121 広島の缶詰事業とアヲハタの創業(1)

 最近、岩中祥史著『広島学』という本がよく読まれているというので、購入して読んでみると、その第三章「広島は『はじめて』が一杯」の中でアヲハタが紹介されている。
 「日本で缶詰をつくったのは長崎会所吟味役の家に生まれた松田雅典という人で、明治4(1871)年に勤めていた外国語学校の フランス人教師の指導で、イワシの油漬け缶詰をつくったのが最初とされている。明治10(1877)年には、北海道に日本で初めての缶詰工場(北海道開拓 使石狩缶詰所)が設けられ、アメリカ人技術者の指導のもとで、その年の10月10日に石狩川産サケの缶詰がつくられる。だが、明治期に日本の缶詰産業が大 きく伸びたのは広島で、それもまた、この地が軍都だったからだ。その先駆けとなったのが脇隆景である。
 脇は賀茂郡西条町で、フランス人宣教師から缶詰の製法を学び安芸郡海田市町に広島県で初めての缶詰工場を作った。最初はなかなかうまく行かなかったよう だが、明治16(1883)年、東京上野で開かれた水産博覧会で表彰されたのを手始めに、各地の博覧会で入賞を続け、事業を軌道に乗せる。脇にとって大き な転機となったのは明治18(1885)年、広島の第5師団に牛肉の缶詰を納入したことだ。(中略)その脇と力を合わせ、事業規模をさらに拡大していった のが、賀茂郡四日市次郎丸村の蔵元の家に生まれた逸見勝誠である。逸見は明治13(1880)年、6名の仲間とともに西条の地で、蔬菜の缶詰事業に取り組 んだものの失敗。だが、4年後には東京で缶詰、パン、輸入食料品、洋酒の販売を始め、明治21(1888)年に、逸見山陽堂を名乗る。その年、牛肉の大和 煮の缶詰を作り、これが当たった。早い時期から東京に本拠を移しているため、広島とのつながりは薄れた感もあるが、勝誠の死後、後を継いだ長男の斧吉(出 生地は父と同じ)が昭和の初めごろ、県内で多く穫れる桃、ビワ、洋ナシ、さらに昭和11(1936)年にはフルーツみつ豆の缶詰を考案、同社を大きく発展 させたのである。
 豊田郡大長村生まれの加島正人が、ミカンの缶詰化に取り組んでいたのもそのころである。ミカンの缶詰は、あまたある缶詰の中でも、日本人が初めて開発し たものだ。昭和の初めごろようやく製品化に成功し、昭和3(1928)年、そのサンプルをイギリスに持ち込んだところこれが大ウケした。それ以来1970 年代まで、ミカンの缶詰は日本の独占商品として世界中に輸出されることになる。
 イギリスのサンプルを持ち込んだのは、その後キューピーマヨネーズを創業した中島董一郎であった。中島は愛知県西尾市出身で、水産講習所(現東京海洋大 学)で学んだあと缶詰会社に勤めていた。大正の初めごろ、農商務省の海外実業実習生として欧米に赴き、マヨネーズの存在を知る。そのとき、マヨネーズとと もにそのおいしさを日本にも伝えたいと思ったのが、オレンジマーマレードであった。
 中島は将来その夢を実現するべく、昭和7(1932)年、現在のアヲハタ株式会社(当時の社名は旗道園)を立ち上げる。果物の缶詰は原料立地産業で、原 料となるミカンを、品種や熟度、形などから厳選しないといい製品を作ることができない。輸送手段も乏しく、機械化もままならなかった当時とあらばよけいで ある。この当時、広島県は柑橘類の最優良産地であった。そのため、瀬戸内海沿岸の豊田郡など、県内に多くの工場が作られた。アヲハタもその一つで、創業時 はミカンの缶詰とオレンジマーマレードを作っていた。
 ちなみに、『アヲハタ』の社名は、中島がイギリス滞在中に、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学のボートレースを観戦した際、ケンブリッジの校旗が 淡青、オックスフォード大学の校旗が濃青で、そのブルー一色の鮮やかさが大変印象的だったことから思いついたものだという。」(岩中祥史『広島学』 P170~173)
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