223 大久野島国民休暇村回顧(誕生の頃から)

 同じくわが家の書庫を整理していて見つけたのが、西吉宏文著『大久野島国民休暇村誕生の頃』という小冊子である。著者の略歴は次のように記されている。

1936年(昭和11年)広島県竹原市に生まれ、1957~1962年農林省神戸植物防疫所検査補助員、1962~1977年財団法人国民休暇村協会に勤務、1977~1982年竹原市福祉事務所に勤務、1982~1997年竹原市社会福祉協議会に勤務、

1997年~竹原市老人クラブ連合会事務局長・竹原市遺族連合会事務局長

 この小冊子が発行されたのは1999年(平成11年)1月で、「大久野島国民休暇村回顧(誕生の頃から)」として昭和37年4月から昭和40年代後半にいたる大久野島国民休暇村の歩みが書かれているので、ここに全文紹介しよう。

はじめに

 かつて大久野島には数戸の農家があり、明治33年、呉軍港を守る芸予要塞として陸軍の砲台が構築されたが、農家は耕作を続けていたという。昭和2年、この島に軍が兵器製造所を建設するに際し、農家は強制的に立地のかされ、島全体が軍の管理下に入った。そして厳重な秘密と憲兵による監視の下に、毒ガス工場として沢山の従業員と共に暗黒の歴史の中を密かに生き続けるのである。

 昭和20年、戦い敗れて米軍の占領下に入り、毒ガスの撤去作業や毒ガス工場の解体が行われた。その後、昭和25年には朝鮮戦争が勃発し、米軍の弾薬庫として昭和31年まで使用された。

 昭和38年、大久野島は国民休暇村として生まれかわり、平和の島として初めて一般に解放されたのである。

昭和37年4月

 有原明三竹原市長から、厚生省が大久野島に国民休暇村を建設することに決まったので、その仕事に就いてほしいと言われた。村長(支配人)には市議会議員の小松蓮眞氏が行くということであった。

 当時私は25歳、新規の大事業ということが魅力で、「やります、お願いします」と言ってしまった。勿論、大久野島は無人島で、毒ガス工場の処理は済んでいたものの工場跡はまだ多く残り、守衛4人が2人ずつの24時間勤務2交代で監視に当たっていました。また、厚生省国立公園部の瀬戸内海国立公園大久野島担当の成田技官が、広島県竹原土木事務所に常駐していました。

 私は、とりあえず、市役所の商工水産課(当時)の隅を借りて机を構えましたが、大久野島へ行く定期船はなく、守衛が朝交代する時の渡船に便乗するか、厚生技官がチャーターする渡船に便乗するかして現地大久野島に行っていました。

昭和37年7月

 先ず、軍が使用していた建物をロッジに改装して、電気、水道等も元軍の設備を使い、7~8月だけセルフサービス形式で、臨海学校やキャンプを中心に団体の利用者を受け入れて仮のスタートをしました。

 海はきれいで、メイン道路の両側にはすずかけの大きな木陰が続く並木道がずっとあって、利用者からはなかなかの好評でした。

 シーズンが終わると同時に、宿泊設備の新築工事が始まり、また、工場の取り壊しと公園造成工事、さらに電源開発の送電塔工事、ケーブルの架線工事も入りとにかく大変でした。

昭和38年7月

 宿泊設備(くのしま荘)が完成し、大久野島国民休暇村の正式開所式を東京本部の協会理事長も出席して行った。【国立公園にある美しく静かな環境、安い料金、快適な宿舎】(安心して利用できる)をキャッチフレーズに宣伝した。

昭和39年7月

☆ 温泉センター新築   

  将来の水不足を予測してボーリングをしたが、水質検査の結果は飲料水には不適であった。しかし、ラジューム温泉に該当するとのこと。浴用水に使用すれば飲料水の節減にもなるので、温泉の認定申請に切り替えた。

昭和39年

☆ リフト新設と展望台喫茶のオープン

 リフトは輸送事業にあたり、陸運局の認可も必要であった。東京本部には陸運局OB大阪の松下さんが嘱託としておられ、全ての指導を受けて運転開始となった。頂上まで行けるリフトには、島に来たほとんどの人が乗り、乗り場には行列ができることが多かった。展望台も建設して喫茶室も設けた。担当者として女子職員は、全員UCC広島で研修した。昭和40年2月

☆ 東京・名古屋・大阪に国民休暇村の案内所設置

 私は、東京本部の竹原さん(元厚生省技官)と大阪に居を構え、岡山県大阪事務所で業務を開始し、心斎橋に大阪案内所を開設した。その後、案内所は大阪駅構内に移転している。

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