home‎ > ‎

IT翻訳入門09:IT翻訳の最短学習法

発表機会:『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2000年10月号掲載(雑誌記事)

1999年から一年あまり『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)という業界誌に「IT翻訳入門」というタイトルで連載記事を書かせていただく機会がありました。現在同誌は年四回発行ですが当時は月刊誌でした。このホームページの内容は、雑誌向けの原稿に加筆修正し、連載と並行して当時のホームページに公開したものです。『通訳・翻訳ジャーナル』の概要は下記のリンクから参照できます。


利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。

専門知識の必要性

このセクションでは、IT 翻訳を修得しようとする場合の学習の指針のようなものを、わたしの独断で検討してみたいと思います。

これは IT の分野に限ったことではありませんが、翻訳は単なる言葉の置き換えではなくて意味の表現媒体を言語 A から言語 B に変換するような作業です。ですが、わたし自身も含めて、初心者のうちは言葉の置き換えに目を奪われがちになるような気がします。

たとえば Choose A and B from C dialog. という文があったとして、"from C dialog" が A and B にかかるのか、それとも B だけにかかるのかは英文の構造だけからは判断がつきかねます。しかし、実際にその文の対象となっているソフトウェアの画面を自分で確認すれば、B だけにかかることが一目瞭然だったりします。この場合、正しい翻訳ができるためには、翻訳者の視野に翻訳対象の文章だけしか入っていないのではダメで、それ以外の情報も取得することによって正しい翻訳が可能になる、と言えます。

この例では、正確な翻訳を行うための決定的な情報は、ソフトウェアの画面を確認するという比較的単純な手順で入手できました。ですが、技術的に専門性の高い文書を翻訳するときには、正確な翻訳を行うために必要な情報の質と量も飛躍的に高度になります。そのような「高度な」情報とは、ソフトウェアの画面確認のような、なんらかの単純作業によって取得できる情報ではなくて、構造化されたなにがしかの情報が頭の中に入っている状態、すなわち「知識」です。

知識を「一般的」と「特殊」という軸および「社会的に必要とされる」「されない」という軸によって 4 つのセグメントに分類すると、「特殊」でなおかつ「社会的に必要とされる」知識を一般に「専門知識」と呼んでよいでしょう。英文を、その構造だけをたよりに言葉の置き換えによって和文に英文和訳することは可能ですが、そうして生成された訳文の品質では、普通はお金はもらえません。そのような英文和訳は現在の「機械翻訳」でもある程度可能ですから、高価な報酬を支払うほどの付加価値がないわけです。

このような事情を理解するために、ここではまず、翻訳のモデルを導入します。(全然大げさなものではありませんが...) 翻訳とは、次の図の上のモデルのように「原文を訳文に置き換える操作」だと思われがちですが、効果的な翻訳を目指す上でより役立つモデルは、次の図の下のモデルのように原文からいったん「イメージ」を形成して、そのイメージをもとに目的言語でライティングを行うというものだろうと思います。「原文を読んで訳文を書く」という上のモデルには発展性がなく、 学習指針を決定する助けにはなりません。

下のモデルで「1 原文」から「2 イメージ」を想起する能力を「イメージを得る能力=イマジネーション」と呼んでいいと思います。そして、すでに述べてきたように、豊かで正確なイメージを得るためには、「専門知識」の助けが必要です。この場合、原文を読んでも自分のイマジネーションが働かないとすれば、それは想像力が貧困だからではなくて想像のよすがとなる手がかり=「専門知識」が自分の中に無いからです。

ライティング スキルの必要性

では、正確なイメージが得られればそれで翻訳は終わりかというとそうではなく、「2 イメージ」から「3 訳文」を生み出す過程でライティングのスキルが必要になります。たとえば英文で the first line ...., the second line ... という箇条書きがでてきたときに、「1 番目の行は... 2 番目の行は...」と訳しても間違いではありませんが、多くの読者には「一行目は... 二行目は...」と訳した方がスムーズに読んでもらえるでしょう。

これは私の個人的な理解ですが、ライティングのスキルとは、読者を言葉でつまずかせずに、できれば水が流れるようにスムーズに文脈に沿って案内する、いわばツアー ガイドの技術だと思います。ビジネス文書にせよ IT 翻訳にせよ、テクニカル ライティングにおける言葉は意味を伝達する道具として使われているので、道具(言葉)の存在を読者が強く意識しないとなかなか本題(意味)に到達できないような文章は悪文であり、読者が道具(言葉)の存在を忘れてしまうほどスムーズに本題(意味)が頭の中に入ってくる文章は良い文章だと言えるでしょう (もちろん言葉の用途はテクニカル ライティングだけではないので、言葉を駆使してあらぬ世界を現出させたり人の心をコントロールすることも可能ですが...)。

というわけで、次の図に示すように、「1 原文」から「3 訳文」を生み出す上で、「専門知識」と「ライティング スキル」の 2 つの技能が必要であることがわかりました。

私は、翻訳の品質というのはどの分野でもこの「専門知識」と「ライティング スキル」の掛け算で決定されると思います。なぜ「足し算」ではなくて「掛け算」かというと、「専門知識」と「ライティング スキル」のどちらが欠けても翻訳品質は損なわれるからです。そして、「専門知識」の不足を「ライティング スキル」で補うことはできないし、「ライティング スキル」の稚拙を「専門知識」で補うこともできないからです。

このような解釈から私は、仕事で翻訳を行う場合は、互いに独立した要素である「専門知識」と「ライティング スキル」をどこかで身に付けているか、あるいは意識して身に付けるかする必要があると考えます。

第三の要素としての「道具の使い方」

翻訳そのものは「専門知識」と「ライティング スキル」があればできると思いますが、仕事として IT 翻訳を行う場合は、これに第三の要素として「道具の使い方」を覚える必要が加わります。「道具」とは、たとえば Microsoft Word や TRADOS 翻訳ソリューションのようなソフトウェアおよびそれらのソフトウェアで操作される RTF や HTML などの各種ファイル形式を指します。

IT 翻訳の分野で翻訳者に支給される翻訳対象ファイルは、たとえば Windows ヘルプ のソース ファイルだったり、TRADOS で前処理された HTML ファイルだったりします。ヘルプのソース ファイルの構造を知らないで誤って脚注を翻訳し忘れたり、TRADOS で前処理されたファイルの形式を知らないで隠し文字を誤って削除したりすると、翻訳の後の工程で問題が発生したり (ヘルプのコンパイル エラーが発生する、TRADOS で訳文が生成できない、など)、翻訳し忘れた箇所を差し戻されたりするというトラブルの原因となります。

これらのトラブルは翻訳そのものの品質とは別の問題ですが、実際の仕事では翻訳の品質と同様に損害を引き起こすため、実務ではトラブルを引き起こさないように、これらの「道具」についての最低限の知識と技能を身に付けてから仕事に臨む必要があります。

「道具の使い方」は、それ自体「専門知識」でもありませんし「ライティング スキル」でもありませんから、独立した第三の学習要素と考えるのが適当でしょう。以上の三要素、「専門知識」、「ライティング スキル」、「道具の使い方」 を身に付けていれば、IT 翻訳の仕事はこなせると思います。

三要素のいずれかが欠けた場合

IT 翻訳でこれらの三要素のいずれかが欠けるケースの典型例をいくつか紹介します。なお、あらかじめお断りしておきますが、筆者自身もこの三要素をきちんと満たせていなくて、毎日のように恥をかいたり失敗したりしていますので、ここで三要素が欠けた例を紹介するのは、決してそれを責めようという意図ではなく、こういうパターンに注意すると、失敗する危険を未然に防げるのではないか、という筆者自身の自戒を込めた意図によります。

はじめに「専門知識」に欠ける場合ですが、これは技術的なバックグラウンドがないままに翻訳会社に就職してチェッカーをやっている人の一部や、学校でも実務でも専門知識を身に付ける機会がないままに翻訳者を志して、翻訳学校で一通りのライティング スキルを身に付けた人によく見受けられます。 納品された日本語は整っているのですが、内容を理解できていない箇所で誤訳します。本当はそういう人は翻訳の発注元であるソフトウェア ベンダーなどのソース クライアントで仕事をするのが一番効率のいい修行になります。なぜなら、仕事の上流工程を担うソース クライアントの立場にあるほうが、業務に必要な専門知識の範囲を絞り込めるからです。仕事の下流工程を担うフリーランスの翻訳者は、翻訳会社の営業結果に応じて IT 翻訳の中のいろいろな分野を翻訳しなければならないため (今日はデータベースで明日はネットワーク、という感じで...)、カバーしなければならない専門分野の範囲が拡がってしまい、短期間に効果的に知識習得するのがより難しくなります。

次に「ライティング スキル」に欠ける場合ですが、これはソフトウェアの開発などを専門に仕事してきた人が翻訳の仕事を引き受けた場合に陥りやすいパターンです。そういう人は自分の技術力に自信を持っている場合が多く、もちろんそれ自体は大変望ましいことですが、自信があるゆえに翻訳という仕事を頭からナメてかかっている場合がしばしばあり、用語集を支給してもまともに参照しなかったり、スタイルガイドを支給しているのに細部を守らなかったりします。

最後に「道具の使い方」に欠ける場合ですが、これはたいていは翻訳会社の責任です。TRADOS で前処理されたファイルの翻訳の進め方など、実務翻訳でこのツールを使うまでは知らないのが当たり前ですから、基本的なファイルの操作方法は翻訳会社がしかるべき作業指示書を制作して翻訳者に説明するのが一般的です。その説明が面倒くさいので、普通の翻訳会社は新人翻訳者を採用したがりません。「実務経験○年以上」と募集に書いておけば、たいていの初歩的ミスは他社で経験してきてくれるから、それほど教えなくても済むだろうという作戦ですね。翻訳者の側からみると、作業指示の上手な翻訳会社と下手な翻訳会社が実際に存在します。これは複数の得意先の仕事を受けていくと自然に知見が拡がっていくと思いますが、作業指示の上手な翻訳会社の作業指示書は、仕事を受ける方でも「道具の使い方」に関していろいろ勉強になるので、運が良ければ「お金をもらって勉強している」気分になれます。

IT 翻訳の品質

ここまでに説明した翻訳学習の三要素のうち、「道具の使い方」は、納品ファイルを破損しているか否かで白黒が見極めやすく、破損していれば即クレームの対象ですから、とにかく最低限の知識を身に付けるしかないとして、残る二つ、「専門知識」と「ライティング スキル」の良し悪しは結果として生み出される翻訳の品質に影響するので、ここで少し翻訳の品質について考えたいと思います。IT 翻訳の品質を左右する要素は、一般的には次の 3 つだと思われます。

  • readability 水が流れるように読みやすい
  • claimability 読者からのクレームを招かない
  • consistency 他の翻訳者と表記が統一されている

最初の readability (読みやすさ) については「ライティング スキル」の箇所ですでに説明したとおりです。readability に関して書いておきたいのは、「定量化が困難でも、その優劣は確実に存在する」という点です。たとえば打ち合わせに出かけた見知らぬオフィス街でランチを食べるとしましょう。店によっては満員で行列ができているのに、別の店はガラガラだったりします。すいているからという理由だけでガラガラの店に入って、出された料理にがっかりしたことが何度かあります。料理の評価というのは、定量化して点数で付けることは困難ですが、「うまい/まずい」という主観的評価は、10人中8人まではかなり似てくるのではないかというのが私の意見です。

行列のできる店にはそれなりの理由があり、ガラガラの店にはそれなりの理由があると見るべきでしょう。それと同じように文章の readability も、定量化は困難ですが、「読みやすいなあ/なんか読みにくいなあ」という評価は、複数の人の間でかなり共有できるものであるように思います。ということは、より多くの人にとってより読みやすい文章、というものが存在することを想定して、自分が書く文章の読みやすさを練っていくのが翻訳者のひとつの目標になるのではないかという気がします。

2 番目の claimability は (私が勝手に作った言葉なのであまり鵜呑みにしないでもらいたいのですが^^;) おおざっぱに言えば誤訳がないということですが、正確に言うと誤訳がないだけではまだ完全ではないと思われます。実務翻訳では、翻訳対象の原文の記載が誤っていることもあれば、原文を翻訳した記述がそのまま日本語版として通用しないこともあります。後者は IT 翻訳の場合、ソフトウェアのマニュアルで、日本語の独自仕様の部分が追加されたり、英語版にあった機能が日本語版で削られたり、という状況を考えてもらえればわかりやすいと思います。読者は日本語版のマニュアルを読みながら日本語版のソフトウェアを操作して、マニュアルの記述に実際のソフトウェアの動作と矛盾する箇所があれば困るわけですから、そこからクレームが生じる可能性があります。

一般的には翻訳を超えた日本語版独自の変更箇所については翻訳者の裁量も職権も超えた話になりますから、翻訳者に直接は関係ないような気もしますが、たとえば言語製品のリファレンス マニュアルでポンドやインチに関連する記述が延々と続いている箇所に遭遇したら、日本語版で削られる関数ではないのかと疑って発注元に確認を入れるというような対応が役立つこともありますから、翻訳者としても一応視野に入れておくのが望ましい部分だと思います。

3 番目の consistency は、翻訳会社から支給されるグロサリとスタイルガイドをまじめに読んでそれに準拠すればクリアできる基準ですので、ここでは説明しません。

翻訳品質と翻訳報酬の関係

翻訳の品質と翻訳の報酬にはもちろん相関関係があります。ここでは、翻訳会社による単価水準の差や、仕事の難易度による単価の高低などにあまり左右されない範囲で、翻訳の報酬と翻訳の品質、あるいは翻訳学習の三要素の間に存在する関係について考えてみます。

翻訳者が受け取る報酬を、原文英語の 1 ワード当たり単価で最高額 20 円と仮定した場合、報酬の水準と翻訳学習の要素のあいだには、おおざっぱに次の図のような関係があるように思います。

下から順に解説します。まず、「英文解釈を含む基礎力」ですが、以前にも書いたように IT 翻訳で必要とされる英文解釈力は実務翻訳の他の諸分野よりもたぶん低いので、基礎力がある程度ではワード 5 円程度しか保証されないと解釈しました。「道具の使い方」が正しく行えるということも (ファイルは壊さなくて当たり前なので) この部分に含まれます。

次に「専門知識」と「ライティング スキル」ですが、実務翻訳業界では「ライティング スキルはあるけれど専門知識がない人材」のほうが「専門知識はあるけれどライティング スキルはない人材」よりもありふれているとの理由から、「専門知識」をよりベイシックな課題として置きました。専門知識の部分で誤訳がなければ、言葉の言い回しについては別のチェッカーがある程度直していけるという意味あいもありますし、専門知識のある人にライティング スキルを教える方が、その逆のケースよりもたやすいような気がするという意味あいもあります。

以上のように、翻訳学習の三要素を満たしたただけでは、翻訳報酬で高水準を得るためにまだ足りないものがあります。それは自分自身を売り込む「マーケティング」です。自分の仕事をより高く評価してもらうための「マーケティング」は翻訳の技能とは関係がないので翻訳学習の要素には加えませんでしたが、実際にはこの「マーケティング」が下手だと、同じ仕事をしても報酬が少ないという、大変悔しい思いをします。

フリーランス翻訳者の場合、マーケティングといえば、あちこちの翻訳会社にダイレクト E メールを出したり仕事ぶりをアピールする営業用のホームページを開設することももちろん有効ですが、報酬のアップするためのマーケティングとして重要なポイントは、(1) 複数の翻訳会社をクライアントに持つことと、(2) 自分を高く評価してくれるクライアントとの関係を長期安定化させる、(3) 自分自身の翻訳者としてのモチベーションを維持し、サバイバル能力を高めて、結果的に翻訳者寿命を延ばす、という 3 点があるのではないかと思います。

(1) 複数の翻訳会社をクライアントに持つことは、自分の評価が会社によって変わることを知り、また翻訳会社によって同じ仕事でも値段が変わることを知るためにぜひ必要です。何社かの翻訳会社といっしょに仕事を経験すれば、自分と体質があってしかも比較的満足のいく報酬を得られる翻訳会社を選別するだけの目が育っていくことは、すでに何度か書いたとおりです。同じ人の同じ翻訳でも、状況によって単価に 5 円以上の差がつくことはしばしばありますから、ワード単価を 20 円近くに維持するための要素として、単価の高い翻訳会社や仕事を選べるような立場に自分を置く努力が有効になると思います。

(2) 自分を高く評価してくれるクライアントとの関係を長期安定化させるのは、意外に難しい面があります。一般的に規模が大きい翻訳会社のほうがつぶれないので長期安定して仕事をくれますが、規模が大きくなるだけの理由があるというか、翻訳報酬を抑えがちであったり、直接の発注担当者がしばしば退職していれかわったり、プロジェクトによって担当コーディネーターが変わると一から自分の売り込みをしなければならなくなったりで、かならずしもハッピーとは限りません。逆に規模が小さくて担当者も数人の小さな翻訳会社は、仲良くなると無理をいろいろ聞いてくれるので便利ですが、いつつぶれるかわからないのが不安です (爆笑)。

(3) の「自分の翻訳者寿命を延ばす」ということをマーケティングに含めるのはちょっとおかしいかもしれませんが、マーケティングの上手下手がフリーランスとしてのサバイバル能力を左右するので、ここに入れることにしました。フリーランス翻訳者の仕事を 3~5 年ほど続けると、長期のスランプに陥る人が一定の比率で存在します (経験的になぜか男性に多い)。フリーランスの不安定な生活に疲れるというのが原因のひとつですが、特定の翻訳会社の仕事ばかりを受け続けて、その依存比率が高まったころに、翻訳会社側の都合で仕事が来なくなったり翻訳報酬を引き下げられたりして、そのショックに金銭的にも精神的にも対応できずにギブアップを余儀なくされるケースがときどきあります。

つきあい慣れた翻訳会社の仕事を何年も続けるのは楽でいいのですが、残念ながら翻訳会社は将来を保証してくれる存在ではないので、その関係が悪化した場合にそなえて、別の翻訳会社とのチャンネルを維持したり、必要であれば新規開拓をやるだけの意欲と資金的ゆとりを維持しておくことが、結果的にフリーランス翻訳者としての寿命を延ばすように思います。

また、「このソフトウェア ベンダーのこの製品は、前のバージョンを翻訳した○○さんが詳しい」というような、ある製品のベテランとしての評価をいったん確立すると、その製品のバージョンアップのたびに声がかかったりしますから、「専門性を高める」方向での努力も効果があります。

以上の説明を、翻訳報酬の単価水準とそれに応じたスキルアップの課題としてまとめると、次の図のようになるかと思います。


専門知識を学ぶ

なぜ知識が重要なのか?

これは別のところでも書きましたが、IT に限らず実務翻訳の場合、原文に書かれている内容を理解して翻訳するには、原文が前提としている知識が必要になります。もしも翻訳を単なる言葉の置き換えですむと考えている人がいるならば、私とはまるで話があいません。ここでは、読者の方が「翻訳を行うには背景の知識が必要である」という点には合意してくださっているものとして話を進めます。

翻訳対象の英文の知識がほとんどない場合は、たぶんかえって翻訳者は気楽なんだろうと思います。つまりその場合は、自分がどのくらい誤訳をしているか、見当すらつかないでしょうから。しかし、ある程度自分に知識がついてくると、翻訳対象の英文に書いていることを自分が理解していないことが痛いほどわかってきて、納期に間に合うように翻訳を進めるのが苦痛になってくると思います。そうなると、「わかってないままギブアップして納品する」か、「分かっている雰囲気で自分を欺いてさっさと納品してしまう」か「自分自身が納得できる水準まで訳を完成させるために納期を無視して廃人への道を選ぶ」か、いずれにせよストレスがかかる選択を強いられることになります。

しかし、仕事がこのような「苦痛の時間」では長続きしませんし体を壊します。本当は、苦痛の時間を喜びの時間に変える方法があって、それは「知識」を身に付けることです。つまり、専門知識を身に付けることは得意先のためでもありますが、それ以上に自分の人生のためにプラスになるからやるのだという認識が出発点だと思います。 

なぜ日頃の学習が必要か?

ぼくの通勤経路には消防署があり、常に消防士さんがつめています。消防士さんたちは火事がないときはヒマしているかというとそうではなく、平時には有事に備えて体を鍛えたりしています。

翻訳の仕事では通常、翻訳者に対しては翻訳に必要な時間しか与えられません。その前の「知識を身につけるための勉強時間」をおりこんだうえで発注してくる翻訳会社など皆無ですし、勉強時間に対しては報酬は支払われませんから、勉強するヒマ?があったら別 の仕事をいれてしまおう、ということになりがちです。また、知識というのはそう簡単にオンデマンドで身につくものではありませんから、短期間に知識を整備できる守備範囲というのは、せいぜい現在の自分の知識水準+背伸びして 15cm というのがせいぜいです。自分の背丈が 170cm しかないのに、背伸びして 200cm の人のための仕事を受注しても、苦しむだけです。200cm の仕事がうけたければ、せめて日頃から知識の底上げをしておいて、190cm くらいにはなっていないと無理です。

しかし、知識を身に付けるのにも「効率のよい方法」と「効率の悪い方法」があります。少しでも効率のよい学習方法を体得しているかどうかが、長期的にみて翻訳者として仕事できる寿命を決定するのではないでしょうか。

不勉強は停滞ではなく後退を意味する

これは私自身もよく勘違いするので偉そうに書けないことなのですが、知識の獲得を怠るということは、実務翻訳の世界では「停滞」ではなくて「後退」を意味します。特に IT 分野は進歩が早いので、知識を継続的に修得しかないと、自分自身の市場価値が次第に下がっていくことになります。そのことまではおそらくすべての人が同意してくれるでしょうが、実際に学習を継続するためには、いくつかのコツを身につける必要があると思います。

好きな分野を自分の専門に選ぶ

学習を継続させる第一のコツは、「自分の好きな分野を専門にすること」でしょう。人を学習にかりたてる心のエンジンの代表選手は「好奇心」と「恐怖心」でしょう。好奇心は「このおもしろそうなソフトを使ってみたい」ということであり、恐怖心は「落ちこぼれたらホサれる、どうしよう」ということでしょう。ぼくは好奇心は常に恐怖心よりもずっとよい教師だと思います。

自分の学習速度で追いつける分野で仕事する

IT の分野を建築中の超高層ビルにたとえることもできるでしょう。このビルは日進月歩で建築中なので、どんどん高くなります。そして、翻訳の仕事というのは、当然ながらいま建築中の最上階の付近で発生します。Windows 98 が発売されれば Windows 98 の本が売れ、Windows 2000 が発売されれば Windows 2000 の本が売れます。世間で Windows 2000 が発売されたのに DOS の勉強をしていても、その階 (下の階) には仕事はありません。

ある時期、 50 階で仕事ができたとしても、その翻訳者が学習をさぼってずっと 50 階でまどろんでいれば、その間にもビルはどんどん建築がすすんで、仕事の中心は 60 階あたりに移動します。そのときは自分も階段をあがって 60 階にあがるだけの脚力が必要なわけで、精一杯上っても 55 階までで息切れしてしまう人は、どんどん仕事の中心から置いてけぼりをくってしまいます。では、55 階で息切れしてしまう人はダメかというと、そうではありません。

人にはそれぞれ、持って産まれた資質というものがあります。 マイペースで上がれるのが 55 階だという人は、建築速度が遅いビルで仕事をさがせばいいのです。つまり、自分の学習速度にあわせて仕事をする分野を選ぶ、ということが大切になるかと思います。

寿命の長い知識を身に付ける

もうひとつ重要な着眼点は、知識にも寿命の長短があるということでしょう。たとえばプログラミングの世界では、オブジェクト指向の概念モデルや方法論は寿命が長いので一度勉強すると長く使えますが、個別 のプラットフォーム (OS や GUI) の専門技術は展開が早くて覚えたことがすぐに陳腐化します。

このような、知識の寿命の長短をよく見極めた上で、寿命の長い知識については学習する側も腰を落ち着けてじっくりと取り組み、寿命の短い知識については必要に応じて覚えたり忘れたりするという取り組みが、学習時間の無駄 を予防すると思います。

これに関連して、技術情報の入手手段についても同様のコツがあることは知っておくと便利だと思います。雑に言うと「上を見るほど、見るモノは少なくてすむ」と思います。

わかっている人から習うと易しい

学習に関する経験則として、「判っている人から習うと簡単なことが、判っていない人から習うと難しい」ということがあります。わたしは長いことプロセスとスレッドがどう違うのか分かりませんでしたが、先日 OS の開発が専門のエンジニアの人が「「プロセスは資源割り当ての最小単位で、スレッドは実行の最小単位 です」と書いているのを読んで、わかったような錯覚を感じることができました。

つまり、情報獲得手段として良質のメディアを吟味して選択するという工夫が必要だろうと思うのです。悪質な情報をまぜると、かえって理解が混乱させられ、「頭が悪く」なると思います。

ガツンとくる人、場所、時間に学ぶ

もうひとつの経験則ですが「人は自分にとってがつんとくる人、場、時に、学習効率が最大になる」と思います。

教える側と学ぶ側には水準平衡があって、熱力学におけるポテンシャル理論のメタファーに学ぶことができます。温度差があるところには、学習のフラックスが流れます。温度差が大きいほど流れは大きくなりますが、シンク側の流量 が理解速度でボトルネックとなっているため、消化速度以上で学習しても効率が悪くなります。結局、シンクのネックの直径を拡げることが一つ、よい熱源と接することで二つ、このふたつを満たしたとき、学習成果 が効率よく達成できます。つまりは、何かを学習する前に、学習の方法論をメタ学習する必要があるのでしょう。

必要性に根付かない知識は忘れる

人間の理解のしくみを説明するモデルのひとつに「スキーマ」というのがありますが、スキーマに根付かない知識は忘れやすくなります。そして必要性はスキーマ発動の最適イベントです。必要性をベースにして知識体系を構築していくのが、多分効率がよいだろうと思います。

在宅翻訳者にとっての.必要性とは何かを考えてみると、すぐに思い浮かぶのは「自分の翻訳環境を独力で整備する」、「翻訳の生産性を独力で向上させる」、「翻訳チームで仕事する」ということがあげられます。 これらの必要性から出発して知識スキームを構築するといいかもしれません。

自分の翻訳環境を.独力で整備する必要性の例としては、周辺機器の増設、OSおよびアプリのインストール.>「マシン増設から入るハードウェア・OS 入門」、ネットワークの構築、インターネットへの接続.>「LAN構築から入るネットワーク入門」があります。

翻訳の生産性を.独力で向上させる必要性の例としては、訳支援ツールを自分で作る.>「Word マクロから入るプログラミング入門」、翻訳メモリによる生産性向上. >「翻訳メモリ作成から入るデータベース入門」などどうでしょう。

翻訳チームで仕事する必要性の例としては、インターネットを活用したチーム翻訳への参加.>「プロバイダ接続から入るインターネット入門」、ホームページ作成による営業活動. >「ホームページ作成から入るコンテンツ入門」などはどうでしょう。

イマジネーションを飢え死にさせない隠し食料を埋めておく

実務翻訳者は常に「中途半端な知識での作業」を強いられます。 だからこそ、翻訳者にはイマジネーションが必要とされます。 しかし、知識の足がかりがない分野ではイマジネーションを発動しようがありません。 イメージがわけば翻訳はできます (正しく訳せるか否かは別として)。イメージがわかないと一行も翻訳できません。 だから、自分が仕事をする分野においては知識の足がかりをあちこちに設置しておくことが大切です。それがイメージ展開の足がかりになるからです。

生きた知識、死んだ知識

引っ越しするといつか読もうと思って保有したまま読まずに何年も経ち、結局バージョンが旧くなったりして読む価値がなくなった雑誌や専門書をたくさんもっていることに気づいて、よく私は自分の習性がいやになります。私はどうして旧い教科書を捨てられないんでしょう?また、いつか役立つかもしれないと思って、どうせ必要なときにはとりだせない書籍を捨てられないのでしょう?

中には、ひんぱんにアクセスしたり開いたりして頭にイメージがある資料もあります。が、多くの私の保管資料は、何を保管していたかさえ忘れているような、無駄なものばかりです。前者は「生きた資料」、後者は「死んだ資料」と呼べるでしょう。同じように知識にも、「生きた知識」と、「自分のものになっていない、そしてこれからも多分一生自分のものにはならないであろう知識」があります。

生きた知識はしょせんは非常に狭く、不安定で、すぐに旧くなり、持ち主の人間が老いたりぼけたりやる気をなくしたり転職したりしただけで腐敗したり陳腐化していきます。聖書にあるとおり、「知は過ぎ去る」のです。これに対して、自分の外にある知識は、少なくとも人一人の一生よりもずっと永く、ずっと冗長性もあって、バンド幅もひろいです(意味不明?)。ただし、一人の人間の限られた頭脳では、その大河のような知識をバケツで汲み上げる程度のことしかできません。

でも、考えてみると一人の人間が飲む水はその人間がバケツで汲み上げられる程度の水で足りるのです。人間一人が生きていくのにほぼ必要十分な程度のパフォーマンスの MPU とメモリの組み合わせを神は人間に与えたと言えるのでしょう。それをはるかにしのぐような MPU とメモリ容量の持ち主は、もはや人間とは呼べない別の生き物でしょう。

このことは何を意味しているのでしょうか?人ひとりが生きていくのに必要十分な知識はその人間が両手で抱えられる程度の質量で必要十分だということでしょうし、汲み置きして老いた知識は水と同じく腐敗して飲めなくなってしまうものであり、飲み水は基本的に毎朝、川から汲み上げて置いておくものだということではないでしょうか。

言い換えれば、常識的な範囲内の労力で容易に manage できないほどの質量の知識は、あっても役立たないどころか人に害を及ぼすのだと思います。読みもしないファイルが保存されているために HDD の買い増しが必要になったりします。それはまったく、死んだ知識の元にしかならない死んだ資料のための、死んだ投資です。死んだ投資をしている会社は早晩傾くでしょう(経験者語るToT)。

いつか必要になるかもしれないからといって余分な資料を手元にため込むのは、どうせ社員が増えるからといって余分なオフィススペースを用意して、そこからヒマな波動を発生させるのと同じ悪影響を及ぼします。

ということは、そういう、いつ必要になるかわからない資料はすぐ廃棄して、一見お金がかかるように見えても、必要になったときに資料をオンデマンドで購入するほうが正しいということが、これでわかりました。

では、このポリシーを実行するにはどう実装すればいいのでしょうか?たぶん、

方策1:本当に必要になるまで買わない。

方策2:資産は頻繁に見直して不要資産は腐敗する前に廃棄する。

こうしてみると、知識や資料の管理方法は冷蔵庫の中の生鮮食料品の管理方法と共通点があるような気がします(よね?)。


独り言おまけコラム:成長が停まったのは捨てなくなったから?

上の分析でふと怖いことに気づいた。新しい知識の獲得が停滞した時期と、知識を失うのを恐れるようになった時期とは、重なっているような気がしてきた(20代後半か30代はじめかな)。もしかしたら旧いファイルを破棄しないでため込んでいるからこそ頭の限られた RAM を使い尽くしてしまっていて、その結果新しいことを吸収する力がとても衰えてしまってるんじゃない?もしかして、忘れる能力、捨てる能力というのは、新しいことに挑戦する上で必須の準備プロセスなんじゃないのか?

人は誰も年をとるにつれて多くのことを経験し、多くの知識を身に付けるが、日々の生活でそれが淘汰され、繰り返し使う知識は強化され洗練されるが、使う機会のない知識は薄れ、やがて意識上からは消えていく。でも、それでいいのであって、それであってこそ、使わない知識が消えたメモリ領域がガーベイジ コレクションされて新しいプロセスのために使えるのじゃないのかしら。

ということは、忘れること、捨てることは、忌むべきことどころか、歓迎し、プロセスに取り込み、積極的に行うべきことではなかったか?


(2000年8月2日執筆)

利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。