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IT翻訳入門07:得意先とのつきあい方

発表機会:『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2000年6月号掲載(雑誌記事)

1999年から一年あまり『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)という業界誌に「IT翻訳入門」というタイトルで連載記事を書かせていただく機会がありました。現在同誌は年四回発行ですが当時は月刊誌でした。このホームページの内容は、雑誌向けの原稿に加筆修正し、連載と並行して当時のホームページに公開したものです。『通訳・翻訳ジャーナル』の概要は下記のリンクから参照できます。


利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。

翻訳会社の見分け方

在宅翻訳者の場合、仕事で直接に取引するのは多くの場合翻訳会社です。IT 分野の仕事をしている翻訳会社と付き合うにあたって、得意先である翻訳会社との「つきあい方」を知っておくと、いろいろなストレスに対する予防になります。はじめに「翻訳会社の見分け方」について紹介しましょう。

翻訳者の場合、取引先の翻訳会社に出かけていくことはまずありません。電話やメールでコンタクトをとったら仕事が始まって、納品して何十日後かに自分の口座に源泉税を引いた報酬が振り込まれて、翌年の1月に支払調書が送られてくる、それがすべての場合もよくあります。ですから、仕事の相手先がどのようなオフィスを構えているのかもよく見えず、ときには相手が信頼できるかどうか分からずに不安になるのは自然です。

自衛策として、初めて仕事をする得意先については例えば 10 万円前後までの取引に制限しておく、というのもよい方法でしょう。初仕事がそれ以上の金額となり、相手先を信頼できるかどうか不安なときは、打ち合わせにかこつけて、相手の翻訳会社に出向いていって、事務所を見てくるとよいでしょう。たぶん普通 の翻訳会社なら、「わざわざ来ていただかなくても結構ですよ」と言ってくれるでしょうが、「一度ぜひご挨拶したいので」と言えば、いやとは言わないはずです。逆にいろいろな理由をつけて翻訳者の会社訪問を拒むような得意先なら、翻訳者に来られると困るような事情があるのかもしれません。

自宅が翻訳会社の所在地から遠いという理由などで訪問が難しい場合は、電話で得意先の担当者(多くはコーディネーター) に対して、自分が感じている不安を率直に話してみるのもいい方法だと思います。コーディネーターは翻訳者の皆さんと一緒に仕事をするのが仕事ですから、新人翻訳者さんのメンタルな不安についても経験にもとづく対処方法を心得ているはずです。もしも、相手も一緒になって困ってしまったり、怒り出してしまうような相手なら、取引するのはやめておくほうが無難だと思います。

これは他の仕事でも言えることかもしれませんが、直接自分が仕事で対応することになる得意先の担当者 (多くはコーディネーター) の人柄は、自分の直感で判断してそれを信じるのがいいように私は思います。直感で不安を感じる相手は、なんだかんだと理屈をこねて断りましょう。直感で波長が合わない相手といやいやながらつきあって仕事をしても、楽しくないと思います。それよりも、自分と波長が合う担当者は他にたくさんいるはずですから、そういう人をみつけていっしょに仕事するほうがずっといいと思います。

ちょっと話がそれますが、翻訳の仕事におけるコーディネーターという存在は、野球やサッカーの監督に似ていると思います。監督 (コーディネーター) は直接プレー (翻訳) に参加することはありませんが、プレーの結果 である勝敗 (翻訳の品質) を大きく左右します。そういう意味で、いいコーディネーターと仕事しないとなかなかいい翻訳の仕事はできないように思います。もちろんコーディネーターがいくらよくても大元のクライアントの理解と協力が得られないとなかなか仕事がうまくいかない場合もありますから、そういう意味で、「いいクライアント、いい翻訳会社、いい翻訳者」の軸がそろったときにいい仕事ができる、という、書いてみると実に平凡というか当たり前の結論になるようです。

問題のある翻訳会社には他にも次のような兆候があらわれます。

  • コーディネーターが自分の担当する仕事の内容を理解していない
  • 報酬の振込期日がいつなのか明快な答えが得られない
  • 翻訳の単価を翻訳開始前に教えてくれない
  • 発注伝票がしっかりしてない/もらえない

また、新規得意先との初仕事では次のような点がよく問題になります。

  • 契約条件があいまい (単価、支払日、計量方法など)
  • 作業指示があいまい (スタイルガイドの指定がない、など)
  • 作業の進め方などが最初にきちんと説明されないにもかかわらず、納品後いちゃもんをつけて値段を下げる
  • 翻訳中に仕様などが頻繁に変更、振り回されて時間をロスしたにもかかわらずその分の対価をもらえない
  • 仕事を出すという口約束を信じてスケジュールをあけたのに仕事が来ない

新規得意先との取引の心得として「契約をきちんと文書で結ぶ」と説いているガイドブックもありますが、実際に契約に違反する対応を相手がとったときに自分がどういう経験をするのか、最後はどうなるのか、について詳しく書かれているのはあまり見たことがありません。契約の文書化は、その後の法的措置 (当事者間の話し合い、第三者の調停、それでダメなら告訴、裁判...) までワンセットになった一連のプロセスの出発点というにすぎず、契約を文書化すればそれで厄除けの御札のようにトラブルに会わずにすむ、というものとはまったく意味が違います。もちろん、発注単価や報酬の振込み期日などを (メールでもファックスでもいいから) 文書として得意先から受領しておくことはぜひすべきですが、いったん金銭的なトラブルが発生した場合、その対処に要するコストとエネルギーはかなりのものがあると覚悟しておくべきでしょう。

となると、現実的対応策としては、未知の得意先との最初の取引では「こげついてもよい金額だけ受注する」というのが、より現実的な処世方法ではないでしょうか。何かあったら授業料とあきらめられる金額というのは、個人なら5万円以内、会社なら30万円以内というところでしょうか?個人で50万円、2ヶ月かかるような仕事をうけて、それでそのお金がこげついたりすると経済的にもかなり痛いし頭に血がのぼりますから、精神衛生上良くないと思います。


品質における価値観の相違

翻訳者の仕事を2~3年もやっていると、翻訳の「品質」に関して得意先と自分の意見が合わない経験を必ずすることになります。すなわち「自分がよい翻訳だと思って提出したのに得意先からボロボロに言われてしまった」とか「ちょっとの意訳も認めない得意先にぶつかって、自分がいろいろ考えた上で工夫した訳を、片っ端から直訳調に改悪されてしまった」などという経験です。

実は、このような事態に遭遇したときにどう対処するかが、翻訳者としてとても重要なキャリア上の岐路(分かれ道)になると私は考えています。ちょっと乱暴に選択肢を整理すると、対処方法には「職人の道」と「商人の道」の二つがあります。職人と商人とは何でしょうか?私の定義では、「職人とは自分のスタイルで自分の価値観に尽くす人」のことであり、 「商人とは自分のスタイルで他人の価値観に尽くす人」のことです。 「翻訳」という自分の仕事を「商人」としてやるのだ、と覚悟するのであれば、得意先が喜ぶような翻訳品質を探ることになるでしょうし、自分の翻訳は自分なりに完成されている、それをいじるのはできる限り避けたい、という「職人」指向の人はその得意先と縁を切るまでです。どちらが正しいということではありませんが、「職人」指向の人は、その人の職人芸を評価してくれる得意先を1社だけは見つけておくことが生存への最低条件になります。誰も認めてくれない職人芸は、ただの独り善がりですから趣味の範囲で翻訳をやるべきでしょう。稼業 (=自分の生計をささえる仕事) とは呼べません。

私がここで主張したいのは、「職人道」を選ぶにせよ「商人道」を選ぶにせよ、自分の持ち味である「(仕事の)スタイル」を放棄してはいけないと思う、という点です。誤訳などがないのに顧客と翻訳について評価が合わない場合、自分に無理をしてまで自分の(仕事の)スタイルを歪めて相手の好むスタイルに迎合するのは、フリーランスの翻訳者にとって益よりも害のほうがずっと大きいと思います。いったん仕事のスタイルを崩してしまうと、再度それを確立するのに要する労力がとても大きく、その労力に対してはどの得意先もお金を支払ってくれないからです。

お客様は神様ですし、神様に逆らうと仕事がこなくなります。しかしそれでも、自分のスタイルをゆがめるような変なフィードバックは真に受けるべきではないと思います。得意先を1社失うほうが、自分のスタイルを崩すよりマシです。文句をいいたくなるフィードバックをもらったら、納得できる指摘だけ今後の参考とした上で残りの部分は無視する、という態度でいいと思います。


発注遅れへの対処

他の分野のことはよく知りませんが、IT 分野では得意先からの発注がずるずると遅れる、ということがよくあります。というか、英語版の文書がすでに存在している場合を除き、英語版のリリースをまって日本語化を並行して行うプロジェクトの場合は、遅れるのが当たり前のようになっています。これは、翻訳者にとっては (翻訳会社にとっても!) とても困ったことですが、現実です。

IT 翻訳の主たる顧客であるソフトウェア業界がスケジュール厳守体質になる可能性は、当分のところありません。それはたとえばマイクロソフトの OS の発売予定が過去においてずるずると発売時期の遅延を繰り返してきたことを見るだけでも分かると思います。市販ソフトウェアの場合、OS のバージョンアップと同期して自社のソフトウェア パッケージに販売時期をスライドさせる場合もあるため、業界全体でスケジュールの頻繁な変更が体質としてゆきわたっている状況です。

翻訳者としてはこのようなソフトウェア業界の体質を変えられるような立場にいない以上、自分の仕事の仕方をソフトウェア業界の体質のほうに適応させる以外に生き残る道はありません。ちなみにスケジュール遅れには、発注時期が遅れるのと同期して納期も延びる場合と、発注が遅れたにもかかわらず納期が延びない場合がありますが、 いずれにせよ、IT 業界のクライアントのスケジュール アナウンスはあまりあてにならないと覚悟して、最初からスケジュール情報の信頼性の低さを前提にした受注体制を考えることにしましょう。

一番いいのは、ソース クライアントのスケジュールの変動に合わせて他の仕事をアレンジしてくれる翻訳会社と組むことでしょう。そのような仕事の「バッファ」となってくれる翻訳会社が見当たらない場合は、あらかじめ遅れを見越してある程度ダブル ブッキングするという手もあるにはあります。しかし、これは危険な対応策で、ダブルブッキングした仕事が案に相違して両方ともスケジュールどおりに発注された場合、徹夜の連続で泣くことになります。


オンサイト翻訳の増加

ここ1~2年の傾向として、指定されたオフィスに複数の翻訳者が出社し、協力して翻訳を行うという「オンサイト」の翻訳業務が増えているように感じます。これは、TRADOS の翻訳メモリをグループで共有して使うためです。出社することに抵抗を感じる翻訳者の方もまだまだ多いのですが、オンサイト翻訳のよい点もいろいろあります。

たとえばメンタルな部分における自己管理についてはオンサイトで働くほうが簡単ですし、他の翻訳者や品質管理担当者とディスカッションすることは翻訳の勉強にもなります。得意先に恵まれると、翻訳の準備として必要な調査や学習の時間に対しても報酬が支払われますが、これは在宅翻訳にはない大きなメリットです。

また、最近ではネットワーク環境がないと実機チェックできないサーバー アプリケーションなどの仕事が増えていますが、そのようなアプリを実機チェックする環境を自宅に構築できる翻訳者はまれです。オンサイト翻訳では翻訳者を支援するシステム管理者などが参加していますしマシン環境も個人より充実していますから、このような場合の実機チェックも可能なことが多く、それだけ疑問を解決しながら効率よく翻訳できます。

逆にオンサイト翻訳のデメリットとしては、在宅翻訳と比べて職場の人間関係に影響を受けやすくなる点があげられます。通 勤に費やす時間と精神的負担 (満員電車!) もマイナス要因でしょう。そのあたりを嫌うせいか、現状では、力量 があって在宅翻訳とオンサイト翻訳のどちらでも好きなほうを選べる翻訳者は、在宅翻訳を選ぶ傾向が強いようです。


海外の得意先

最近はインターネットを活用して海外の翻訳会社から直接日本の個人翻訳者が仕事を受注するケースもあります。 あらかじめ言葉の壁についてコメントしておくと、メールが発達した現代にあっては、英会話があまりできなくてもメールのやりとりだけで翻訳の仕事を受注することが可能です。メールだと辞書などひきながら時間をかけてメッセージを読んだり書いたりできるので、英会話の不得意な人でもコミュニケーションをとるのがずいぶん楽になりました。 ここでは海外の得意先と仕事をする上での契約と仕事の流れに着目して、海外との直接取引の注意点を紹介します。

1. 業務開始前 (多くは翻訳者登録段階) にNDA = Non-Disclosure Agreement (機密保持契約書) を締結します。翻訳会社側に所定の書式があり、翻訳者と翻訳会社がそれにサインします。

2. 個別業務開始時点に PO = Purchase Order (業務発注書) が送付されます。事前に 電話やメールで打ち合わせた単価とワード数を記載した PO を、ファックスまたはメール添付で翻訳者あてに送付してきます。

3. 納品。翻訳の場合、ファイルをメールに添付して送付したり ftp サーバー にアップロードして納品が多いので、翻訳者から翻訳会社に対して電子メール で送る「納品しました」というおしらせが、事実上の納品書として機能しています。

4. 支払。アメリカの会社の場合、翻訳会社から翻訳者の自宅あてに郵送で小切手を送ってくる場合がほとんどです。日本だと口座振り込みがほとんどですが、 アメリカの翻訳会社で支払い手段として口座振り込みを使う会社はほとんどないようです。送金手数料がかなり高額であることも理由のひとつのようです。

海外の得意先となると、仕事の報酬をきちんと受け取れるかどうか国内の得意先以上に心配してしまう方もおられるかもしれません。上に説明した仕事の流れにおいて業務着手時点で PO を受領しておけ ば、一応発注の証拠文書を得たことになります。PO を発行する翻訳会社には伝票の発行システムが一応は存在しており、PO を発行した時点で経理ソフトなどにその発注内容が登録されていますので、仕事が終わったあとの振込を忘れたりいい加減にしてしまうということは少ないように思います。データベースにデータが残っていると、担当者が処理し忘れていても経理のチェック段階でひっかかるので、ダブルチェックが機能すると期待していいでしょう。

個人的な経験としては、PO がなくて、海外の翻訳会社が直接メールや電話で (特に急ぎの仕事で助けてくれー、みたいな感じで) 仕事を発注してきた場合、 仕事を納品してから PO を発行するように口約束してもらっても、実際に仕事が終わってしまうと相手の緊張もゆるんでしまい、そのままずるずる PO をも らえずにうやむやになったケースが過去にありました。何度かそういう経験を した後、PO なしでは、相手がどんなに電話の向こうで泣き言を言おうが絶対に仕事には着手しない、という原則をうち立てましたが、なかには PO があってものらくらと支払わない会社もありました。得意先が海外の場合、クレームをつけるのも大変です (英語で文句をガンガンいってやれなくて悔しい思いをする) から、 それなりに注意して仕事を受けることをお勧めします。

受領した小切手を換金するのに 2 ~ 3 週間かかりますので資金繰りの際は注意してください。また、小切手を現金化しただけではドルのままなので、円として使うためには為替手数料を負担する必要があります。換金を依頼する金融機関についても、シティバンクのようにマルチマネー口座が簡単に開設できる銀行が身近にない場合は、多少とまどうかもしれません。余談ですが、アメリカの会社は額面 が数百万円の小切手でもごく普通のエアメールで送ってきます。日本人の感覚からすると「こんなちっぽけな封筒でこんな有価証券を送ってくるなんて不安」という気もしますが、それがアメリカ人の感覚らしいですね。ダイレクトメールとまちがった家族に大事な小切手をポイッと捨てられないように注意してください。ちなみに小切手は受取人が表に記載されていますから盗まれても換金はされません。

(2000年3月28日執筆)

利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。