて色は空の仮象的あらわれである。その色として空はあらわれている。だから仮象である色のほかに空はない。すなわち仮象として色空は同時現成である。その仮象(色空同時現成)こそがこの現実世界にほかならぬ。この事実をわれわれが体得するとき、そこに突如として仏道が顕現する。仏道とは仏として生きることである。仏として生活することである。その仏道の境涯とはいかなるものかというと、それが「仏道もとより豊倹をより跳出せるゆゑに生滅あり、迷悟あり、生仏あり」である。 
ここまで解釈してきたことから自明であるように仏道の境涯には色空はともにある、色空は一如であるがゆえに。だからこそ「仏道もとより豊倹を跳出するゆゑに生滅あり、迷悟あり、生仏あり」と道元は説く。ちなみに生仏ありの生仏とは衆生および諸仏の略である。さて「豊倹」という言葉が出てきたが、この豊倹の「豊」とは色すなわち諸法の仏法なる時節のことであり、豊倹の「倹」とは空すなわち万法ともにわれにあらぬ時節のことである。すなわち豊倹を跳出するとは空色からともに跳び出る。すなわち色空のいずれにもとらわれないことである。それはわたしのいう色空同時現成に目覚めることである。なぜ道元がここであらためてこのことを説かれるかといえば、凡夫的仏教観ではとかく仏を体現したものの境涯においては悟りもなく迷いもなく、生もなく死もなく、修行もなく証りもなく、衆生もなく諸仏もなく、一切の二元的なものはない、空のみがあるのみと考えるのである。すなわち「万法ともにわれにあらざる時節」をもって究極と考えるのである。これは少しばかり禅や仏教をかじった人が陥りやすいものである。色的認識を否定するのである。一切を空きりとするのである。しかし既に述べたように空は色をもってあらわれている大活動体である。だから上記のごとき凡夫的空認識は豊倹の跳出ではない。いわば倹(空)のほうに引っかかっているのである。またいわゆる一般人は色のみを認めて空を否定している。彼らは空なぞ妄想と考えているのである。このような凡夫的色認識は豊(色)のほうに引っかかっているのである。これまた豊倹からの跳出ではない。
両者ともに世界を静的に認識していることから、そのような誤りを犯しているのである。ようするに観念に世界を認識しているにすぎないのである。彼らの認識している世界は躍動している世界ではない。世界はありのままに認識してみれば静的なものではなく、諸行無常といわれているように不断に生々化々している生きものである。この生けるはたらきそのものをありのままに認めてみる。そこには色も空も同時にある。一方が一方を否定することはない。すなわちその境涯においては生滅も迷悟も修証も生仏(衆生諸仏の略)もある。生滅、迷悟、修証、衆生諸仏などの色はそっくりそのままに生滅、迷悟、修証、衆生諸仏のない空の現成である。空は色とあらわれ不断に展開向上している生きものである。あらわれている色をおいて空はないのである。
わたしたちは仏の境涯には生滅、迷悟、修証、衆生諸仏はないと考える。そこで生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏は厭うべきものと考える。しかし生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏のない、ただ一つの大生命体は生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の形式をもってあらわれており、生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の形式があって大生命体はある。生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏がなければ大生命体もない。それらは大生命体の重要な機関である。これは大生命体がはたらきそのものであるからである。また生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏というものがあればこそ、わたしたちが自らの大生命体であることを知るのであり、また大生命体になれるのである。生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏こそはわれわれが大生命体を体得するための門であり、大生命体のあらわれであり、またそのようにあらわれている大生命体そのものである。ここに生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の存在価値がある。またここに道元禅の独創的宗旨がある。道元禅師は存在するあらゆるものはことごとく仏(大生命体)のあらわれであり、それらは仏の偉大なる仏事とみるのである。ここに参じなくては道元禅はわからないのではないか。
だからこそ仏道すなわちわたしたちが仏として生きる、その生活には生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏はある。生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏がないなぞと考えたりするのは、その人たちが生きる大生命体を体現していない証拠である。生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏こそが生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏のない不生不滅不増不減の大生命体を知るためのよすがなのである。この事実を体現する時、もはや生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏の差別相に翻弄されることはなくなる。むしろ生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏などの差別相はわたしたちが仏として生きるための材料となる。それら差別相は仏の多様多元の戯れである。このときわたしたちは現実世界に翻弄されることはなくなり不壊の安心を得る。それらがわたしたちにむけての仏の説法であると目覚めるからである。ただ礼拝あるのみとなるからである。すなわち生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏を否定するのではなく、生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏を肯定して、生滅、迷悟、修証、衆生、諸仏から超越してしまうのである。それゆえに色空の両方を認めてはじめて色空からの跳出である。
次に「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」に進もう。この一文で道元はここまで述べてきたことをわれわれが観念的理解をもって満足する弊害に陥ることを打ち破ろうとするのである。まず「しかもかくのごとくなりといへども」とは何を指しているのか、それは無論、豊倹の跳出のことである。すなわちすべてはそのままで仏のあらわれであるということである。さてそこでわれわれが勘違いしやすいのは、その跳出を体得したら、この現実世界はそのままに仏のあらわれ(現成公案)なのだから、それを体得したわれわれにおいては花が散ろうとも惜しくはないし、雑草が生えようとも嫌とも思わない。そのような凡情はなくなってしまい、いわゆる煩悩はなくなっていると考えるのである。しかしここでもう勘違いしている。ようするにおのれ自身のありかたを豊倹の跳出に含まないのである。すなわち世界はそのままで仏のあらわれであると体得すると、おのれ自身は豊倹の倹のみになるものだと考えるのである。もちろんこれは真の豊倹からの跳出ではない。
しかしながら悟りを開いた人はこのような心境になるものだと考えている人たちはじつに多い。所詮は彼らにおいては「豊倹の跳出とはこのようなものだろう」と観念的に構築して理解しているにすぎないのである。この世界が仏のあらわれであると体得すると、自己から花が散ることを惜しむ気持ちも、雑草が生えるのを嫌だと思う気持ちもなくなるのではない。煩悩はなくならない。煩悩があることには変わりはない。しかし煩悩は煩悩そのままに仏のあらわれであると知るのである。わたしたちの愛惜の気持ちも棄嫌の気持ちも現成公案である。花が散ってしまうと惜しいと思うことも、雑草が生えると嫌だと思うことも大生命体すなわち仏が為さしめている。わたしたちが迷うも悟るも悉く仏が為さしめている。これが腹の底からわからなければ現成公案を体現したとはいえぬのである。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

前節において悉くは現成公案すなわち仏のあらわれであることが説かれていた。それは迷悟一如ということである。先述したように悟りも迷いも大生命体すなわち仏のあらわれである。自己は外界に迷わされては悟らされて悟らされては迷わされ、また外界は自己を迷わせては悟らせて悟らせては迷わせて、仏はその迷悟により無限に展開向上しているはたらきそのものである。仏はこのはたらきにより自らの仏であることを自証している大活動体である。
さてそこでいう迷悟すなわち迷いとはなんぞや。悟りとはなんぞや。それらを現成公案の立場からみて定義すると如何なるものかをここで道元は説かれているのである。すなわち先述されている「諸法の仏法なる時節」における迷悟をここで説かれるわけである。
まず「自己をはこびて万法を修証するを迷とす」からみてみよう。眼蔵はわたしたちの持っている常識からは理解しがたいのであるが、これなども常識的認識を暗黙の了解のうちに正しいものとみなしている限りは絶対に理解できないものである。さてこの文章において道元は自己と万法の関係から迷悟を定義されている。ところで「万法」であるが、ここでは自己との対比で用いられているから万法は自己に相対しているもの、要するに外界と考えてよい。また「修証」の語であるが、これは修行と悟りのことであり、道元は修行と悟りを別ものとみなさずに一つのものとみなす。そこで修証と一つの語をもってあらわす(この修と証が一つであること、すなわち修証一等に関しては弁道話を参照するとよい)。
さて花が咲くのも、太陽が昇るのも、りんごが木から落ちるのも、われわれが呼吸をするのも、朝めざめるのも、夜眠るのも、すなわち一切の諸現象そして自己の感情、思考、肉体の一切の営為も仏のはたらきによる。すなわちこの時間をもってして進行している現実世界の歴史的展開は擬人的に称すれば仏という宇宙精神のはたらきによる。そこで注意しなければならぬのは、先に述べたように現実世界を現実世界とあらしめている仏は、現実世界の外に居って現実世界を時々刻々と展開させているのではないことである。仏は現実世界を展開させ、展開させることにより自らを展開させているのであり、それゆえに世界は仏そのものの展開にほかならぬのである。だから、この世界はそのままに完璧であり一点も訂正する必要はない。しかしこれがなかなか理解されにくい。たしかに静的に世界を認識してみればことごとくが不完全であり、不完全でないものなぞありはしない。だが世界は変化そのものである。世界を静止画像のように認識して、そこに判断を下すのは誤りにほかならぬ。われわれのほとんどは世界を静止画像のように認識している。それは自己が変化する世界の外にあって、自己を不動のものとして世界を認識していることでもある。自己と外界を別ものと思っている。こうして世界を静止画像のようにみて、その部分部分をみて不完全ではないかというわけである。
しかし自己と世界は不即不離のものである。だから自己が静的に認識している世界、それは生きたものではなく妄想にすぎない。いわばわれわれは妄想上の世界に善悪吉凶禍福の判断を下して、世界は不完全であると考えているのであり、そう考えることによりいたずらに自己の身心を苦しめている。問題は自己のほうにある。ところが自己に問題があるとは考えずに、外界のほうに問題があると誤解して、自己ではなく外界のほうを正そうとする。これをわかりやすくいうと世界は不完全であると考えて、その不完全である世界(外界)を完全である世界すなわち自己の考えている理想の状態にせしめようとする。これが「自己をはこびて万法を修証する」である。「自己をはこびて万法を修証」しても問題解決の時節は訪れることはない。問題は外界ではなく自己にあるのに、自己にあるとしないで外界にあるとするのは、北に向かおうとして南に行こうとしているようなものだからだ。だから問題はますます混迷してくる。まさしく迷いにほかならないではないか。だから道元は「自己をはこびて万法を修証する」ことを「迷とす」と説かれるわけである。
だが大多数の人たちは道元の迷いと定義していることを迷いと思っていない。むしろ正しいことだと考えている。まずほとんどの人は正しいと思っているにまちがいないだろう。このことに関連するのだが「世界はそのままで完璧である」というと、ほとんどの人たちは、世界には根絶すべき否定すべき悪しきものがあるではないか、と反駁するであろう。しかし私は「世界はそのままで完璧である」と考えているから「現実を否定して理想を考え、その理想を実現しようとする努力こそが人類の最大の迷いである」という。するとほとんどの人たちは私のことを狂っているという。
どの分野においても人々は理想を考えて、その理想を現実に具現化しようと努力している。世間的にいうならば、世界の平和を理想とし、あるいは国の発展を理想とし、あるいは会社の発展を理想とし、あるいは家内安全を理想とし、人格円満を理想とし、その理想を実現とすべく努力する。出世間的にいうならば、禅的傾向のある人ならば大悟することを理想とし、真宗的傾向のある人ならば弥陀の本願のままに生きることを理想とし、キリスト者ならば神の御心のままに生きることを理想とし、その理想に到達せんと努力する。ともかくも或る理想を考えてその理想に到達せんとする努力を誰しも悪いものとは考えていない。むしろそれを正しいことと考えている。まず正しいと考えている人たちがほとんどであろう。つまり大多数の人は「自己をはこびて万法を修証する」ことを迷いとは全然思っていない。だからこそ私のようなことを言うものは狂っていると思う。さて私は狂っているのか。
私は先に「私が現実はそのままで完璧というと、ほとんどの人たちは世界には根絶すべき否定すべき悪しきものがあるではないかと反駁する」と記したのだが、ここにこそ人類の迷いの根っこがあると思う。それは道元が「自己をはこびて万法を修証する」を迷いという由縁でもある。それは或る理想を考えることと密接な関係にある。世界に悪しきものがあると考える、それはなんに対して悪なのかというと、それは自らの考えている理想に対してである。自らが考えている理想状態にはあってはならないもの、その理想に達するのに邪魔なもの、それさえなければ理想状態になるであろうもの、それを私たちは悪と考えている。それだから悪と理想と表裏一体である。理想を考えると、そこに肯定すべきものと否定すべきものが自らの生きている世界・人生に出現してくる。その出現してきた否定すべきものが悪であるのだ。だから理想という光が強ければ強いほど、悪という影は濃くなってゆく。すなわち自分の考えている理想が正しいものであると思えば思うほど、正しいと信じれば信じるほど、自らの理想状態を邪魔するものとみなしている悪を憎む気持ちはますます強くなってゆく。人類の歴史は別言すると戦争の歴史である。なぜそんな事態になっているのか。その根本要因は理想を立てて、その理想を実現するべく努力することを正しいと思っている、そのことにある。すなわち戦争の根本要因は私たちの一人一人の心の中にあるのだ。私たちが暗黙のうちに正しいと思っていること、そのことこそが私たちの心を憎悪に駆り立て、その私たちの憎悪に染まっている心が世界を醜悪なものにしているのだ。
さて迷いは以上のごときものだが、では悟りとはなんぞや。それを道元は「万法すすみて自己を修証するは悟なり」と説かれる。万法すなわち外界に対する認識が先述の迷いの場合とはおおいに異なっていて、修証すべきは外界ではなく自己になっていることに注意しなければならない。すなわち自己にとって万法すなわち外界は不完全なものではない。それどころか完璧である。自己からみると外界は仏の説法的あらわれである。仏は千変万化する外界とあらわれて説法を為して自己を修行させて悟らせているのである。「万法すすみて自己を修証するは悟なり」とは目前の外界を仏の説法として聞いて、それにより自己を修行して悟ってゆくことにほかならない。
では目前の外界を仏の説法として聞いて、それにより自己を修行して悟ってゆくとはなにか。普通の人たちは直面する外界を常に無意識的に自動的に吉凶禍福に置き換えて一喜一憂している。そして自らを外界の被害者ないしは犠牲者と考えて、自らに被害や犠牲を強いる外界を変えようとするが、それをしないのである。直面している外界をありのままに受け入れて、その中で自己のできることを精一杯やる。病気にあえば病気で修行して病気で悟る。災禍にあえば災禍で修行して災禍で悟る。他者にあえば他者で修行して他者で悟る。これを道元は現成公案における悟りといわれるのである。すなわち諸法の仏法の時節における悟りといわれるのである。
外界により自己を修行してゆくとは、不断に千変万化している外界に即応してゆくことである。それは外界に相対している自己の徹底否定である。それは外界を変えようとせずに許容してゆくことである。変えようとする心を溶解させることである。それは外界を変化させるのではなく自己を変化させてゆくことである。
だが人間にはそもそも人類という種として根深い保守性がある。人類という種を保存してゆこうとするのである。それは個人においては変化することを好まぬ傾向としてあらわれる。われわれの大多数は変化することをじつは望んでいないのである。うらをかえせばわれわれは現実世界すなわち外界に対して深い不安感を持っていることを意味する。だからこそ大多数の人たちは口では自己の変化成長を望んでいるとはいうものの実際はそうではない。外界に対する不安を解消すべく自己の理想とする状態に外界を改善しようとするのである。それは外界を許容することではない。自己の許容範囲を広げようとするのではなく、外界にむけて自己をおしつけているにすぎないのである。自己を変えようとはしない。しかし「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」とは外界を自己の都合により変えようとしないで、むしろ外界に対して自己を立てずに許容してゆく。それは外界に対立して自己をあらわしてゆくのではなく、むしろ外界により自己をあらわしてゆくことである。
このとき外界は自己をあらわす材料となっている。つまり自己が直面する外界すなわち災禍であれ、病気であれ、他者であれ、悉くが自己のあらわれである。すなわち自己即外界となってくる。このとき自己を修行させている外界と、外界により修行させられている自己が別でなくなってくる。修行させるもの・修行させられるもの、悟らせるもの・悟らされるものは一つであることが自覚されてくる。ただ一つのものが自己と外界としてあらわれている。
実在するものはただ一つのもののみである。
ここで留意すべきは自己即外界とは自己と外界の二つがあって、それらが一つということではないのである。自己は相対する外界をもたない、また外界は相対する自己をもたない。自己といえば自己のみで外界はない。外界はことごとくは自己のあらわれである。同様に外界といえば外界のみで自己はない。自己といえば自己きり。自己は自己だ。外界といえば外界きり。外界は外界だ。実在しているものは自己といえば自己のようであり、外界といえば外界のようである。自己も外界も「〜のような」すなわち「如」であって、仮象である。
自己も外界もそれ自体として実体を持つものではない。すなわち自己も外界もただ一つとしかいいようのない仏そのものの仮のあらわれと目覚めるのである。
自己が仏のあらわれであり、そのようにあらわれている仏そのものであると目覚める。同時に外界も仏のあらわれであり、外界は外界とあらわれている仏そもののであると目覚める。自己が成仏すると同時にすべてが成仏する。いわゆる草木山川悉皆成仏である。宇宙は一大生命体であり、あらゆるものは一大生命体のあらわれなのだ。私は一大生命体のあらわれの一部分であると同時に、私という一部分とあらわれている一大生命体そのものなのである。
次に「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」を参究する。諸法の仏法なる時節における迷悟修証については既に前文で定義されたわけである。その迷悟修証の定義を用いて、次には現成公案における諸仏と衆生とはいかなるものかを説かれている。深く参究しなければならないところであるといえよう。
そこでまず諸仏とはなんぞや? それは「迷を大悟するは諸仏なり」である。諸仏(覚者)とは迷いを大いに悟る人であるといわれる。諸仏は自己をはこびて万法を修証することが迷いにほかならぬと大いに悟る人であるといわれる。諸仏というと迷わぬものだと考えてしまうがそうではない。諸仏も自己をはこんで万法を修証しようとするのである。わかりやすくいうと自己の理想をもってして外界を改善しようとするのである。しかしそれが迷いであることを悟るのが諸仏であるという。いうなれば迷って悟るのであって迷いなくして悟りはないのである。この迷いなくして悟りなしに関しては後述されている「さらに悟上に得悟する漢あり」のところで更に参究してみよう。
次に「悟に大迷なるは衆生なり」であるが、これは仏は外界とあらわれて自己を修行させて悟らせていることに気づかずに、自己をはこびて万法を修証せんとしていて、その行為が迷いであるとはぜんぜん思わない人のことである。つまり自己の理想をもってしてあるがままの外界を変えようとしており、そのことの迷いであることを自覚していない人たちのことを衆生であると道元はいわれるのである。
次に「さらに悟上に得悟する漢あり」とあるが、ここに道元の創見があるといえよう。これは安易に読むと悟りに段階があるものと勘違いしてしまう。ここはなにも悟りに段階があることをいわんとしているのではなく、悟りは果てしなく深化向上してゆくははたらきであることをいわんとしている。先述されていたように諸仏は迷を悟ることであった。そうなると悟上に得悟するとは迷いはなくならないことを意味する。すなわち迷っては悟り、悟っては迷い、そのはたらきは無限であることをいう。この境涯について解説してみよう。既に説かれているように悟りは万法すすみて自己を修証することであり、それはあるがままの現実そのままに完璧であり、すなわち世界がそのままに仏のあらわれであると目覚めることである。それ故に仏道は「〜でなければならぬ」という理想主義とは真っ向から対立するものであり、「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」は理想の徹底否定の生活である。理想こそが悟りを体現する上での最大の障害である。
しかしここで疑問があるだろう。「なぜ理想を問題視するのか。理想は欲望から生じるものである。ならば問題は欲望にあり、従来から奨励されているように欲望を絶てばいいのではないか。無欲を志向してゆけばいいのではないか」と。
しかしここで欲望と理想は違うことに留意しなければならない。理想は欲望から生じるものであるが、しかし欲望はわれわれの意識する以前のところから起こるものであり、すなわち欲望は人為により生じたものにあらず、それは人間にあらわれた仏の意志にほかならないのである。しかしその欲望と異なり、欲望から生じてくる理想はわれわれの観念概念をもちいた人為的作業により作られたものである。それは躍動する現実ではなく観念概念上のものにすぎない。すなわち理想はその性質自体があるがままの現実である仏の説法的あらわれと争うものなのである。現実は「かくあるべき」といった理想を持ち、その理想により現実を人為的に変えようとすることが一切の苦悩の要因である。
欲望が苦悩の要因ではない。理想こそが苦悩の根本要因である。
だが、ここでまた疑問があるだろう。なぜならわたしは先にあらゆるものは仏により為さしめられていると述べたからである。そう、われわれに理想を生じさせるのもじつは仏なのである。
すなわち仏はわれわれに欲望を持たせて、その欲望からわれわれに理想を持たせて、あるがままの現実と対立せしめることにより、われわれを苦悩させて、その苦悩により理想を実現することの誤りを気づかせて、あるがままの現実の仏のあらわれであることを自覚させ、修行させ、悟らせているのである。われわれは修行している仏なのだ。
理想とは一般的に考えてられていることとは異なり、それを実現させるため存在しているのではない。理想とはあるがままの現実の仏のあらわれであることを自覚させるためにあるものなのだ。自己は外界のほかに生きるところはない。自己即外界であり、既に自己が自己であることが仏である証拠なのである。その意味で誰しも仏として生きてはいる。しかしそれは無意識無自覚に生きているにすぎない。理想とはそれを実現させるためにあるのではなく、あるがままの現実すなわち世界とあらわれている仏をわれわれが無意識・無自覚にではなく意識的自覚的に生きるためにあらわれているものなのである。
さて以上から欲望の意味あいも知られてくると思う。欲望とは理想を生じさせて、あるがままの現実と対立させて自己を苦悩させて、自己の誤りを露呈させるものなのである。欲望こそは自己をして修行させて悟らせるための生きた教えをあらわす原動力にほかならないのだ。
現成公案においては欲望否定どころか欲望肯定である。迷って悟る。しかしそれは一度きりではない。迷っては悟り、悟っては迷い、迷っては悟り、悟っては迷い、そのはたらきは無限である。迷悟はあらゆるものとしてあらわれている唯一なる大生命である仏の更新作用である。仏はわれわれの迷悟により自らを更新しているのだ。この大生命のはたらきを迷いといえばずっと迷い続けるものである。また悟りといえば悟りずっと続けるものである。このはたらきは迷といえば迷のようなもの、悟といえば悟のようなもの。すなわち迷悟はともに一つのものの仮のあらわれ、すなわち一如である。煩悩即菩提とはこの一如を体現してはじめて言えることだと思う。
かくして迷を大悟する諸仏はかならず悟上に得悟の漢(人間)としてあらわれる。迷いを大悟するということは諸仏の境涯においては喜怒哀楽はなくなることはないことを意味する。喜怒哀楽こそが仏の意志を知るよすがなのだ。一見すると諸仏(覚者たち)は喜怒哀楽を超越しているように見える。しかしそれは喜怒哀楽がないのではない。多くの人たちは誤解している。諸仏においてはあるがままの現実(外界)を許容する、その許容範囲が広く高く深くなっているから、その喜怒哀楽の振幅ももちろん広く高く深い。だから一見するとないようにみえるのだ。諸仏に喜怒哀楽はないのではない。喜怒哀楽こそは凡愚の凡愚たる所以のように考えられている。しかしその喜怒哀楽こそは諸仏の境涯にまでつながっているものなのだ。
以上、道元の説かれてきたものをみてきて「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく」のいわんとしていることは明瞭であろう。既に述べてきたことから明らかなように、まさしく自己は迷いから逃れることはできない。しかし自分が迷うことこそ自己の諸仏であることを知り、諸仏として生活するためのよすがなのである。また悟りは万法がすすんできて自分を修行させて悟らせてくれるのであり、自分は修行させられ悟らされているものゆえに、諸仏は決してその悟りを自己の功績として誇ることはない、心の中でも考えないし思わないのである。その要因を自己ではなく万法に帰するものであると知悉しているからである。その万法をたとえば人に限ってみるならば悟りを自分ではなく周囲のひとたちの功徳に帰するものだと考えるものなのである。ただ周囲の人々への感謝があるのみである。そこに自分を誇る気持ちはないのである。順縁を感謝するのは当然ながら逆縁にも感謝するのである。ただ万法への感謝があるのみである。おのれを誇る気持ちはない、ただおのれの愚かであることを痛感するのみ、おのれの迷えることを痛感するのみ。それゆえに諸仏がまさしく諸仏であるとき、諸仏は自分が諸仏であるとは考えないし思いもしない。しかしその生きざまは、その行為は、その存在は、すなわちその生活そのものは諸仏であることを明白に証明しているのである。

身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

前に引き続き、ここも諸法の仏法なる時節について説かれているものである。ここは諸法の仏法の時節において、万法がすすんできて自己を修行させ悟らせている、自己は修行させられ悟らされている、その境涯における風光とはいかなるものかについて説かれているものである。すなわち仏として修行させられ悟らされている人がどのように外界を認識しているかを説かれている。悟りとは不断に生々成々化々している現実を仏の説法と認識して、その説法を聴くのであり見るのである。「見取」ないし「聴取」とあるが、なにも見聴の二つのみに限らないことにここで気づかなければならない。
さて「身心を挙して」とあるが、これが重要である。わたしたちが色を見て、声を聴いている。それは既に如として現じている仏を見聞きしていることであり、それはわたしたちが既に仏の世界に生きていることの証左なのであり、道元や臨済のみならず誰しも仏界に住しているが、しかしここで道元や臨済とわたしたちとの違いはどうして発生するのか。彼らは現前の外界を許容して生きているのであるが、わたしたちは背いて生きているのである。すなわちわたしたちは自己の好嫌により、現前の仏の説法である外界に逆らっているのである。だが逆らうとはいうものの、それは心の中でできるにすぎない。なぜならいまここの外界のほかに生きるところはないからである。つまり現実を仏の説法として聴聞せずに逆らう人は、心の中で外界に逆らうのみであり、しかし外界のほかに生きるところはないのだから、彼らは不断に展開している外界に引きずられて生きているのである。心ではいまここを許容していないが、しかし身に関していうと、その身は常にいまここの外界を生きているわけである。すなわち外界を仏の説法として認識せずに、あれこれ取捨選択して外界を許容しない人たちの身と心は分裂しているのである。身心ともに挙していない。どちらか片方しか挙していない。すなわち「身心を挙して」いない。ところが万法すすみて自己を修証している人、すなわち万法を仏の説法とみて、これにより自己は修行させられ、悟らされていると自得している人はそうではない。身のみならず心も目前の外界に投入して生きているのである。「身心を挙して」いるのである。身心をともに外界に投入して生きているのである。すなわち身心を挙げて外界を見聞きしている人は外界にさからわず外界と一体になって生きている。それは外界と現れて活動している仏と一体になって生きていることである。だから身心をあげて外界を見聞きすることは外界と一体になって生きることであり、それは仏と一体になって生きることである。
次の「したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし」とある。これはその世界の風光を端的に述べたものである。さて仏は万法と現じて人を修行させ悟せている。そこで万法を仏の説法的あらわれとみて、それを見聴してゆくのが悟りであるが、ここで注意しなければならぬのは、人は見聴といった五感のはたらきにより仏を悟るのであり、そのはたらきによらずしては仏を悟れない。しかしながら見聴する、そのはたらき自体が仏ではない。つまり見聴といった五感により、五感を超越したものを体得するわけである。このとき体得したという自己もなくなり、だから「体得した」というのもなくなり、ただ仏のみが露出している。そこで人が身心を挙げて万法を見聴する。このとき万法が仏のあらわれであり、万法としてあらわれている仏そのものであると会得するのであるが、しかしこのとき鏡の中に影をやどすように、あるいは水面に月が映るように万法の中に仏を見聴するのではないのである。ただ見聴している万法があるばかりなのである。ここが肝要なところで体得の難しいところでもある。
たとえば渓流の音を聴いていたとしよう。人が悟りの真っ只中に居るとき、ただ渓流の音のみであり、そこに仏らしきものはまったくないのである。これは例の眼横鼻直とまったく同断である。ではなぜそのように体認されるのか。渓流の音は仏のあらわれであり、あらわれている渓流の音のほかに仏はないからである。仏と渓流の音の二つがあってそれが一つなのではない。仏と渓流の音は一つである。それ故に渓流の音とあらわれたら渓流の音のみで仏はないのである。これが「一方を証すれば一方はくらし」である。「くらし」とは隠れるの意味である。
このとき渓流の音は従来のままでありながら、しかし異なったものとして聴こえるのである。これを説明してゆこう。このとき渓流の音のみが聴こえるのである。もちろん音は渓流の音だけではない。しかしこのとき他の音は聴こえないのであって、他の音は渓流の音の中に隠れてしまうのである。「一方を証すれば一方はくらし」である。またこのとき聴いている人もいない。聴いている人も渓流の音の中に隠れてしまう。すなわち「一方を証すれば一方はくらし」である。また全宇宙が渓流の音である。渓流の音以外にも宇宙には様々なものがあるが、それらが尽く渓流の音の中に隠れて、全宇宙は渓流の音としてあるのである。すなわち「一方を証すれば一方はくらし」である。
既に述べたように、このときその現前に相対していると思っていたわれはいない。人が現前のものが仏のあらわれと悟るとき、その際に認識している現前のものは全宇宙を覆いつくしていまい、それをおいて外にわれはないのである。だから「おれは悟った」という、その「おれ」すらなくなってしまうのであり、このとき現前のもののみがあるばかりであり、それは仏のあらわれとして光かがやいているのである。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

まず「仏道をならふといふは自己をならふなり」。仏道とは先述したごとく仏として生活することであるが、さてその仏であるが、自分を仏ではないと考えて、修行により仏になるのではない。それは誤った考えである。そもそも自己は「諸法の仏法なる時節」の自己であって、すなわち自己ははじめから仏であって、わたしたちははじめから仏のあらわれである。このことをならうことが仏道をならう、すなわち仏道修行である。なんのことはない。仏道は自分自身に成り切ることなのである。仏道は遠い遥か彼方にあるのではない。これほど近いものはないのである。この自己が仏そのものであり、仏のほかに自己もない。その自己が仏をならっている、仏をならい、仏をあらわしゆきつつあるのである。
次に「自己をならふといふは自己をわするるなり」。既に述べたように自分自身を仏ではないと決めつけて、修行して仏になろうとすることはあやまりである。それは自己をならうことではない。ではどのように自己をならったらいいか。それは「自己をわするるなり」である。ここの自己は先の自己とは異なる。忘れなければならぬ自己とは自分自身を仏にあらず衆生であると決めつけている自己である。仏道修行とはじつは簡単なのである。自分自身は仏ではないという妄想、妄想の自己を根こそぎ忘れてゆくことに尽きるのである。
ではどのように自己を忘れてゆけばいいか。それは「万法に証せらるるなり」である。これは既に説かれているものであり、万法すなわち自己の外にある外界によって修行させられ悟らせされてゆくことである。人生において遭遇する出来事にしても、また出会う人たちにしても、その人たちの為すことも、それらはことごとく自己を仏として修行せしめ、自己が仏であると悟らせている仏の説法として受け取ってゆく生活である。順縁も逆縁もことごとくが感謝の生活である。これが「万法に証せらるるなり」である。
その「万法に証せらるるなり」であるが、その内証はいかなるものか。それが「自己の身心および佗己の身心を脱落せしむるなり」と説かれる。人生そのものを仏の説法として、それにより修行してゆく生活態度は、この現実を自己の近視眼的な選択により、許容したり、しなかったりということではない。全面的に許容するのであるから、それは外界に対立している自己を無にしてしまうことである。外界に対立している自己はなくなるのである。これが自己の身心を脱落することである。それは自己に対立している外界もなくなることも意味する。これが他己の身心が脱落することである。
ところでここで付言しておこうと思うが、文中に「自己」に対比して「佗己」という言葉を道元は用いているが、これはここまでの説明から自明であろう。佗己とは他己ということであり、すなわち他とあらわれているおのれ(己)であり、自己とは自分とあらわれているおのれ(己)である。そのおのれ(己)とはもちろん仏のことだ。自他の身心脱落とは自他がそれぞれ固有の実体をもたず、仏の仮象的あらわれであり、仮象的にあらわれている仏そのものであると目覚めることなのである。われもかれもすべては如なのだ。わたしはわたしの如くあらわれている仏、瓦礫は瓦礫の如くあらわれている仏、禍福は禍福の如くあらわれている仏。すべては如(仮象)である。仮象ゆえに、そこにはもはや時空物はない。すべては如として顕現している不生不滅の仏である。以上が身心脱落の消息である。
次に「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」。「悟迹」とは悟りの跡(迹)という意味で、悟ったという意識ないし自覚のことである。そこで「悟迹の休歇なるあり」とは、自他身心脱落においては「おれは悟った」という意識はないことをいう。悟ったという自覚があるうちは本当の悟りではない。というのも悟ったという自覚があるということは悟りでないものがおのれにあったことを意味するからである。自分が悟ったなぞという自覚があるということはそれ以前の過去の自分は悟っていなくて、今の自分は悟っているとみなしていることを意味しているわけである。すなわち彼においては過去の自分も現在の自分も未来の自分も悉く仏のあらわれであることを自覚していないことを意味する。いまだ悉くが仏の現成であることを知らないのである。真に仏のみがあるのみと自覚しているならば、換言すればおのれが真に悟りを開いているならば、本当にあるものは悟りばかりであるから、悟りならぬものはどこにもない。現在の自分のみならず過去の自分も未来の自分も悟っていなかったことなぞないのである。「おれは悟った」という自覚は以前のおのれは悟っていなかったことを前提にしてはじめて成立する。しかし悟っていなかったことなぞ実はなかったのであることに目覚めるわけだから、その目覚めの際にはおれは悟ったという自覚すらなくなる。悟った時もなく、悟った処もなく、悟ったおのれもなく、なにもかもなくなる。だから「わたしはいついつ、どこそこで悟りました」というのは本当はうそなのである。おのれが真に悟りに成り切れば悟りを忘却するのである。しかしそれこそが真に悟りそのものになったことの証左なのである。
そこで自ら悟ったという意識すらしていない悟り、すなわち過去においても現在においても未来においても仏にあらざるものはなに一つない境涯を生活してゆくのである。自らの生活によりあらわしてゆくのである。これが「長々出ならしむ」である。この「長々出ならしむ」の生活こそが仏道のギリギリの奥処である。すなわち「長々出ならしむ」とは先述の「仏道をならふなり」にほかならない。またそれは「自己をならふなり」であり、またそれは「自己をわするるなり」であり、またそれは「万法に証せらるるなり」である。つまり仏道には終わりがない。仏道はかならず万法に証されるる生活――すなわち外界により修行させられてゆく生活としてあらわれる。だから「すでに仏であるなら、なにも仏道をならわなくともいいではないか」とか「すでに仏ならば修行は必要はない」という考えは誤りである。そのような考えを持つ彼らのあるがままで仏であるという理解は所詮観念的理解にすぎない。彼らにおいてはもはや修行がない。しかし修行のほかに仏はないのである。別のところで道元がいっているように修証一等のほかに仏はないのである。

人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

ここは二つに分けて参究する。まず「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」。ここでいう法とは仏法のことである。そこで人がはじめて仏法を求めるとき、求めている仏法に近づくどころか、はるかに仏法の辺際から隔たってしまうと説かれる。その理由はここまで現成公案の巻を読んできたからには自明である。あらゆるものは諸法の仏法なる時節であって、仏法のあらわれである。人は既に仏法の中に居る。いいや、人も既に仏法のあらわれである。それ故に「求める」ということがそもそも誤りである。仏法を求めれば求めるほど仏法から離れてしまう。仏法を求めることはまさしく迷いである。
しかし、それならば仏法を求めなければいいかというとそうではない。ここでも迷悟はともに現成公案であることを想起しなければならない。「迷を大悟するは諸仏なり」と先にあったように、迷わぬものには決して悟りを開くことはないのである。迷いなくして悟りなし。わたしたちが迷う、それはまさしく仏の大慈大悲なのだ。わたしたちが「さあ、ここで迷おう」と意図的に迷うことはできない。既に述べたようにわたしたちが迷うのも、意識以前の仏のはたらきによるのである。迷いが生じたということはわたしたちが悟りを開く準備が完了していることであり、仏の慈悲がまさに自分自身に垂れているのである。この大慈大悲なくして人が悟りを得ることはない。法をもとむることははるかに法の辺際を離却することであるが、しかしはるかに法の辺際を離却しなければ、法のおのれに正伝するときは永久にないのである。
さてその仏法がおのれに正しく伝わるとき、どうなるかというと、それは「すみやかに本分人なり」である。仏法が正しく伝わるとは自分自身が仏のあらわれ(如)であり、如として現じている仏そのものであると自覚することである。おのれの仏であることに目覚めた人を「本分人」という。それは「すみやか」である。目覚めに段階はない。即座に仏そのものに目覚めるのである。また仏そのものに目覚めることはかならず即座である。なぜ即座なのか。自己ははそのままで仏のあらわれであることの事実に目覚めるからである。わたしたちが仏に目覚めるとき、自己において仏にあらぬものは一毛もない。一毛もないわけであるから悟りには段階なぞないことは明白であろう。悟りは徐々に目覚めてゆくものではないのである。この「すみやか」は時間的なものではない。時間がなくなるのである。それゆえ「すみやか」は時間的にパッと悟るようなものとして理解してはいけないのである。
次に「舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」を参究する。いわゆる仏教を信仰している人、いいや仏教にかぎらずに宗教を信仰している人たちで、道元がここに説かれていることを真に理解している人はまれであろう。そこで本文を逐語的に解釈してみよう。
「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく」人が舟に乗って川を進んでゆく。そのとき、自分のほうはじっとしているが、両岸のほうが移りゆくようにみえる。これは現代のわたしたちからすると電車にのっているときを考えてみるといいだろう。さてそこで自分はうごいておらず両岸のほうがうごいているように思われる。しかしもちろんそうではない。「目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく」目をしたしく舟につけて見れば舟のほうが動いているのであって岸のほうが動いているのではないことがわかる。もっともそんなことはあらためて言うまでもないことだと思うだろう。
しかしそうだろうか。というのも大多数の人たちは外界のほうがうごいており、自分のほうは動いていないという犯しているからである。わたしたちは森羅万象が生滅しているものであると知ってはいる。しかしながら外界は生滅する、だが自分の心は常住であると考えているのである。たとえばいわゆる通俗的仏教では滅する万物万象があり、その滅する万物万象と並行して不滅の心があると考えている。ここからいわゆる霊魂不滅説ないし輪廻転生説が生じているのである。すなわち万物万象は滅する。わが身は滅する。しかしその滅するわが身の中には心というものがある。その心は滅する身と異なって不滅である。その不滅の心は滅する身に生まれ変わってゆき、成長してゆくものであり、悟りを開くと、もはやこの滅する身そして滅する万物万象の世界には戻ってくることはないと考えられている。
しかしここでもうすでに先の舟のたとえでもって指摘されている誤りを犯しているのである。すなわち「自心自性は常住なるかとあやまる」と道元の説かれているあやまりを犯しているのである。これを身と心の対比によって説明してゆこうと思う。というのも自心自性は常住であり、そのほかのものは滅するものであると考える、その考えは端的にわたしたちの身心観に如実にあらわれるからである。すなわち「身は滅するもの、心は不滅のもの」といった、身心は別であるという身心分離の身心観としてあらわれるからである。
さて身心は別であり、身は滅するもので、心は常住のものなのだろうか。ここでめをしたしくして心をみよう。めをしたしくこころにつけてみれば、笑った心が悲しむ心となり、悲しむ心が憂いの心となり、憂いの心が怒りの心となり、心は不断に変化しているものである。すなわち心も滅するものである。そうなると身は滅するもの、心は常住のものとみなすのは誤りである。滅といえば身心ともに滅するものなのである。それゆえに身は生滅変化するもの、心は常住永遠なるものという認識は錯覚である。
また心が常住というならば身も常住である。常住といえば身心ともに常住なのである。この自分の肉体は父母の肉体の続きであり、父母の肉体はその父母の肉体の続きであり、その父母の肉体も――。こうしてさかのぼってゆくと、この肉体は生じた時というものを持たない。生じた時がないがゆえに滅する時もない。いわゆる個人の肉体はこの無始無終の肉体のあらわれであり、その個人の肉体の生滅は無始無終の肉体の一部分の生滅にすぎず、肉体そのものは常住である。個人の肉体の滅は肉体そのものの滅ではない。だから心が常住であり、身は滅するものとみなすのは錯覚である。滅といえば身心ともに滅である。常住といえば身心ともに常住である。身心は一如なのだ。それゆえに身は滅、心は常住という前提のもとに考えられている、いわゆる霊魂不滅説ないし輪廻転生説は妄想にすぎない。ともかく身心は別ではない。身心は一如である。すなわち身心は一つの如(ごとし)である。一つのものがあるのみであり、その一つのものは身のようであり、心のようであり、すなわちある一つのものがある。その一つのものが身心として仮象的(如)にあらわれている。身心はある一つのものの仮象的あらわれなのである。それゆえに身心は個別的実体をもたない。個別的身、個別的心なぞありはしないのである。ここで「万法のわれにあらぬ道理」が明らかとなる。万物万象にわれというものはない。悉くは一なるものの仮象的あらわれである。仮象――すなわちすべては如だ。生命は常識で考えられているように、ここかしこにあるものではない。一つのものである。宇宙はただ一つの不生不滅の大生命体(仏)である。あらゆるものは一大生命体のあらわれであり、すなわちあらゆるものは如であり、如として現じている一大生命体であり、如のほかに一大生命体はほかにないのである。

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

ここを理解するにあたり、仏教における生死とはなんぞやということに触れなければならない。仏教において考えられている生死はわたしたち現代人の考える生死は、生死という言葉は同じでも、それが意味することは異なる。これを理解するにあたり仏教成立の背景を知らねばならない。仏教はバラモン教の世界観を土壌として出現している。そのバラモン教の世界観とはなにかといえば、現代人のわれわれが時間空間物質の三つが実存しており、この現象世界はそれらの三つにより成立していることをまるで疑わぬように、当時のインドの世界観においては輪廻転生説が暗黙の前提であった。輪廻転生説とは前生・現世・来世の三世輪廻観のことである。この現世の前には前世があり、また現世の後には来世があるとする。前世の死は現世の生となり、現世の死は来世の生となり――すなわち死したものは生じて、生じたものは死して、死したものは生じて、そのサイクルは永遠に続いてゆくという考えである。この見地から仏教でいわれている生死を考えなければならない。つまり仏教における生死の「生」とは、わたしたちが通常用いているがごとく”生きる”という意味でもなければ、”生活”という意味でもない。じつに”生じる”の意である。そこで仏教でいう生死とはなにかというと、生じたものは死して、死したものは生じて――すなわち生は死となるもので、死は生となるものであるのだ。この仏教の生死観を想定において道元は正法眼蔵を記されている。ここを徹底的に腹に入れておかなければ仏教も正法眼蔵も道元禅師の真意もわかりはしない。
仏教では四苦ということをいう。四苦とは生老病死のことである。この四苦にしても三世輪廻観から理解しなければならない。たとえば四苦のひとつとして「老」を苦の一つとしてあげているが、老いることを苦とする、その根拠は老いそのものが苦なのでもなく、現世の生に執着するがゆえの苦でもなく、老いは現世の死の予兆であるから苦なのでもない。老いることは現世の死に続いている。その現世の死は来世の生に続いている。すなわち仏教において老を苦とするのは、さらなる再生への恐怖を根拠としているのである。これは四苦の「病」についても同様である。老が老そのものを苦としないのと同様に病も病そのものが苦なのではない。病は現世の死の予兆であり、その現世の死は来世の生の予兆であるから苦なのである。つまり四苦の生老病死の四つは別々の苦しみなのではない。苦とは本質的に一つである。仏教の苦とは繰り返すこと、すなわち永続性・永遠性・連続性への恐怖である。そしてそれは三世輪廻観を前提としている。この永続性に対する苦からの解放、これが仏教がテーマとしているものである。
さて本文の参究に入ろう。じつのところ前節の「人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし」云々はここの文章で説かんとしていることの伏線である。前節で万物万象は滅といえばことごとく滅であり、常住といえばことごとく常住であると述べたわけだが、それは滅と常住が一つであることを意味する。すなわち生滅と不生不滅は一つである。それは万法われにあらぬ道理であり、生滅する個別的実体というものはない。実在するものはただ一つの不生不滅の当体があるのみであり、では生滅はなにかというと、生滅するものは不生不滅の仮象的あらわれであり、不生不滅の当体のあらわれる際の形式である。不生不滅の当体は生滅をもってしてあらわれるのである。生滅は不生不滅の当体の機関である。不生不滅の当体――すなわち仏は生滅をもってしてあらわれているのである。以上を頭にいれて参究しよう。
まずは「たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」。薪が燃え尽きて灰となる。しかしその燃え尽きた灰が薪にはならないという。これはわかりやすい。当然といえば当然である。しかし道元は続けて「しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」とあるように灰は後、薪は前と受け取ってはならないと説かれる。ここで常識と大いに異なることを述べられる。わたしたちにとって灰は後、薪は前とはあたりまえのことではないかと思われる。それをわざわざこのように説かれるのはどういうことだろう。わたしたちは灰が後で薪が前と考える。ここでもうわたしたちは「万法のわれにあらぬ道理」を忘却しているのだ。万法はそれぞれ個別的実体を持ち、その個別的実体が薪から灰へと連続継続していると思い込んでいるのである。
さて果たして薪と灰は連続継続しているものだろうか。ここでめをしたしくしてみてみよう。めをしたしくしてみれば灰の時は灰以外のものは何もない。灰が全部である。また薪の時は薪以外のものは何一つありはしない。薪から灰へと前後があるようにみえるが、実際のところはその前と後は連続継続していないのである。灰と薪はまったく別のものとして受け取られるのである。「前後裁断」として受け取られるのである。すなわち灰の時は灰がすべてであり、すべてが灰をもって現成しており、現われている灰の中には灰以外の一切のものが隠れているのである。またそれは薪の時も同様である。
さてここで薪と灰のたとえを出されたのはいかなる意図があってのことか。それは次の「かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず」と説かれているのをみればわかるだろう。それは生死(生滅)のなんたるかを説かんとするためである。
「人のしぬるのち、さらに生とならず」すなわち人は死んでから生まれるものではない。また生まれて死ぬものでもない。めをしたしくしてみれば前後裁断であり、生の時は生以外のものは何一つない。生がすべてだ。また死の時は死以外のものは何一つない。死がすべてだ。すべて――すなわち生じたこともなく滅することもなく常に現在している、世界そのものである全体大生命(仏)が生として死として仮象的に現成しているのである。生死は仮象としてあらわれている不生不滅の仏そのものである。それ故に生はもともと生ずることのないものの仮のあらわれであり、仮りに生としてあらわれている生ずることのないものである。
そこで「生の死となるといわざる」「死の生にならざる」云々とあり、これらは仏法として定められているものだというがまったくその通りである。生は死になることはない。もともと不生であり、生じたことのないものが死するわけがない。同様に死は生になることはない。死したものは生じることはない。なんとなれば死することはないのだから。死は死することのないものの仮象的あらわれであり、仮象的にあらわれている死することのないそのものである。すなわち不滅であるゆえににほかならない。生滅は不生不滅の仏のあらわれであり、生滅としてあらわれている不生不滅の仏そのものであり、いわば不生不滅と生滅は一つなのである。
だからこそ生滅する身があり、それとは別に不生不滅の心があり、その不生不滅の心が、生滅する肉体に受肉転生してゆくという見解は誤りである。この誤りに気づけば、身は滅するものであり、心は不滅であり、このような身心を別のものとする考えに立脚している輪廻転生説は吹き飛んでしまう。
次に「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり」。ここでいう「一時」とは先述の前後裁断のことである。だからこの場合の「一時」とは時間の流れにおける、或るひとときなどといったものではない。たとえば生とあらわれている、その生は常にいまここに実在している全体大生命である不生不滅の仏の顕現であり、それゆえにその生には過去現在未来のあらゆる時が入っている。「一時」とは尽時なのである。尽時が一時とあらわれているのである。そして時間と空間は切り離すことはできぬ。だからこの「一時」には尽界が入っている。それゆえに生のときは生がすべてであり、すべてが生とあらわれているのであり、それゆえに生以外のものはなにもない。また同様に死のときは死がすべてであり、死以外のものはなにもない。
それはたとえばそれは春と冬のようなものだと道元はいう。冬が去って春が来るわけだが、わたしたちはあくまで春は春として、冬は冬として考える。すなわち春と冬は前後裁断であり、冬から春が出現するのではないのである。このように生から死が出現するのでもなく、死から生が出現するものでもない。このとき従来考えていた輪廻観はない。生を超えて、死を超えて、この世界もわれもことごとくは不生不滅の仏の現成であることを知るのである。ここから仏行がはじまる。坐禅とか看経のみが仏行なのではない。あらゆるものが仏行なのであり、また行仏として現じてくるのである。

身心に法いまだ参せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、万法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帯せりといへども、參学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

道元は冒頭で「身心に法いまだ參せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」と提言する。以下に続く文章はその提言の説明である。順をおって説明してゆこう。
すでに述べたように「身心に法いまだ參せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」は真に仏道を体得した人の境涯である。身心が仏法で充足している人、すなわち仏法を体現した人は「おれは未だ仏法を究めつくしていない」といった自覚を持つ。しかし、その身心が未だ仏法に参じていないもの、すなわち仏法を体現しておらぬ人は「おれは仏法はすでに足りている」と思う。ようするに真に道を究めている人は自らが道を究めているとは思わず、道を究めておらぬ人は自らが道を究めていると思う。
ところでこれはなにも出世間的な仏法に限らず世間のことでも、その道の達人というものは自分自身は道を究めていないものだと自覚しているものだと思われている。かように彼らはとても謙虚な姿勢を持つものだと考えられている。しかし大多数の人たちはその道理はわからず、その道を究めた人の境涯とはそんなものだろうと漠然と考えているにすぎない。なぜ「身心に法いまだ參せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり」なのか。それがわからなければ道元禅がわかったとはいえない。
ではその道理はなにか。「たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし」たとえば船にのって海の中にいでて四方を見渡すと、海はただまろく見える。さらに他の相はみえない。そこで海はまるいと思う。しかし海はまるいのではない。すなわち「のこれる海徳つくすべからざるなり」である。海は魚には宮殿のごとくみえ、天人には瓔珞のごとくみえる。海はまるいだけではない。他の相がある。「ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり」。他の相はあるのだが見えないのである。ただ自分のまなこのおよぶところがまろく見えるのみなのである。以上を枕言として本論がはじまる。すなわち「かれがごとく、万法またしかあり」前節であげた喩えのように万法もこれと同じなのである。それが俗世間(塵中)のことであろうと出世間(格外)のことであろうとも、そこにはさまざまな様子があるのだが、ただ自分の参学眼力の及ぶところのみを見取会取するだけであり、その自分が見取会取したもののみがすべてではない。その背後には自分の見取会取したもののみならず、そのほかのものがたくさんある。これは先述の「一方を証すれば一方はくらし」と関連している。真理はあくまで全部ではなく一部分として把握される。そして把握されるのはわたしたちの力量に対応している。ここで知るべきは誰であろうと真理は全部そのままを把握できるのではない。あくまで一部分を通じてしか把握できないのである。真理は五感を超越している。人間はその五感を超越したものを仮に五感――視覚・聴覚などのものに翻訳して把握する。もちろんそれは氷山の一角にすぎない。
そこで仏に開眼しているものはそれを知悉している。おのれが認識している一部分だけが全部だとは思わない。「万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし」万法の家風を聞かんと思うならば、すなわちすべての世界の本当のありかたを知ろうと思うならば、今の自分に認識される見方だけがすべてではない。他にもたくさんの見方があることを知らなければならない。自分の見方のみを世界の真相と思ってはならないのである。その自分の見方は真の世界のほんの一部の見方にすぎずに、その自分の見方以外にも未知の見方があることを踏まえなければならない。すなわち仏に開眼した人はどのようなものにも自分にとって未知のものがこめられているものとみなす。だからその認識は彼の生活において無限の修行とあらわれてくる。無限の修行にこそ悟りというものがある。無限の修行にこそ真の仏道というものがある。自分の見方のほかに未知なるものを認めること、それは無限の修行とあらわれるのであり、その無限の修行にこそ、自分のひとかたの見方のみならず、自分のひとかたの見方の背後に隠れている未知のありかたに参じる生活がある。しかも「かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし」であって、どのようなものであれ、今自分がみているもののみならず、その背後には無尽蔵のものがある。それは海のごとき広大なもののみではないのだ。一滴の小さな水もそうなのだ。あの一滴の水の中にも無尽蔵の未知のものがあるのだ。この直下にも未知をみる。これがしっかり体得できれば相当なもので、この認識こそが道元の真骨頂である。

魚の水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に辺際をつくさずといふ事なく、処処に踏せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず佗にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

ここはこの世界の現成公案以外のなにものでもないことを説かれているものである。凡夫的認識ではこの世界を因縁とか生滅の概念を用いて見ている。しかし開眼してみればこの世界は因縁生滅するものにあらず、時を超えて空間を超えて現象を超えて、それらを超越したもののあらわれであり、そのようにあらわれているそのもの自身にほかならぬと道元は説かれているのである。
本文をみてみよう。まず「魚の水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、魚鳥いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり」。魚が水を行くにあたって水にきわはない。それはなぜか。魚にとって水が世界だからである。水の外に世界なぞないからである。それゆえにメダカのような小さな魚であろうが鯨であろうが水を行くに水にはきわというものはない。きわがないということは水は必ずしも魚を制約制限するものではないことを意味する。水は魚にとって監獄のごときものではない。魚はいまだ水から離れたことはないが、しかし水の中に居って魚は自由自在なのである。つぎの「只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり」云々は魚鳥が水空の中にありながら自由自在である、その際の水空の用い方を説かれているものである。魚鳥にはさまざまな種類があるが、それぞれにより、その用い方には大小があるというのである。メダカは水を小さく使っている。メダカの行動範囲は小川を出でない。鯨は大海をかけめぐっている。水を大きく用いているのである。このように魚の種類により水の使い方には大小があるが、しかしその自由度においては大小はない。いわば大小はありながら大小を超越しているわけである。ここの喩えは要するにむかしより魚鳥は水空の中にいながら、どのようなものも自由自在の境涯に居るというのである。
しかし、ここからが大切なところである。魚鳥はこのように水空を自由自在に用いているのだが、その水空と魚鳥は別のものではないのである。「鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す」であって、魚鳥は自由自在に水空を使っているのだが、その水空から出てしまったら死んでしまう。水空があるがゆえに魚鳥は魚鳥であるのである。すなわち魚鳥は水空と別に魚鳥という独自の生命を持っているのではない。そのような独自の生命が自由自在に水空を使っているのではないのである。「以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし」と説かれているように魚は水をもって生命としており、鳥は空をもって生命としているのであると説かれるのである。
この喩えで道元はなにを説かんとしているのか。魚鳥はわたしたちに対応しており、魚鳥における空水に対応するのは現前している現実世界にほかならない。すなわちこの現実世界と自己は別ではなく、この現実世界が自己の生命であり、この現実世界の外に自己の生命はないことをいうのである。自己と世界と生命の三つは一つであり、この三つは不即不離であり、だからこの現前の世界を離れては生命から離れてしまうのである。そこで「以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし」はこの現前の世界から離れてはならぬことをいうのである。続けて「以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし」といわれる。すなわち、鳥は鳥を以て命と為す、魚は魚を以て命と為す、鳥は命を以て鳥と為す、魚は命を以て魚と為す……、これは自己と世界と生命の三つで一つであることを更に徹底させるためにいうのである。
続けて「このほかさらに進歩あるべし。修証あり」。「このほか」の「この」とは先述の自己と世界と生命の一つであることを指している。そこでこのほかにさらに進歩修証があるとは、自己・生命・世界の三つで一つのところからさらに進歩修証があるというのである。どういうことかというと、自己・生命・世界は三つで一つである。それは生命は唯一なるものであることを意味する。その唯一なる生命は自己と世界と現れて、無限に進歩しており、その進歩に極点はないのである。唯一なる生命は自己と世界と現れて、自己は現前の世界を唯一なる生命(仏)の説法として聞いて、その説法のままに行じてゆく。その自己の修行は唯一なる生命の修行であるのだ。このようにして唯一なる生命は無限に進歩修証しているのである。そして「その寿者命者あること、かくのごとし」。寿者命者とは単純に寿命あるものと受け取ってよい。すなわち魚鳥を例としてあげたわけだが、魚鳥のみに止まらず、あらゆをあらゆるものは唯一なる生命のあらわれ、唯一なる生命の化身なのである。生命は複数あるものではないのである。
次の節「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず」を参究する。さて鳥・空・命の三つは一つである。あらゆるものは唯一なる生命のあらわれ、唯一なる生命の化身である。生命は複数あるものではない。
それ故に空をきわめてから、その後に空を行こうとしたり、あるいは水をきわめてから後に水を行こうとしても、その魚鳥は水空のどこにも道を得ることはないだろう、ところを得ることはないだろうといわれる。あまりにもっともなことである。絶対に鳥は空をきわめてから空を行くことはできないし、魚も水もきわめてから水を行くことはできない、といわれる。しかしこれを理解するのは至難である。わたしたちは空をきわめて後、あるいは水をきわめて後、行かんとしている。老子は千里の道も一歩からというが、わたしたちは一歩から行こうとせず、いきなり遠くの千里に到達しようとする。だが一歩から行かんとしなければ永遠に千里に到達することはできない。
鳥が空を飛ぶための道と処、魚が水を泳ぐための道と処、すなわちわたしたちが唯一なる生命(すなわち仏)として生きるための道と処、それは今の自分をとりまいている現実なのである。今の自分をとりまいている現実、それは人により千差万別である。だが、それこそがその人にとって、その人が仏として生きるためのもっとも適切な道であり処なのである。わたしたちが仏として生きるための道と処は各人の境涯に応じて既にあらわれているのである。常にあらわれているのである。既に用意されているのである。常に用意されているのである。

わたしたちが仏として生きるための道と処、それはわたしたちが今直面している現実のほかにないのである。

そして自分の直面している現実のほかに自己の命はない、すなわち仏はないと踏まえて生きてゆく時、その行い、その行為にしたがって、そのいまのところ、そのいまの道、すなわち今の自分の直面している現実が現成公案するのである。

現成公案するとは、今の自分の直面している現実が仏そのもののあらわれとなることである。

すなわち今の現実が「大にあらず小にあらず、自にあらず佗にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり」となるのである。それは大小を超えて、自他を超えて、時を越えて、唯一なる大生命そのもののあらわれと化すのである。

しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

「しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」は先にのべたところの概略である。人が仏道を修証する、すなわち人が仏そのものを生きるとは一法を得ては、その一法に通じてゆき、一行に遇っては、その一行を修めてゆくありかた以外にないのである。つまり一法一行に通じることがじつは万法万行に通じることなわけである。
その一法一行に通じてゆくとは別言すると脚下照顧である。脚下照顧とは自分の足下を顧みよということだが、仏道を生きるとは自分の足下を生きること以外にないのである。そして自分の足下こそは現実に自分が歩んでゆけるものである。他人の足下を自分が歩んでゆけるはずがない。自分の足下以外に自分の歩んでいけるところも道もないのである。自分の足下が見えてきたとき、その人は仏道が見えてきたのである。その自分の足下、すなわち一法一行こそは万法万行すなわち全体大生命たる仏そのものに通じているのである。仏そのものに通じるには、この一法一行である自分の足下のほかにないのである。
なぜ自分の足下のほかにところも道もないのだろうか。仏そのもの、すなわち全体大生命は「わたし」としてわたしを現しているのである。だからわたしが生きている、それは仏そのもののあらわれなのである。それ故におのれの足下を生きる、現前の現実のほかにわが命はないと心得て、現前の為すべきことを素直に行なってゆく、それはじつは仏そのものの行いの顕現なのである。自己が行なうことのできること、それは現前の為すべきことのみであり、それ以外に自己のできることはない。しかしそれを行なうことこそが聖なる行いであり、それはおのれの行いであると同時に仏そのものの行いであり、その行いは仏そのものに参じて、仏そのものとして生きていることなのである。自己が脚下照顧と生きることは同時に仏の自己表現なのだ。修行が悟りのあらわしであり、悟りは修行とあらわれるのである。
かくして仏そのものに通達する、そのところ、その道はそれらしき顔をして現れてくるのではない。必ずわが足下、すなわち自分の立っている平坦平凡なところとして道として、別言すると今ここの日常茶飯事として不断に現れているのである。真に仏道に通達せんとするならば、それは日常生活の諸般のほかにないのである。ところがわたしたちは仏道に通達する、その道に条件をつけて考えてしまう。禅堂に赴いて座禅を組まねば通達できないとか、賢くならねば通達できぬとか、裕福にならねば通達できぬとか、清貧の生活を営まねば通達できぬとか、とかく勝手に条件を付けて考えている。しかし仏道には条件はない。無条件にある。すなわちわが足下にある。わたしたちはすでに仏道という道の上を歩まされているのである。だからその道を歩めばいい。仏道がわれわれに現れるとき、それはかならずわが足下の道として現れる。足下の道、それはあまりに平凡であるが、その平凡の偉大なることに気づいたとき、その平凡の道の常にわたしを生かしていたことに気づいたとき、その平凡の道以外におのれの道はないと気づいたとき、かれは仏道に通達しはじめたのである。
次に「しらるるきはのしるからざるは」とはこの道通達の実際の様子をいう。「しらるるきわ」とは知られるきわのことであるが、それは万法万行のことである。その万法万行のきわは知られることがない。つまり一法一行に通達することで万法万行に通達するのであるが、すなわち仏そのものに通じて、仏そのもののあらわれとして生きるのであるが、その仏そのものに通じていること、その仏の境涯は自己にはっきりと知られることはない。つまり概念観念として自己にはっきりと知られることはないのである。はっきりと知られることはないのだが、その一法一行に通達していることは仏法に同参同生しているのであるから、悟りの境涯はそれを自己が知る知らないはじつは関係ないのである。そこで次に「得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ」となる。わたしたちは得一法通一法、遇一行修一行によりおのれを含めた世界の一切の現成公案である境涯を得るのであるが、その得られた境涯は観念概念として把握されることはないし、だからその境涯は観念概念に変換してはならぬのであるし、観念概念として現れると思ってはならぬし、観念概念として学ぶことができると思ってもならぬのである。
そこで続いて「証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり」となる。ここも現成公案の観念概念として学ぶことのできぬことを説くのである。証究とは現成公案のことであり、端的にいうとさとりのことである。そのさとりはすみやかに現成するわけであるが、なぜすみやかに現成するかというと、それはわれわれがもともと現成公案だからである。別言するとわれわれは仏そのもののあらわれとしてあるからである。そこで「密有」とは密かに有るものということであり、これもわたしたちが本来現成公案そのもの、本来仏そのものであることをいうのである。しかしわたしたちが本来仏であることはかならずしも現成することはないといわれる。わたしたちは本来仏であるが、しかし誰でも現成公案できるものではない、誰でも仏に目覚めることはできるものではない、誰でも悟りを開くことはできるものではない。「見成これ何必なり」だれでも本来仏であるが誰でも必ずしも仏に成れるものではない。ではどうしたら仏に成れるのか。どうしたら現成公案を現成公案できるのか。もちろん概念観念として学ぶにあらず、得一法通一法、遇一行修一行の修行によるのである。そこでその例として次に禅問答を引用されるのである。それをみてみよう。

麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
正法眼蔵現成公案第一
これは天元年中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子楊光秀にあたふ。
建長壬子拾勒

まず引用されている禅問答の概要についてみてみよう。麻谷山宝徹禅師とは馬祖道一の法を嗣いだ禅僧のことである。麻谷山宝徹禅師が扇をつかって扇いでいると、僧侶がやってきて問うてきたのである。「風の性質は常住であり、いたる処に偏在しているものであるのに、なぜ和尚は扇を使かわれるのですか」。そこで宝徹禅師は答えて言うには「君はただ風の性質が常住であることのみを知っているだけで、処としていたらずということのない道理を知らんのだよ」。「風のいたるところに偏在しているという道理とはなんなのですか」。すると宝徹禅師はその問いには直接答えずに、ただ扇を使って扇ぐのみであった。すると僧侶はその宝徹禅師に対して礼拝したのだった。
さてこの禅問答のやりとりはいかなる意味を持っているのか。風とは仏のことである。その仏は風のごとく常住である。常住すなわち生じたこともなく滅することもないものである。すなわちあらゆるものは仏そのもののあらわれである。別言すると一切衆生悉有仏性である。では一切衆生悉有仏性であるならば修行をしなくてもよいのか。そうではない。常住なる風がそこに現れるには扇ぐという行いがなければならぬことと同様に、常住なる仏があらわれるには、仏をあらわすには、そこに修行という行いが不可欠なのである。しかるにこの僧侶は風は常住であるから扇ぐことは必要ない、すなわち本来仏であるから修行なんぞ必要ないと考えていたのである。その自分の考え違いを宝徹禅師の応対により気づいたのである。気づいたから、そこで宝徹禅師に礼拝したのである。
以上から「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり」の内容の意味はもうわかるだろう。「仏法の証験、正伝の活路」すなわち仏として生活する、観念としてではなく生きた仏そのものを生きる、それはここに挙げた問答のごときものであるというのである。この僧侶は風性は常住だから扇を使う必要はないと思っていた。風性は常住だから扇を使わぬとも風を聞くべきと思っていたのである。つまり仏性は常住であり自己は本来仏なのだから、修行する必要はないと思っていたのである。修行はしないままで仏であることを知るのが悟りであり、修行をして本来仏であることを知るのは迷いと思っていたのである。しかしそのような境涯では「常住をもしらず、風性をもしらぬなり」であり、じつは風性の常住も知らず、そもそも風性のなんたるかも知らないのである。風性は常住であるからこそ、その風を現成せしめるのは扇を使うように、仏性は常住である、われわれは本来仏である、だからこそ修行により仏は現成するのである。「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり」その現成する仏という風により、この大地の黄金であることを知り、長江の蘇酪であることを知るのである。すなわち穢土と思っているこの世界の本来涅槃であるのだが、この世界の本来涅槃であることは修行により現成するのである。もちろんその修行とは先述の得一法通一法、遇一行修一行にほかならない。現成公案、ないしは仏道とは脚下照顧に尽きるのである。自分の足下に道が見えはじめた時、仏道が見えはじめたのであり、自分の足下を生きることのほかに修行もなければ悟りもない。自分の足下を生きることこそは修行の究極であり、その修行は仏そのものの自己表現なのである。すなわち現成公案なのである。(了)
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