開祖・佐々木武久最高師範

 相生道の開祖・佐々木武久最高師範(「宗師範」とも)は、富山県、黒部の宇奈月町に生まれました。現在も、同地には佐々木姓の家が並んでいます。

 佐々木武久師範の少年時代には既に、一族の武芸を学ぶ者は殆どおらず、武術に生涯を掛けた九代目宗家は「変わり者」と呼ばれていたほどでした。九代目宗家・佐々木尚巳先生は、佐々木武久師範の伯父にあたる人物で、数々の神業を使いこなしたと伝えられています。

佐々木武久宗師範

 強さへの憧れから、佐々木武久師範は九代目・尚巳先生に、ひとりの門弟として入門します。その日からは「伯父と甥」ではなく「先生と生徒」の関係となって、厳しい修行の毎日を送りました。

 やがて「ひとつの流派の考え方だけでは視点が狭くなる」という九代目・尚巳先生の考えもあり、佐々木武久最高師範は自身の修行の場を求めて上京、祝嶺正献先生の玄制流空手に入門します。やがて門下で頭角を現し、大学の玄制流空手道部の監督なども務めました。さらには受け身からの蹴り技など、家伝の柔術の技を参考に新技法開発の一翼を担って、躰道 [→Wikipedia] の立ち上げに関わり、玄制流とは全く異なるその様式の確立に貢献しました。

 その後佐々木武久師範は、九代目・尚巳先生に呼び戻されて宗家としての修行を積み、十代目を継承しました。
 そして1970年代後半、「流儀そのものの皆伝を受けられるのは佐々木家の者のみ」という掟を守りつつも伝承を絶やさぬため、師の許しを得て「新しい武道を作り、それを広める」ことを開始します。
 この過程で、一部の技は洗練されて玄制流から「逆輸入」されました。もし家伝の技の修業だけだったならば、相生道は今とはまったく違う姿になっていたかもしれません。それは九代目・尚巳先生の思慮の結実でもあります。

 1977年から関東で「天武無闘流柔術会」の名前で教授を開始。新しく創案した型を指導しつつ、一方で佐々木家の武器術の初伝の型を、古式のままの名前と姿で門弟に伝えました。「天武暁無闘流柔術会」で使用していた道着の胸には既に、相生道とは別の、現代風の流紋(エンブレム)がありました。

 1980年、多摩美術大学に「古武道部(のちの相生道部)」を設立。佐々木武久師範自ら指導にあたりました。
 このころ、埼玉県新座市に常設の道場があり、少年部や青年部に多くの門弟がいました。
 しかし佐々木武久師範は、次第に「柔術」という枠組みの中での限界を感じていったそうです。

 1987年、ついに「柔術」という枠を離れ、生態機能の実践応用を基に攻防する新武道「相生道」を確立。「天武無闘流柔術会」の看板は降ろして、「日本相生道協会本院」を設立。
 また、多摩美術大学の古武道部も「相生道部」に改称。この年、常設の新座道場で盛大な「演武大会」が開催されました。
 本章の二枚目、三枚目の写真は、このころの多摩美術大学相生道部での指導風景です。

 1991年、南山大学に相生道部(当時は同好会)設立。これは、十数年を経て八雲会の母体のひとつとなりました。
 1996年まで佐々木武久師範はこうした精力的な活動を続けていましたが、残念ながら病に倒れ、帰らぬ人となられました。
抜刀術を指導中の佐々木武久師範
 直前までかなり元気で、入院した病室でも点滴の管をつけたまま蹴りの鍛錬をしていたり、見舞いに訪れた門弟に形を教えようとしていたといいます。

 1997年以降、まだ草創期にあった相生道は佐々木武久師範という絶大な求心力を失って低迷を余儀なくされました。
 しかしその後、内弟子の先生がたを始めとして門弟諸氏、各大学相生道部の尽力によって一歩ずつ前進、各種スポーツセンターやカルチャーセンターでの開講や、愛知県大会の毎年実施などができるようになりました。


 相生道八雲会は、佐々木武久最高師範の遺志を踏まえ、四百年近く受け継がれてきた武術の継承と、社会に役立つ人づくりへの貢献を目指しています。
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