224 大久野島国民休暇村回顧(昭和40年代から)

☆ 料金が高くついても、その地の名物料理を食べたい時代に

 国が認めた低廉な公定料金は基本に置き、特別料金のコースも用意して選択できるようにした。特別料金の料理には、タコ料理・瀬戸内の小魚料理を中心に数セット用意して希望に応えた。国民宿舎に先行して実施したこの方法は、その後の国民宿舎運営のモデルにもなり、国民宿舎の会議等にも呼ばれて行った。

☆ 毒ガス騒ぎ

 大久野島の防空壕には現在も毒ガスが残っていると、1新聞がトップ記事で報道。その日のうちに、大勢のマスコミ取材陣がヘリコプターなどで島に来て大騒ぎとなった。国や県の関係者も緊急に現地大久野島に集まり対応にあたった。防空壕は危険防止のため、入口はコンクリートで蓋をして、さらに美観のため土を置き芝を植えてあった。自衛隊が島内の全防空壕について調査した結果、発煙筒が数カ所の防空壕に入れてあった。しかし、毒ガスはなく発煙筒の容器は腐っていて効力も既にないので、そのまま元通りに蓋をした。☆ 学生アルバイトの時代

 学校の春休み、夏休み、冬休みには利用者も極端に多くなる。特に夏には70人くらいのバイトが欲しい。女性週刊誌(女性自身・女性セブン等)の記者の人たちも取材に度々来て繰れていて、バイト募集のことも書き添えてもらったりした。反響は全国に広がって、必要な人材確保も楽にできた。また、学生の調理実習としての位置付けも学校側の協力をいただいて助かっていた。

☆ レジャーランド全盛の時代から自然を楽しむ時代へ

 ゴーカート、おとぎバス、ゲームセンター、ボーリング、釣り堀等撤退。

☆ テニスコート16面新設

 特にテニスコート等の運動施設の設置は、夏に集中していた利用を春先から秋までの長時間利用できる島に変えた。春休みなど学校の休み期間などは大学の合宿が多くて、非常に華やかな時節になった。

☆ 小動物(うさぎ)

 大久野島にウサギはいなかった。自然の中で鹿を飼うという案もあったが食べる量が多く、小さいこの島では無理だということになって、5匹の子ウサギをもらってきて飼い始めた。餌は厨房で使う野菜の処分のものを与えていた。餌の量により数が増減することを感じた。

☆ 魚釣り

 大久野島周辺は、内海屈指の釣り場として有名で、海岸も釣り場となる。貸し釣竿や餌を用意して楽しんでもらったが、特に初めての方には喜ばれた。また、釣り船希望の方には、忠海の組合との協定価格による斡旋を行った。

昭和40年代後半

☆ 人件費高騰で旅客船(特に短距離)は採算がとれない時代に

 大三島フェリーをベースに、山陽商船撤退分を国民休暇村が海運局で運行免許を取り、忠海~大久野島間の運行を引き継いだ。航路権取得について船会社は無償で協力してくれた。

☆ 忠海港側待合所の事業

 大久野島国民休暇村オープン間もない頃から、竹原市観光協会が忠海港に開設していた待合所について、運営(案内・売店等)を委託したいとの申し出があり、全業務を引き継いだ。

遺跡として残すもの(当所の計画)

☆ 日露戦争当時の砲台跡。毒ガス貯蔵庫跡

おわりに

 大久野島は国民休暇村として国民の憩いの場に、また、平和の象徴の島として再生しました。しかしながら、戦前の恐ろしい毒ガス工場の歴史、毒ガスに健康を奪われた犠牲者の方々のことを忘れてはなりません。平和と戦争、この両方を合わせ持つ大久野島は、平和の尊さを学ぶ教育の貴重な財産として後世に引き継がれることが必要です。大久野島が、さらに多くの人々に親しまれ発展していくことを望みます。

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