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IT翻訳入門06:スタイルガイドとグロサリ

発表機会:『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2000年5月号掲載(雑誌記事)

1999年から一年あまり『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)という業界誌に「IT翻訳入門」というタイトルで連載記事を書かせていただく機会がありました。現在同誌は年四回発行ですが当時は月刊誌でした。このホームページの内容は、雑誌向けの原稿に加筆修正し、連載と並行して当時のホームページに公開したものです。『通訳・翻訳ジャーナル』の概要は下記のリンクから参照できます。


利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。

スタイルガイドとグロサリ

IT 関係の翻訳仕事を受けると、たいてい最初に「スタイルガイド」と「グロサリ」と呼ばれる参考資料を渡されます。開いてみると、スタイルガイドのほうには「カタカナの連語は間に半角スペースを挿入して表記する」等の日本語表記上の約束事が何十ページにもわたって書かれています。また、グロサリとして渡された Excel のファイルを開くと「capture...キャプチャする」のような英語と訳語の対訳が何百行も並んでいたりします。最初に定義を述べておくと、スタイルガイドは「訳文を書くときに守る表示上の約束事」であり、グロサリは「一般 の英和辞典に掲載されていないが決まった訳語をあてるべき用語の対訳集」です。


スタイルガイドに書いてあること

スタイルガイドを見たことがない方は、私のいる会社のホームページにサンプル版を公開していますのでアクセスしてみてください (http://xtrans.com/styleguide/text.html) 。 スタイルガイドで規定される約束事の一例を以下に示します (例文中の△は半角スペースの挿入位置を示す)。

・「である調」か「ですます調」か?

・半角英数字と全角文字の間の半角スペースの有無

例:白雪姫と△7△人のこびと or 白雪姫と7人のこびと

・英数字は半角が原則、では1文字の場合は?

例:“C言語”の C は半角 or 全角?

・カタカナ連語の間は・か、△(半角スペース)か、何も無しか?

例:オブジェクト・ウィンドウ or オブジェクト△ウィンドウ or オブジェクトウィンドウ

・句読点は “,.” か、それとも “、。” か?

読点はふつう “。” だが句点は注意が必要。

・操作手順の文体は、“~します” か “~してください” か?

例:[File] - [Open] コマンドを選択します。 or [File] - [Open] コマンドを選択してください。

・操作手順の表題は、“~する” か “~するには” か?

例:画面をキャプチャする: or  画面をキャプチャするには:

スタイルガイドは発注元顧客 (ソフトウェア会社) ごとに決まっているのが普通で、もしも発注元顧客から指定がなければ翻訳会社が指定します。


スタイルガイドの構造

特にマニュアル翻訳などでスタイルガイドが使われる理由は、できるだけ翻訳から訳者の個性を脱色して、誰が訳しても同じような訳文になるように仕上げてマニュアル全体の均一感を高めるためです。しかし、実際に複数の翻訳者間でスタイルをきれいに統一するのは非常に困難です。その理由を理解するには、「翻訳の品質における水準」に着目するとよいでしょう。

翻訳品質における水準は、低いほうから順に文字、単語、センテンス、コンテキストという文章の構造に対応して定義されます。「文字」の水準での品質とは「用字・用語 (の統一)」であり、漢字とひらがなのどちらでも表記可能な言葉で漢字を使うかどうか、漢字の送り仮名をどう表記するか、というような点について規定します。「用字・用語」の約束事は規定しやすく、約束事を守っているかどうかの評価は客観的に行えます。

「単語」の水準での品質とは「訳語 (の統一)」であり、これを規定する手段がグロサリです。この水準以下では、スタイルガイドやグロサリが有効な品質管理ツールとして機能します。

「センテンス」の水準での品質は「スタイル (の統一)」ですが、このあたりで約束事による統一が困難になってきます。「ですます調 or である調」の規定はいいとしても、「must は原則として、~ねばならない、と訳す」などという約束事を不用意にここで規定するのはうまくありません。

「コンテキスト」の水準での品質とは「テイスト (の統一)」です。「英語となるべく対応づけて訳すのか、それとも大幅に意訳して訳すのか?」といったことがらをここで規定しますが、この水準では約束事というにはあまりに規定が主観的であり、客観的な評価基準を定義するのはまず無理です。この水準になると、「スタイルガイド」は無力です。


スタイルガイドの裏を読む

はじめてスタイルガイドをわたされた翻訳初心者の方の中には、面倒なその約束事にへきえきしてしまって、毎回仕事のたびにこんなものを読まないといけないのかとウンザリしたり、逆に読むのが大変そうだからさらりと眺めただけで翻訳に着手してしまう方もあるようですが、スタイルガイドを読み解くコツを知れば、もっとうまくスタイルガイドとつきあうことができます。

スタイルガイドを読み解く第一のコツは、約束事の「量」に惑わされないことです。たいていの人は翻訳の仕事以外で日常的になんらかの文章を書いていますから、自分の表記スタイルを指が覚えているでしょう。スタイルガイドはその性格上、ばらつきが生じる可能性のある点をすべて網羅しているためにボリュームがありますが、自分の表記スタイルとスタイルガイドの指示が一致した表記規則についてはふだんの執筆スタイルを変える必要はありませんから、その部分の規定はあらためて意識する必要がありません。言い換えれば、スタイルガイドの中で翻訳中に意識する必要があるのは、「支給されたスタイルガイドの「全体」ではなく、自分の表記スタイルとスタイルガイドとの「差分」だけなのです。

さらに、スタイルガイドは発注元得意先によって異なりますが、ここ数年はマイクロソフトのスタイルガイド第 3 版 (機密保持契約を結んだ翻訳者に対してのみ限定公開) が日本翻訳業界のデファクト スタンダードのようになっています。Windows 上で動作するアプリケーションのユーザー インターフェイス (以下 UI と表記) やヘルプの表記方法を、プラットフォームである Windows の UI やヘルプの表記方法とそろえるというのは素直な考え方なので、Windows の UI やヘルプの表記基準となっているマイクロソフトのスタイルガイドが業界に影響力を持つのは、自然と言えるでしょう。特に IT 分野の翻訳会社各社のスタイルガイドは、このマイクロソフトのスタイルガイドに準じた内容になっている場合が多いので、翻訳者としては、自分のデフォルトの執筆スタイルをこのマイクロソフトのスタイルガイドに合わせておけば、平均的には各社スタイルガイドとの「差分」をかなり小さくできます。以上の 2 つの理由により、約束事の実質的な「量」はみかけよりかなり圧縮されるため、量を恐れることはありません。特に同じ得意先の仕事を繰り返し受注しているときは、2 回目以降の仕事では体がスタイルガイドを覚えているのでかなり楽になると思います。

スタイルガイドを読み解く第二のコツは、約束事の「質」に惑わされないことです。すでに述べたとおり約束事を把握するときにはそれが「用字・用語、訳語、スタイル、テイスト」の 4 つの水準のうちのどのレベルについて記述したものかを見極めることが重要です。用字、用語、訳語に関する約束事は、守る以外に選択肢はありませんし、基準が明確なので守るのが容易です。しかし、スタイルとテイストについては、その性格上、明確な約束事を決めること自体が不可能ですし、無理に規定すると有害です。

たとえば、複数の項目を列記するときに「A または B」、「A か B」、「A あるいは B」はどう使い分けるのが正しいでしょうか?スタイルガイドによってはこのような、微妙な表記の使い分けについても事細かに規定しているものがあります。しかし、このような微妙なスタイルを杓子定規に規定することは翻訳者からライティングの自由度を無意味に奪うことになり、まじめに守ろうとすればかえって訳文の日本語としての流れが損なわれることがしばしばあります。また、たとえば「must と should の訳し分け」のように基本的な言葉の訳し方を不用意に規定してしまうと、スタイルガイドの執筆者が想定していなかった文脈でこれらの言葉が使われたときに適切な訳ができなくなります。そのような文体の微妙なスタイルやテイストに関する規定は、不用意にスタイルガイド内に記載するべきではないと私は思います。無意味な約束事を増やすことはそれだけ翻訳者に余計な負担をかけることになり、本来は訳文の内容理解に配分できたはずの翻訳者の注意力を、必要以上に文体への配慮に浪費させる結果 になって、翻訳品質の改善という意味からもかえって有害です。

そのほかにも、「英文の表記内容をよく理解した上で正確な訳になるよう注意すること」のような、スタイルガイド以前の翻訳の原則にすぎない類のことに紙面 を浪費しているスタイルガイドもあります。これは法というもの一般に言えることですが、愚かな法律をたくさん作って刑罰をもって市民に強制することは、法を守らねばならない立場の市民の不満を高めるとともに法を尊重しようとする心を衰退させ、本来その法が意図した目的の達成をかえって難しくするだけでなく、ひいてはその法を定めた愚かな為政者に対する憎悪を市民の心に芽生えさせるものです。スタイルガイドを規定する立場の得意先や翻訳会社の方には、ぜひその点に配慮して必要にして最小限の約束事だけを盛り込んだミニマルなスタイルガイドの制定を目指すよう努力していただきたいと思います。また翻訳者としては、支給されたスタイルガイドがテイストやスタイルに関して不用意な約束事をたくさん含む悪質なものだった場合にはそれを鵜呑みにせず、良識にしたがって約束事の是非を判断すべきだろうと思います。


「UI リソース」とは?

ソフトウェア マニュアルの翻訳で使う訳語集には、「リソース」と呼ばれる特殊な用語が含まれるときがあります。

グロサリに関連して「リソース」という言葉が使われる場合、それは「UI リソース」、すなわちソフトウェア本体をローカライズするときに翻訳されるソフトウェア内の翻訳対象要素 (メニュー名、コマンド名、ダイアログ ボックス、エラー メッセージなど) を指します。

リソースの翻訳とマニュアル/ヘルプの翻訳は独立した作業として行われますが、マニュアル/ヘルプの中ではリソースを参照する個所がたくさんあるのが普通 なので、もしもリソースを含むグロサリが支給されていて UI は翻訳するという指示であれば、ドキュメント内に登場する UI は、いちいちグロサリを参照して訳す必要があります。

ただ、一般的にはリソースの翻訳はマニュアル/ヘルプの翻訳と並行して行われるか、あるいはマニュアル/ヘルプの翻訳より後にまわされることが多いので、その場合はグロサリの翻訳がリソースには含まれず、マニュアル/ヘルプの翻訳では UI を英語のまま残すように指示されます。UI を翻訳するかどうか指示が明確に示されていないときは、翻訳せずに英語のまま残しておきます。これは、ソフトウェア側ですでに別 の人がリソースの翻訳を行っている可能性があるので、作業の重複と同一英文に対する異なる訳語の混在を避けるための予防的措置です。

ちなみに、Windows の翻訳仕様ではリソースは半角の大かっこ []で囲み、前後の文字との間に半角スペースを挿入することになっています。

例:[File]△メニューの△[Open]△をクリックします。

グロサリにリソースが含まれている場合、リソースは通常数が多いのでグロサリも数千項目に膨れ上がることがよくあります。リソースを含まないグロサリでは、そのソフトウェア製品のマニュアルに登場する用語の対訳が規定されていますが、新規翻訳の製品の場合は 100~200 個前後、歴史のある製品では数百個の項目がピックアップしてあることが多いようです。


グロサリの検索と新規訳語

グロサリはテキストか Excel のファイルで支給されることが多いのですが、そのままのファイル形式では検索効率が非常に悪いので、翻訳者としては grep または電子辞書で検索できるようにファイルをコンバートするのが一般的です。

grep は対象ファイルから指定文字列の登場個所をみつけてくる機能で、たとえば WZ Editor などで提供されていますが、検索が非常に早く、複数の登場個所を一度に表示してくれるため、Excel や Word の検索機能を使うよりも便利です。また、電子辞書として pdic を使っている人は、支給されたグロサリを pdic の辞書として登録するという手もあります。

グロサリに規定された用語なのに、訳語を見落としてグロサリと違う訳をあてるのはもちろんいけませんが、グロサリがやせていて、翻訳中に登場する言葉があまりグロサリに掲載されていないときにも注意が必要です。この場合、グロサリに登録してほしい用語を翻訳者のほうでとりまとめて、翻訳を納品するときに「新規訳語(案)」として翻訳といっしょに得意先に提出するのが模範的な対応方法です。

ただ、この「新規訳語」の決め方にはひとつ落とし穴があります。通常ソフトウェア マニュアルの翻訳は複数の翻訳者が分担して同時並行に翻訳を行っていますから、グロサリにない新規用語が複数の翻訳者の担当範囲に別 々に登場したときに各翻訳者が異なる訳語をあてる可能性があります。それを予防するには、同一プロジェクトに参加する翻訳者全員が円滑なコミュニケーションをとりながら翻訳を進める必要があります。在宅翻訳者が多い場合はメーリング リストをつかって新規訳語情報を準リアルタイムに共有するとか、新規訳語のとりまとめ役 (通称「グロサリ大臣」) を任命して、大臣が新規訳語の認定と通知に責任を持つとか、なんらかの情報共有のしくみが必要になります。

(2000年2月24日執筆)

利用上の注意:このホームページは執筆当時(1999-2000年)の状況について述べており、すでにかなりの記述が「時代遅れ」となっていますが、原則として当時のままの内容を修正せずに公開しています。ご注意ください。