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IT翻訳入門【クライアント編】01:発注側のノウハウとは?

発表機会:『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2000年11月号掲載(雑誌記事)

1999年から一年あまり『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)という業界誌に「IT翻訳入門」というタイトルで連載記事を書かせていただく機会がありました。現在同誌は年四回発行ですが当時は月刊誌でした。このホームページの内容は、雑誌向けの原稿に加筆修正し、連載と並行して当時のホームページに公開したものです。『通訳・翻訳ジャーナル』の概要は下記のリンクから参照できます。


利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。

はじめての見積もり

私のいる会社は先月事務所を移転しました。事務所の場合、借りていた部屋を返すときに「現状回復」といって入居時に行った造作を元に戻すのが普通です。また、壁のクロスや床のタイル カーペットはすべて張り替えます。これらの工事の見積もりを指定の建設業者からもらったときの私の感想は「こんなにお金がかかるの?」というものでした。たとえばエレベーターに傷を付けないように行う養生の費用が 45,000円でしたが、こういう見積もりをほとんどとったことがない私には、それが高いのか安いのかわかりません。ただ、生活実感として「エレベーターの壁に傷をつけないように保護材をペタペタ貼り付けるくらいで 45,000円ってのは高いなあ。東急ハンズで材料を買ってきて自分でやっても2時間で終わるのに」と思い、高いと感じたのです。

そんなことを考えていたら、ある得意先から英文レポートの翻訳見積もりを頼まれました。原文が A4 で 100 ページくらい、調査会社を通じて 20 万円くらいで入手した資料のようです。それを翻訳する見積もりを出したのですが、1 ページ 250 ワードと推定して全体で約 25,000 ワード、1 ワード 20 円として消費税込みで 525,000円、というような見積もりをだしました。結果は「予想していたよりも高すぎる」ということで流れました。たかだか 100 ページのレポートを翻訳するのに 50 万円もかかる、しかもそれを入手した経費の二倍以上の翻訳費用がかかる、というのは高いでしょうか、安いでしょうか。ぼくの生活実感からすると、とんでもなく高いような気がします。「だって自分で必要な箇所だけ辞書みながら読んでも 3 日間で読めちゃうよなあ。それがなんで 50 万円なんだ!」と考えます。しかし、このような価格は、翻訳会社に翻訳を依頼する場合は決してとんでもない高値ではなく、一般的な相場よりもむしろ多少安いくらいの値段なのです(個人翻訳者に直接発注する場合はもっと安くなります)。

続けてふたつの「見積もり」を経験して私が感じたことのひとつは、「人は自分が知らない業界へ仕事を発注するときは不安を感じており、その不安は不信や不満を生みやすい。」という人間の性質です。翻訳を発注する側も、経験を積むに応じて比較の基準や相場感ができてくるので発注時の不安感はだんだん減りますが、翻訳という仕事に関する適切な知識があれば、より早く不安感を減らすことができるだろうと思います。

発注側が知っておきたいこと

どんな分野の外注でもそうでしょうが、丸投げできればそれが一番楽です。ですが、丸投げを続けていると外注先のウソや手抜きを見破れなくなってしまいます。また、ウソや手抜きを恐れるあまり、翻訳業務の発注に関する理解が浅い状態でやみくもに翻訳仕様や発注条件を厳しくしても、実際に翻訳を担当する翻訳者の反発や離反を招く結果となって逆効果です。リーズナブルなコストで期待する品質の成果を得られるクライアント、すなわち「賢いクライアント」になりたいのであれば、やはりある程度の時間を割いて、発注する業務(ここでは翻訳)についての知識を習得している必要があると思います。

でも、ノウハウを習得しようとして自分も現場に飛び込んでしまうと、それは現場にハマってしまう結果になります。予算がないならいざ知らず、翻訳を外注する予算があるのに自分が徹夜で翻訳のレビューをやっているのもなんだかなあ、でしょう。翻訳者になりたいのであれば現場にハマるのも一興でしょうが、そういう気がなくて賢いクライアントになりたいだけなら、ノウハウの範囲を限定すればそれで十分です。ノウハウの範囲を限定するためには、発注側と業者側の「インターフェイス」に着目する必要があります。

たとえばシステム開発の分野では仕様書などの文書が発注側と業者側のインターフェイスとして機能するようですが、翻訳でも同様に、発注側と業者側の間で作業内容を規定するインターフェイスが必要となります。このインターフェイスをうまく規定できると、より低コストで、より速く、より満足度の高い品質の翻訳結果が得られるでしょうし、うまく規定できていないと、コストが増えたり、納期が遅れたり、翻訳品質が悪くなったりします。

ということは、発注側が最低限抑えたいコアのノウハウとは、より効果的なインターフェイスの決定方法と、その管理方法だと言えるでしょう。それを超えた部分はベンダー側のノウハウとなります。もちろん、ベンダー側のノウハウをクライアント側が知っていると、多くの場合プラスになると思うので、興味があって時間的余裕がある発注者であれば、ベンダー側がカバーするようなノウハウを踏み込んで修得するのもよいとは思いますが、たいていの発注者にはそんな時間はないでしょう。

翻訳業界で一般的に「インターフェイス」を規定する文書として公認されているのは、「スタイルガイド」と「グロサリー(訳語集)」の 2 つです。スタイルガイドについては、業界のデファクト スタンダード(英和翻訳の場合、現状ではマイクロソフトのスタイルガイド第 3 版) を適用して問題がないのであれば、それを適用するのが一番コストダウンになります。「グロサリー」については、残念ながらデファクト スタンダードが存在しないので、各社が自社製品用のグロサリーを作っているのが現状です。自分で作るのが面倒な場合はグロサリー作成から業者に任せることも可能です。

発注側が知らなくてもよいこと

実務翻訳ではどうしても各種文書作成ソフト (たとえば FrameMaker や Word) およびその周辺ソフト (たとえば TRADOS の Translator's Workbench, S-Tagger, WinAlign) に関するこまごましたチップスだのバグ回避策だのの実践的知識が現場で必要になります。それが無いと、納品前夜に版下レイアウトが壊れたまま修復できなくて青くなったりする目にあいがちです。

だが、そういうこまごましたノウハウまでクライアントが知っている必要はありません。そういうことは業者が知っていればいいわけです。一般的なソースクライアントは、翻訳メモリが欲しかったりTRADOS のプロになりたいわけではありません。それは、キャブレターをほしがるドライバーがいないのと同じことでしょう。ドライバーが欲しいのは移動手段だったりステータス的満足だったりするわけで、翻訳メモリや TRADOS が存在する目的もまた、翻訳に要する、コスト、納期、品質の改善でなければ意味がありません。たとえば WinAlign を運用する上でのテクニックだの、S-Tagger を利用する際のテクニックだのというこまごましたスキルは、現場では必要度がとても高いわけですが、そんなことを覚えたいと思うソースクライアントがいったい何人いるでしょう?

逆に言えば、そういうこまごましたノウハウをちゃんと持っている業者を、発注側は選ぶ必要があります。繰り返しますが、「クライアントが知らなくてもよいこと」は「ベンダーが知っておくべきこと」になりますから、その分野の知識と経験がどのくらいあるかがベンダー評価のひとつのものさしになります。業者側にノウハウと誠意のどちらか一方または両方がないと、そのしわ寄せは翻訳品質や翻訳コストにはねかえってきます。

翻訳コストを下げるには?

翻訳の見積もりで一番気になるのは、「なぜこんなに高いのか?」あるいは「どうしたらコストをもっと抑えられるか?」ということではないでしょうか。翻訳会社に発注する場合、1ワードあたりの単価はそれこそ 17円くらいから 50円を超える会社までありますから、コストをさげようと思う人がまず考えるのは複数業者から相見積もりをとって安いところを選ぶということでしょうが、IT 翻訳の場合、最近重要な要素となっているのが「旧版の効率的な流用」、言い換えれば「翻訳メモリの活用」です。

IT 翻訳では多くの場合に旧版が存在します。旧版を翻訳している場合、その原文と訳文のファイルから「翻訳メモリ」を制作して、新版の翻訳に使います。これが効率よくできるとかなりのコストダウンになりますが、翻訳メモリ ツールが日本に本格的に登場してからまだ 2 年ほどで、各翻訳会社は現在そのノウハウを習得中ですから、業者によって活用ノウハウにかなりの開きがあります。

これから 3~5 年後には、翻訳メモリの利用法に関して、ある程度業界的なコンセンサスが形成されて、業者間のスキルのばらつきは減っていくと思われますが、それまでは、業者選択が翻訳メモリの活用度にも大きく影響するので、翻訳コストの低減を目指すクライアントの方は特に注意すべきポイントになると思います。

(2000年9月4日執筆)

利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。