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IT翻訳入門08:翻訳支援ツールと生産性

発表機会:『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2000年7月号掲載(雑誌記事)

1999年から一年あまり『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)という業界誌に「IT翻訳入門」というタイトルで連載記事を書かせていただく機会がありました。現在同誌は年四回発行ですが当時は月刊誌でした。このホームページの内容は、雑誌向けの原稿に加筆修正し、連載と並行して当時のホームページに公開したものです。『通訳・翻訳ジャーナル』の概要は下記のリンクから参照できます。


利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。

翻訳支援ツールとは何か

職業翻訳者でない方は「翻訳支援ツール」ときくと、いわゆる「自動翻訳ソフト」を想像すると思います (ソフトウェアに翻訳をやらせようとする試みを「機械翻訳」と呼びます)。機械翻訳ツールは個人が英語の文章を読み書きするときに補助的に使うツールとしては役立つこともありますが、翻訳を仕事にしている人が機械翻訳ツールを使うことは、少なくとも現状では、あまりありません。職業翻訳者の場合、翻訳先言語 (英日翻訳であれば日本語) におけるライティング品質が要求されるため、機械翻訳ツールの出力をもとに翻訳を行っても、あまりにも修正量 が多くて、最初から自分で翻訳したほうが早いからです。すなわち機械翻訳ツールの主たるユーザーは職業翻訳者以外の人だと考えてよいでしょう。

逆に、一般の人は使わないけれども職業翻訳者が利用するツールというのもあります。そういう (広義の) 翻訳支援ツールとしては、「翻訳メモリ ツール」、「辞書検索ツール」、その他のツール (たとえば改版個所を自動的に調べるツールやファイル形式を変換するツールなど) があります。このうち「翻訳メモリ ツール」とは、自分もしくは他人が過去に翻訳した文章単位をデータベースに登録して、後で同じ (ような) 文章が登場したときに、過去の翻訳を効率よくリサイクルできるようにするツールです。

翻訳メモリ ツールとしてはすでにいくつもの製品が市販されていますが、ここ数年日本の IT 翻訳市場に大きな影響を与えているのは何といってもトラドス社 http://www.trados.co.jp/ の製品でしょう。トラドス社はドイツで生まれ、欧州市場で一定の評価を得た後、1998 年から本格的に日本市場に進出してきました。IT 翻訳の分野で大手のクライアントやベンダーがそろってトラドス社製品を導入したことによって、この分野で仕事する翻訳者はこのツールから大きな影響を受けつつあります。ここでは、(広義の) 翻訳支援ツールの中でも特に影響力の大きい翻訳メモリ ツールをとりまく状況について解説します。(なお、最近では「翻訳支援ツール」というとここで「翻訳メモリ ツール」と呼んでいる分類のツールを指す、と理解される場合も多いようです。これは 「翻訳支援ツール」の狭義の定義と理解してもいいかもしれません。)

翻訳メモリ ツールがもたらした翻訳報酬ダウン

翻訳メモリ ツールが本格的に導入されて現場の翻訳者が受けた最大の影響は、翻訳報酬の実質的なダウンでしょう。従来は同一英文一ファイル内に同じセンテンスやパラグラフが繰り返し登場したり、旧版からまとめて流用できるときは、翻訳者はラッキー気分でコピー&ペーストによって新規翻訳と同等の翻訳報酬を得ることができるケースがかなりありました。しかし、翻訳メモリ ツールを導入すると、そのような「過去に翻訳したセンテンスやパラグラフをリサイクルして利用できる個所」を (ファジーなマッチング部分も含めて) 定量化できます。たとえば I have black eyes. というセンテンスを一度翻訳してメモリに蓄積してあると、次に I have blue eyes. というセンテンスに遭遇したときに、過去の翻訳メモリと 75% の精度で一致しています、というような解析レポートを翻訳支援ツールが自動的に生成してくれるため、発注側は、95% 以上 リサイクル可能な場合は新規翻訳から 70% ディスカウント、94-70% リサイクル可能な場合は新規翻訳から 30% ディスカウント、といった具合に細かく翻訳コストを削減するようになりました。

このようなリサイクル ディスカウント (英語では leverage) は、まずソース クライアントであるソフトウェア メーカーから翻訳会社/ローカライザーへの発注において適用され、その結果、翻訳会社/ローカライザーから個人翻訳者への発注においても適用されるようになりました。このディスカウントで利益を得るのは主にソース クライアントであり、 翻訳者や翻訳会社などの「翻訳の受注側」から見ると、最後に残されていたあいまいな部分でちょっとだけハッピーな気持ちになる余裕を、ほとんど最後の1枚まで徹底的に吹き飛ばしたという意味において厳しいツールとなっています。

翻訳メモリ ツールを購入するだけでは逆効果も

次に、翻訳メモリ ツールが翻訳の仕事の進め方 (「ワークフロー」) にもたらす影響を考えてみましょう。金銭面 における経費削減効果を別にすると、翻訳メモリ ツール導入の最大の目標は一言で言えば翻訳品質を維持しつつ翻訳の生産性を向上させることにあるはずです。すなわち、(1) 翻訳メモリ ツールの導入で翻訳者はコピー&ペーストという比較的単純な作業から解放されて本来の仕事である翻訳に専念できるので生産性が向上する、(2) 新規翻訳を上手な翻訳者が担当し、その他の中級翻訳者が上手な翻訳者の訳をリサイクルしながら参考にすれば、いわば「中級翻訳者が上級の仕事をできる」という意味で全体として翻訳品質が改善できる、という 2 つの効果に期待するわけです。しかし、実際にツールを導入してみると、この目標を実現するためにはただ翻訳メモリ ツールを導入するだけでは不十分で、翻訳メモリ ツールの能力を十分引き出せるように翻訳やローカリゼーションのワークフローを大きく見直す必要があることが分かります。このワークフローの見直しがうまくいかないと、翻訳支援ツールの導入によってかえって生産性や翻訳品質が低下する結果 になります。

たとえば、翻訳メモリのリサイクルを効率よくリアルタイムで行うために、翻訳会社側があるプロジェクトに参加する複数の翻訳者を一同に集めて (=出社させて) チーム翻訳を行う「オンサイト翻訳」がここ数年の流行になっています。このオンサイト翻訳では、誰かが翻訳した個所を次々に中央の翻訳メモリに登録し、その直後から別 の翻訳者が参照してリサイクルできるようにします。この方法は翻訳メモリ ツールの使い方としては一番効率がいいように思えますが、実際にやってみると、(1) 翻訳者メモリに登録される翻訳の品質管理が難しい、(2) TRADOS の場合は参加翻訳者が一定数を超えると翻訳メモリの管理や運用時のスループットが落ちる場合がある、などの問題点に遭遇するようです。

このうち品質管理については、後述する日本語独自の困難性もあって、「他人が登録した翻訳は前後の文脈がわからないため、リサイクル時にどの程度編集していいのか判断が難しい>結局リサイクルできるはずの過去の翻訳をかなり編集しないと使えない>編集した結果 同一英文に対する翻訳が複数登録されることになる>その後で同一英文をリサイクル翻訳する人はどの訳文を使えばいいのか判断する手間が増える」というような展開で結果 的に翻訳品質が下がったり作業効率が期待したほど上がらない結果になったりするようです。

このような状況の背景には、(1) 翻訳メモリの利用に適したプロジェクトとあまり適さないプロジェクトがある、(2) 過去の翻訳メモリをどこまで参照するのかの判断にコツがある、(3) 登録される翻訳メモリの品質管理はかなり困難な作業である、という事情があり、それらの事情に考慮しつつ翻訳メモリ ツール導入の成果をあげるために、優れたプロジェクト マネージャーの必要性がひときわ高まってきました。私自身も経験不足でどのようなワークフローが翻訳メモリ ツールの潜在力を最大限に発揮させるのか模索していますが、今後は優れたプロジェクト マネージャーの経験的知識をなんらかの形で情報共有し、業界全体でワークフローの革新に向けて地道に努力を重ねる必要があると感じます。

以上に述べたことに加えて、翻訳メモリ ツールが産まれた欧州の翻訳市場と日本の翻訳市場では、言語の違いから来る状況の違いがあるのではないかと私は考えています。現在翻訳メモリ ツールで主流となっているセンテンス単位の翻訳メモリ構築は、言語構造が相互に近い欧州言語相互間ではたぶん妥当性があるのだと思いますが、英語と日本語のように言語構造が遠く異なる言語間の翻訳では、文脈に依存する翻訳のぶれ幅をセンテンスという単位 のカプセルには閉じ込めにくいために不利だと感じています。英日間翻訳メモリの場合は、翻訳メモリの単位 をセンテンスでなく、パラグラフに設定したほうが有効性が増すのではないでしょうか。

それでも役立つ TRADOS

いろいろと翻訳メモリ ツールにまつわる課題を書きましたが、それでも私自身は現状で、翻訳メモリ ツールのひとつである TRADOS を利用するメリットがあると感じています (他の翻訳メモリ ツールだとユーザー インターフェイスが異なるため下記に述べる事情がそのまま適用されません。そのためここでは話題を TRADOS に限定します)。

第一の利点として (これは翻訳メモリとは何の関係もないのですが) TRADOS で処理したファイルはレビューのときに英文と訳文の対応が非常につけやすいので、レビューの効率が上がります。これは、長時間翻訳のレビューに従事するチェッカーやレビューアーにとって便利なだけでなく、翻訳者が翻訳後の見直しを行う場合にも役立つと思います。

第二の利点として、TRADOS の導入によるファイル形式が RTF に統一できます。IT 分野で得意先が翻訳を希望するファイルには FrameMaker、PageMaker、HTML、PowerPoint などの形式があり、これらのファイルを翻訳するときに、翻訳者がたとえば FrameMaker の仕事では FrameMaker で上書き翻訳し、PageMaker の仕事のときは PageMaker で上書き翻訳する、というのでは、環境整備にお金と学習時間がかかりすぎて非現実的です。TRADOS を導入すればファイル コンバータによって一般的に遭遇するすべてのファイル形式を RTF に統一できるため、ファイル変換の手間はすべて翻訳会社内にカプセル化(ブラックボックス化)して閉じこめ、翻訳者は常に RTF ファイルを Workbench または TagEditor で翻訳すればよくなるので、道具の収得に費やす時間をかなり合理化して短縮できます。

第三の利点として、同一英文を少しずつ変えた繰り返し個所が多い英文の翻訳や、旧版の翻訳が存在する場合の改版翻訳など、特定の条件を満たすプロジェクトでは、リサイクル翻訳は非常に効果 的です (このことは、翻訳メモリというのは改版翻訳が繰り返し生じる場所、すなわち翻訳者の手元ではなくソース クライアントの手元にあるほうが本質的に有効利用できるということを示唆しています)。

今後翻訳メモリ ツールにはさらに改良が加えられていくことを考えると、今後翻訳者はどんな翻訳のときでもなんらかの翻訳メモリ ツールを使うのが一般的になるのではないかと今は考えています。

重要なのは生産性

翻訳メモリ ツールの導入は翻訳という作業の生産性にプラスに働くはずなので、一見すると翻訳者の収入も増えるような錯覚を覚えますが、以上に述べてきたような事情により、現実には翻訳メモリ ツールを活用して個人翻訳者が収入を増やすケースよりも、得意先の翻訳会社が翻訳メモリ ツールを導入したのに伴って個人翻訳者の段階では翻訳の生産性と報酬が低下するケースのほうが多いような気がします。すなわち、一般 的にはツールの生産性があがっても付加価値は搾り取られるだけというのが原則な気がします。では、個人翻訳者はどうすれば自分の収入を増やせるのかというと、当然ですが何らかの手段により自分が行う翻訳の生産性をあげればよいわけです。

生産性を改善するとはすなわち自分の翻訳速度を上げることと同じですが、翻訳速度をあげるには英文解釈で迷わないとか背景知識があるとかいうことを別 にすると、翻訳に取り組むときの集中力を高めるのが一番の方法だろうと思います。自分の集中力を長期間にわたって安定して制御できる人ほど、コンスタントに翻訳を仕上げることができるでしょう。

翻訳に要する時間を観察してみると、全体の80%の個所はボーとしてても翻訳できるようですが、時間がかかるのは全体の20%の部分に集中しているような気がします。問題はこの 20% の個所 (=自分の知らないことが出てきた個所) に遭遇したときに、いかに「翻訳の手を休めないか」という点にあると思います。一度「翻訳の手を休める」と、逃避への誘惑に負ける危険が急速に高まります。そしていったんテレビだのゲームだと惰眠だのに逃避すると、次に翻訳の仕事に戻ってくるのはますます精神的に負担が重くなると思います。

また、ペースに乗ってこないとなかなか翻訳ははかどりませんが、どうやって自分をペースに乗せるかは=乗った状態をいかにして人為的に作り出すか、は人それぞれにコツがあるようです。ある人はドラッグ ハイ (たばこなど) に頼りますし、別の人は締切ハイに頼ります(締め切りが目前に迫らないと仕事できない「懲りない困らない症候群」!)。 ジャンクフードを食べることに逃避するジャンク フードハイ?の人は肥満でいずれ体を壊すでしょう。

まとめると「ノッテル状態を早く作り、できるだけそれを持続させる」のが翻訳の生産性を高めるわけですから、たとえば比較的自分が翻訳に着手しやすいやさしい内容の個所から訳しはじめてわからない個所は後回しにしておき、後でまとめて考えるのもひとつの方法でしょう。

あと、これは私もまだ知識がないのですが、大脳生理学を勉強して、「脳がどういうときによく機能するか」といった、道具としての脳の特性を把握しておくことは役立つと思います。たとえば睡眠時間について、従来常識とされている 6-8 時間睡眠よりもずっと短い 3-4 時間の睡眠でも、人間は健康を維持して生きていけるというようなレポートを、『クォーク』などの雑誌でみかけますが、私は結構参考になりました。翻訳は言ってみれば「頭の肉体労働」ですから、脳を上手に、長持ちさせて使うことは翻訳者にとってとても重要な課題でしょう。パソコンは買い換えられるが脳は取り替えられませんしね:-)。

生産性に関する話の最後として、人生設計の重要性についても触れたいと思います。翻訳という仕事に取り組むにあたって、「腰を据える」=人生設計が自分で腑に落ちていると、仕事中にあれこれ人生について迷わないですむので仕事の生産性を上げるには効果 があるように思います。一般的に人生設計ができている人は外からの誘惑に強いと思いますし、人生設計ができていると人が生きていく上で感じる苦しみが減るような気がします。だんだん話が発散してきましたので、このあたりでやめることにします。

(2000年4月24日執筆)

利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。