日々雑感

なんとなく、日々感じたことを書いていこうかなー、と

捏造された不安感


 ここ一年以上続いている、コロナ騒動を見ていてひどく危惧することがある。

それは、「偏った情報による悲惨な結末」の予感である。

歴史を紐解くと、いくらでも出てくるのだが、近代日本で言うと、太平洋戦争時の一億玉砕を思い浮かべてしまう。

知っての通り、悲惨な結末を迎えるのだが、今回のコロナ騒ぎが太平洋戦争時の日本の状況と非常によく似ている気がして怖い。

戦争の開戦については、アメリカが仕掛けた説や日本の軍部の独断など、諸説いろいろあるので、そこには言及しないが、戦時下の日本の情報統制は、ひどいもので、新聞やラジオなどのメディアは政府の統制下におかれ、自由な報道など不可能になっていて、大敗戦をした戦いを隠蔽し、国民には真逆の大勝利と報道し、思想的には、一億玉砕を鼓舞し、戦争に反対する人達を非国民呼ばわりし、隣の人が隣の人を見張るような、陰惨な監視社会を作り出し、結果、数百万の命が失われた。

 この状況が、今回のコロナ騒ぎと酷似しているのだ。

偏った報道により、必要以上に恐怖心を煽り、人々に考える力を失わせ、一方向にしか、思考が向かないようにさせている。

戦時中と同じように、人が人を裁く社会になりつつあり、その主な原因となっているのが、この、捏造された不安感な気がしてならない。

人が人を裁く根底には、「〜は〜でなければならい」的な暗黙のルールが存在し、それが守られないとき、裁きがはじまる。しかしだ、果たしてそれは、公正なことなのだろうか?大抵の「〜は〜でなければならい」は、ある一定の者達が優位になるような、仕組まれた、作為的なルールでしかない。今回の新型コロナウイルス騒ぎも、メディアや政府の対応を見る限り、確たる科学的根拠も示さず、いたずらに不安感を煽り、ほぼ盲目的に(それが本当のことかどうか、考えも、調べることもなしに)メディアの「〜は〜でなければならい」を厳守する人を生み出している。そして、その仕組まれたルールを守る人が、守らない人を裁く(誹謗中傷する)という、痛ましい対立構造を作り上げているのだ。

不安は、人の考える力を奪い、冷静な判断力を極端に衰退させる。結果、声の大きい者たちの言葉を盲目的に信じ、実行することになる。

不安や悩みを持った人達が、怪しげな宗教にすがるのと同じ構造だ。

自分で答えを探すよりも、誰かに答え(あっているかどうかもわからない)を示してもらうほうが楽だからだ。

大抵の不安は、事実を知ることにより霧散する。例え、自分にとって残念な結果だったとしても、動かせない事実がある以上、それをどう処理していくかだけの話である。知らないから不安になる。もっと言えば、知ろうとする努力をしないから不安になるのである。

 すべての情報には、その情報を伝えた者のフィルターがかかっていることを忘れてはいけない、この文章もそうだ。

なので、手に入れた情報を鵜呑みにすることなく、己の中で精査し、フィルターのかかっていない物を洗い出す、という作業を意識することが、とても大事だと思う。それを行わないと、ゴミのような虚実混交の情報に左右され、大切なものを失うことになる。

いろいろな意見や考え方があっていいと思う。

ただ、人が人を裁く社会には、断固として「ノー」と言いたい。

のんびり、夕日でも眺めながら、気兼ねなくお茶を楽しめる日々を、早く取り戻したいものである。

ある学校長の勇気


ここ数十年で、人に会って、こんなにも魂が揺さぶられることはなかった。

その人は、昨年度まで、とある中学校の校長先生をしていた。

昨年度、世間は新型コロナウイルス騒ぎで各学校機関も様々な対策を余儀なくされていた。

マスク、ソーシャルディスタンス、分散登校、徹底した手指の消毒、これでもかという過剰な対策を生徒達に強いることとなった。

最初のうちは、彼も未知の情報の中、他校と同じように一般的な対策を行っていた。

しかし、ある時「これはおかしい」と思い、そこから各専門家達にアポイントメントを取り、徹底的に今回の新型コロナウイルス感染症について調べ上げ、本当に必要な対策を打ち出し、保護者や生徒達など各関係者が不安にならないように、ひとりひとり丁寧に、その説明を行った。

誤解のないように書いておくが、彼のいる中学校は厚生労働省や文部科学省のガイドラインを無視した対策をしたわけではない。

むしろ、それらの機関の示すことを忠実に守って対策を練り上げたという。

どいうことかというと、大抵の一般的な対策というものは、ガイドラインを拡大解釈しているということだ。必要以上の距離をとったり、ちょっと咳をしただけで出席停止扱いにしたりと、ガイドラインには書いていない過剰な対策を行っていることがほとんどだという。

 彼の最初の違和感は「美しくない」というものだったという。「正しいものは美しい、美しいものは正しい」というのが彼が物事を判断する上での物差しとなっているのだ。

それからの彼の行動力は凄まじかった。「何故美しくないのか?」という動機から、先にも書いたように様々な専門家にアポイントメントを取り多大な情報を手に入れ、納得行くまで考察を重ね、他の教職員にも納得の行くような説明をし「責任は全て俺が持つ」と言い、不安をもつ保護者達には直接説明にいった。

それに割く時間や労力は並大抵なものではなかったはずだ。

「大変だったでしょう?」と聞くと「全然」という答えが帰ってきた。

彼にとっては生徒達の健やかなる未来が全てで、他のことなど些末なことでしかなったのだ。

お互いの表情が見えない状態でのコミュニケーションは質が低下する。

それは、コミュニケーションを根幹とする教育現場に置いては致命的とも言える。それを極力防ぐため、感染症対策と教育の質との落とし所を見つけ、臨機応変に対応したのだ。

言えば簡単そうに聞こえるが、一体何人の人がこれを実行出来るだろうか?

メディアの情報を鵜呑みにせず1から自分で調べ上げ、ガイドラインは忠実に守っているとは言え、他校とは一線を画する対策を行い、反発されるのを分かっていながら、保身に走らず、同調圧力に屈せず行動できたのは

「生徒達の健やかなる未来」という一点の曇りのない、彼の想いがなせた技だ。

言うなれば彼の生徒達への深い愛情と、それをやり抜く勇気がなせた技なのだ。

このことに、僕は本当に頭が下がる思いでいっぱいになる、そして、こういう人が実際に存在していることに奇跡を憶える、人の為とかいいながら、実際は誰もが自分のことでいっぱいなこの世の中で、ほんとうの意味で人の為を思って行動出来る人がいるなんて、下手すれば校長を首にされ世間から吊るし上げられることも覚悟の上で、すべての責任は自分が取ると腹を括って行動を起こしたのだ。

こんな人に出会えたことに本当に感謝したい。

そして彼はこうも言っていた「少なくとも学び舎の中の生徒達には、物事の本質を見つめ、科学的根拠に沿って論理的思考をさせたい。そして、そうやって導き出した答えの中から美しいものは美しいと感じ、正しいことは正しいと思える人になってほしい」と。

なんと、美しく深い言葉なのだろうか。

このような、宝石のような言葉や真摯な行動を頂いた生徒やその保護者達は本当に幸せだったと思う。


そうして彼は、ブレることなく校長の任を全うし、卒業生を送り出しっていったのだ。

本人も納得いく、満足感のある校長生活だったと思う。

実際、見せていただいた生徒達の写真はとても笑顔に溢れ、充足感に溢れるものばかりだった。

最後になるが、彼本人の了承を得て、彼自身の言葉を転載させていただきたいと思う。

少しでも、そこから彼のユーモアや包容力などの人間性が伝わてくれればと思う。


蛇足にはなってしまうが、僕はこの文章を読んで、彼の生徒達へのほとばしる深い愛情を感じ、涙せずには読めなかった。

以下、彼の卒業式式辞からの文章抜粋

「大人を信用しないこと」から始まる中村氏の言葉は、ともすると誤解を生みます。「人を見たら泥棒と思え」の類と同義に考えてはなりません・・・文中の「本質とは何かと、鋭く見ていくことが大切」・・・これこそが中村氏が最も言いたかった部分です。

 「人を疑う」ということと、「真理を追求する」ということは似て非なるものです。

 中村哲(1946年9月15日 - 2019年12月4日)という人がどういう人だったか、これまで知る機会がなかった人は、是非、自分自身で調べてみてください。そこから、この発言の意味が見えてくれば“しめたもの”です。

 私たちは、今、正に「情報戦争」の真っ直中にいます。しかも、「どの情報が正しいか」などという生やさしいものではありません。もっと過酷な「現実」と「仮想空間」の狭間にあって、「正しい」か「正しくない」かより、自分の情報を、どちらがより相手に信じさせられるか、とでも言える世界です。・・・が、そんなものは本質とは程遠いものです。

しかし、それでも「真理」は必ず存在します。君達はそれを見極める力を獲得していかなければなりません。日本の、そして人類の明るい未来を築くために。 

そのために私が君たちに送り続けてきたエールが「右脳を鍛える」・・・科学的根拠を土台に、論理的に思考することです。

 

元気で逞しく、そして、聡明な人に成長してくれることを心から願っています。

 

これまでの道を離れ 未踏の森に挑め(そして)新しきを探れ

独立共生への道

 

去年の5月、世の中が新型コロナで大騒ぎしているさなか、フッと「自分の家庭を独立国家にしよう!」と思った。日本政府の方針や、それに同調する人達と自分の考え方に大きな差異を感じ、周りに無理して合わせる努力をするよりも新しく国を造るほうが楽だなという怠けた思いが動機だ。

 そう思ったら、それまで感じていた重苦しい気分が、急に楽になった。

「自分の国をどう運営していくか?」

それを考えると、とてもワクワクしてきたのを憶えている。

国の基本指針をどういうものにするか?

食料及びエネルギー自給率をどう上げるか?

自国にない教育機関をどう補うか?

医療機関をどうするか?

などの国の運営に関する様々な案件が出てきて、それに伴って「じゃあ、どうする?」的な感じで

食べられ野草の知識をつけよう

自然農の技術を身につけよう

不食の研究をしてみよう

方針の合う留学先を探そう

自国の学校をつくろう

野口整体や操体法など、様々な手当てを習得しよう。

などの具体案がたくさん出てきた。

(エネルギー自給などは、ほぼ完成していて、ガス、水道、電気等の光熱費は、全部合わせても、日本円にして、月2千円前後で済んでいる)

 そうして、楽しく色々考え実践していたのだが、そのうちに行き当たってしまったのが外交問題だった。

独立国家と言っても、法的に認められているわけでもなく、ただ単なる意識の上での独立国家に過ぎないので、日本国民であることに変わりはなく、様々な罰則や税金の摂取など、日本の法的な拘束力が働いてしまう。

そして、日本の政策と自国の政策はあまりに違う。

それだと結局は、少数派でなんの力もないおかしな人に過ぎないので、大多数の意見に圧力を受け、潰される危険度も高い。

そこで、考え付いた答えは、似たような考えを持っている友人達にも独立国家化をオススメして友好国になってもらおう!ということだった。

そうすれば、単なる「少数派」が「沢山の少数派」になり、結束も出来て「大多数」に対抗出来るかもしれない。

うん、それが楽しいし嬉しい。という脳内会議が行われた。

 最初の動機は、どちらかというと「日本はもういいや、自給自足して楽しく暮らそう」みたいな、世捨て人的な怠けた考えだったのだが、こうやって、いざ独立国家にしようと真面目に考えていくと、孤立化するのでは成立せず、周りとの関係がより重要になってくるのがわかってきた。

なので、単に「独立国家」にする。というよりも、意識上の「独立」という考えと気構えを持った人達が、互いに影響し合いながら国家を形成していこうという方向に考え方がシフトしていった。

「独立共生」とでも言ったらいいだろうか

 そういう意識を持って日々過ごしたほうが、世捨て人感がなくなり、より切実に目の前の人や物事に向き合うようになる気がしたのだ。

それに独立の意識を持つということは、自分の人生を人任せにしないという事にもなるので、生きている実感が持てて楽しい。

 ただ漠然と「日本国民である」と思うよりも、「日本の中の一独立国だ」と思ったほうが、日本政府の方針を冷静に判断できるし、その方針に無関心ではいられなくなるはずだ(自国に対して大きな影響を及ぼすがゆえに)

結果、日本という国そのものが、独立の意識を持った、面白い変な人が増える事になり、自然に日本自体が面白くなる気がするのだ。

それと「独立共生」を意識しだしてから、世の中のいろいろなことに、あまり腹が立たなくなってきた。

なんだか妙に優しい気持ちになれて「この人はこういう考え方なんだな」と温かい目で見れるようになってきた。

恐らく、今までは、社会の一員として自分の考え方を認めてもらおうと躍起になっていたのだと思う、それが独立を意識することによって、誰かに認めて貰う必要がなくなったので、真逆の意見でも「それもアリだよね」みたいな感じで、尊重できるようになった。

 今の社会に対して不平や不満はたくさんある。それに対して改善するべく、声を上げ、様々な活動をすることは、とても大事で必要なことだと思う。でも、それよりももっと手っ取り早いのが、一人ひとりがちゃんと心の声を聞いて、自分の人生を人任せにせずに、いきいきと生きることを選択すれば、自然に社会は良い方向に向かっていく気がするのだ。

そんな、人が本来の自分を生きる意味を見出す手助けになると信じて、意識の上での独立国家、「独立共生」という考え方をオススメしたいと思います。

独立国同士で、お互いの国家構想でも話しながら、楽しくお茶飲みしましょう。