終戦後の国会議事録

終戦後の国会議事録

「大麻取締規制」をベースとした「大麻取締法」は、厚生委員会並びに衆参両院本会議において大した議論もなく可決され、1948年(昭和23年)7月10日に施行された。戦後の様々な占領政策の一つとして、大麻産業は日本人の希望も叶わず、その未来を狭められていったのである。
 1950年(昭和25年)、翌年に控えていたサンフランシスコ平和条約の締結に先立ち、占領法制の再検討と新たな戦後のあり方について、国会で議論された。大麻取締法も、多くの大麻生産農家や関係者からの見直しを希望する声に押され、衆議院厚生委員会にて麻薬取締法と大麻生産のあり方について議論されている。
 この年に開かれた第7回通常国会衆議院厚生委員会の議事録を見ると、大麻が麻薬として取り扱われることになったことによる取り締る側の戸惑いと、大麻に頼って生きてきた生産農家の苦悩が見えてくる。
 この委員会では、麻薬取締りをおこなう係官の所属場所を統一し、取締りをより強化するための改正法案の審議がなされていた。麻薬および大麻を取り締まる厚生技官(薬務局麻薬課長)と農産物としての大麻を管理する農林技官(農政局特産課長)が出席し、政治家たちと質疑をおこなっているのだが、この中で一貫して憂慮されている点は、「いかにして農産物としての大麻を守っていくべきか」ということであった。
 議事録を数箇所抜粋してみよう。
 先ず、厚生技官(薬務局麻薬課長)の説明である。この答弁を読むと、当時の厚生省が大麻を規制しながら大麻産業を存続させるために、いかに知恵を絞りながらGHQとやり取りをしていったかが伺える。

第7回国会 衆議院厚生委員会議事録より抜粋 (原文通り)

里見説明員 (略) それから大麻の取締法を制定したことでありますが、これは先ほど申し上げましたように、日本においては、終戰前までは大麻について何らの取締規則もなかつたのでありますが、メモランダムが出まして、この大麻の取締りをおこなうことになりまして、もともと麻薬をとります大麻インド大麻というようなものは、国際的に麻薬ときまつておりまして、これは取締りをしなければならない義務を持つております。ただ日本にありました大麻がそれに該当するかしないかということが、これまでわからなかつたわけであります。それがたまたま調査の結果、これが当然該当するということになつた関係で、これは麻薬の原料、薬物として取締りをおこなわなければならない国際條件の関係もあり、それを履行する義務を日本が負つております関係で、これは将来とも取締るべきものと考えられます。世界の各国を見ますと、やはり大麻をそのまま禁止している国も多くあります。フイリツピンあるいは南鮮、日本等は纎維関係によりまして、大麻の栽培を許可されておるわけであります。もちろん、われわれとしましても、十分にこの大麻が纎維資源として重要であることはわかつておりますので、総司令部の方に懇請いたしまして、麻の資源として必要であります関係で、この生産を認めてもらうことになりまして、現在五千町歩の範囲内で、かつ人員も三万人と押えられておるのであります。実際問題としましては、三万人以上でありますが、それは何人か一かたまりでもつて一人の代表者を出して、そうして栽培させておるというような実情でやつておるわけであります。』

 一方、各議員は、大麻取締法によって起こる様々な障害について懸念を覚えている。大麻を厳しく管理統制するために発生する多くの手間や煩雑な手続きに対して、切実に大麻栽培の存続を願っている山間部の農村などは、果たして機敏に対応することができるのか。そんなことを心配しているのである。

苅田委員 そうしますと、大体今の御説明でわかりますように、大麻というものは、相当零細な農家が自家用に作つていたところがたくさんあるわけですが、これが今度の統制によりまして、規約の変更によわ非常にめんどうな手続をしなければこれがもらえないというようなことになれば、そういつた零細な反別を持つてやつておる人たちが、今度どうしても落ちて来るというようなことが当然考えられるわけですけれども、こういうものに対して農林省の立場として、そうした百姓の人たちの農家経済を維持する面から、この大麻の生産に対しましては、こういうような対策をお考えになつておるか。その点についてお伺いいたしたいと思います。

徳安説明員 大麻の取締りの問題でございますが、農林省といたしましては、大麻の取締りにつきましては、この際強化されるということは承つておりませんし、従来通りというふうに了承いたしております。』

 大麻農業の窓口である農政局特産課長、徳安説明員の答弁であるが、この時点ではこれ以上の強化はないとしている。しかし、結果的にはこの後も麻薬としての大麻取締りは強化され続け、現在のような状況になっていくのである。
 そして、以下の発言を読むと、GHQによって大麻が麻薬として取り締まられたことによる、農民や関係者の苦悩が見えてくる。

大石(武)委員 (略)私の地方では、大麻を作つて、げたの緒どころじやない。衣料を買えない農家が衣料にしておるのが非常に多い。これは地方にとつてはぜひ必要なものであつて、この作付を制限したり、監督を嚴重にしたりすることによつて、地方におけるそういう実情を無税し、あるいは農家の自己消費を非常に困難ならしめるというようなことがあつてはならない。もちろん農家は、余裕があるならば、そういう需要は他の方法によつて満たすことができるはずであるけれども、現在の農家は事実上、経費の関係からそういうことは不可能になつておる。それほどに零細化され、貧困化されておる農家が、衣料の点で、最後の線としてそういうことを要求しており、それが古来の習俗にさえもなつておる際に、これを法制的に禁止するというやり方は、われわれ反対しなければならぬと思うのです。聞くところによれば、あなたも言われたように、メモランダムが来たからということであるが、われわれはメモランダムによつて政治をおこなうべきではなくて、日本の実情に即して、また日本の大部分の人々の要望に即した政治をおこなわなければならぬのであつて、われわれは、やはり正しいことは堂々と、メモランダムいかんにかかわらず、国会の権威においてこれを決定して行くという習慣をつけなければいかぬと思うのです。そういう実情にあるときに、法制のきめ方、たとえば、技術的には私よく知りませんが、收穫をしてその大麻を、麻薬になる部分だけについてどうするとか、こういうふうな制限を付するというようなやり方で、作付については自由にするとか、地方の状況に応じた形をとるというような方法はとり得るはずだと思はれるので、そういう点も考えられてはどうか。御意見を聞きます。』

金子委員 (略)大体日本の農業が共同耕作を基礎にしてやつておれば別として、この麻は屋敷わきの風の当らぬところに農家がまくと、一年中纎維に対する現金支出をしなくてもいい。そういう関係で作られでおるのであるから、大麻の専門家に聞きましても、日本で大麻の葉から麻薬をとつた例もなければ、そういうこと自体すら知らなかつた。それを寝ておる子を覚ますようになつて、実害はないと思いますが、取締上一つの部落なり町村の責任者の名において、この部落においてこれ以上作つておらないということと、責任者の名がはつきりしておつたら、それで許可したらどうか。(略)』

堤委員 (略)次に大麻の栽培でありますが、これが取締られたために、小貧農においては、旧来の自給的な大麻栽培に禁止的な抑圧を受けておるのでございます。従来大麻の栽培は何ら麻薬として実害をもたらさなかつたのでありますから、むしろこうした事情をしんしやくして、貧農が麻纎維の小規模な自給をおこなう場合、実情に即した親切な措置を講じて、かつこれを下部に徹底せしむるようにしていただきたいと思います。(略)』


 大麻農家や産業をこれほどまでに保護しようと議論した背景には、大麻の有益性や大麻産業の優良性が要因であるのは間違いないが、それよりも注目すべきは、この時点では大麻を麻薬として使用している者は存在しなかったという点である。そのため、大麻取締法は、大麻を規制する社会的必要性が全くなかったため、立法目的が明記されていないという、法律としては異例の形がとられ、現在に至っている。
 当時の内閣法務局長官であった林修三氏は、その考えは過ちだったとしながらも、以下の回想録を残している。

「(略)このマリファナたばこの麻薬的作用はカンナビノールという成分によるものだそうであるが、その原料になるものは大麻草(カンナビス、サティバ、エル)である。大麻草といえば、わが国では戦前から麻繊維をとるために栽培されていたもので、これが麻薬の原料になるなどということは少なくとも一般には知られていなかったようである。したがって、終戦後、わが国が占領下に置かれている当時、占領軍当局の指示で、大麻の栽培を制限するための法律を作れといわれたときは、私どもは、正直のところ異様な感じを受けたのである。先方は、黒人の兵隊などが大麻から作った麻薬を好むので、ということであったが、私どもは、なにかのまちがいではないかとすら思ったものである。大麻の「麻」と麻薬の「麻」がたまたま同じ字なのでまちがえられたのかも知れないなどというじょうだんまで飛ばしていたのである。私たち素人がそう思ったばかりでなく、厚生省の当局者も、わが国の大麻は、従来から国際的に麻薬植物扱いされていたインド大麻とは毒性がちがうといって、その必要性にやや首をかしげていたようである。従前から大麻を栽培してきた農民は、もちろん大反対であった。
 しかし、占領中のことであるから、そういう疑問や反対がとおるわけもなく、まず、ポツダム命令として、「大麻取締規則」(昭和二二年 厚生省・農林省令第一号)が制定され、次いで、昭和二三年に、国会の議決を経た法律として大麻取締法が制定公布された。この法律によって、繊維または種子の採取を目的として大麻の栽培をする者、そういう大麻を使用する者は、いずれも、都道府県知事の免許を受けなければならないことになり、また、大麻から製造された薬品を施用することも、その施用を受けることも制限されることになった。
 こういういきさつがあるので、平和条約が発効して占領が終了したあと、昭和二七年から二九年にかけて、占領法制の再検討、行政事務の整理簡素化という趣旨で、大規模な法令整理が考えられたときには、この大麻取締法の廃止(少なくとも、大麻草の栽培の免許制などの廃止)ということが相当の優先順位でとりあげられたのであり、私ども当時の法制局の当局者は、しきりに、それを推進したのである。厚生省の当局も、さっきも書いたように、国産の大麻は麻薬分が少ないことから整理の可能性を認めたのであるが、なお最後の踏切りがつかないというので、私どももそれ以上の主張はせず、この法律の廃止は見送られることになった。(以下略)」(「時の法令」1965年4月 通号530号より)

 結果として、1953年(昭和28年)の改正では、種子を規制から除外し、大麻生産者に対する規制緩和をおこなう。しかしこの頃から、海外から輸入されるジュート繊維や化学繊維の急激な台頭により、大麻繊維産業は衰退していく。
 その一方で、1961年に万国アヘン条約を引き継ぐかたちで締結された「1961年の麻薬に関する単一条約」によって、産業や園芸用以外の大麻栽培に対する規制は、アヘンやヘロインの原料であるケシ栽培と同等の規制に改定された。当時アメリカから始まったヒッピー・ムーブメントへの警戒も高まり、それに連動するように、1963年におこなわれた日本の大麻取締法も、禁固刑を主とした厳しいものとなった。

『大麻入門』(幻冬舎新書)より抜粋
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